第17回 「イトーヨーカ堂の撤退」をマーケティング視点から考えた。

2024年2月23日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生

コロナ禍に見舞われる前年に市民団体の「福島の芸術ホールを創る会」に招かれて講演をしたことがあります。その少し前に同じような趣意で岡山でも市民団体で講演をしていました。私はホール設置検討委員会の有識者枠の委員は絶対に引き受けないという私的なポリシーがあって、出演者にも鑑賞者にとっても絶対に良いホールにはならない、という過去の事例を山ほど見て来ているからです。竣工すると「誰のために巨額の税金を費やして」設置したのかが分からなくなるひどい事例ばかりだからです。しかも、委員たちには一向に責任は問われない。その地域に見合った新たな地平を切りひらくホール経営への提案こそが第一なのに、それには「文化振興」とか「芸術に親しむ環境」とかの、何を言っているのか不明なものばかりです。多くのケースでは2000キャパ前後の建設計画を持ってくる市職員ばかりなのですが、それは「鑑賞環境」を著しく損なってホール経営に不可欠なリピーターを醸成する経営には不適であり、岡山市職員の時も、持ち込まれた2000案を私は役所の机上の推算に呆れた記憶があります。劇場経営の「常識」を疑ってゼロベースで革新を考えるべきなのに、収支のみに囚われれば当然キャパシティは大きくなるばかりです。継続客を生むための鑑賞環境が疎かになるのは当然の帰結です。年度末の評価では収支均衡を厳しく問うにもかかわらず、それに見合った設置計画時のホール経営の杜撰さには口をつぐむ不条理に私は我慢がなりません。したがって有識者枠の委員の就任依頼は断るのですが、良いホールが欲しいとの市民の皆さんの希望には、私の経験値から進んで寄り添いたいと常々思っています。

「あーとま塾」で久しぶりに訪れたアーラで、たまった郵便物の中に「福島の芸術ホールを創る会」の機関紙がありました。封をといて開いたら、いきなり「福島駅東口再開発ビルのコンベンション施設見直し」のトップ見出しが飛び込んできました。福島民報新聞の記事の転載で、「再開発ビル規模縮小検討」の小見出しの下には、「資材をはじめとする物価高や人件費の上昇が要因」という今日では珍しくなくなった計画遅延の事由が書かれていました。議会答弁によれば、東口のピル群の解体工事の進捗率は11月段階で72%ということで、竣工時期がずれ込むことで福島駅東口の空洞化による影響は大型ショッピングセンターの解体による高齢者の買物難民化も懸念されて、周辺住民の生活にも看過できない事態も予想されます。あわせて、新しい情報である駅西口のイトーヨーカ堂の5月撤退も取り上げられていました。市長答弁によれば「東口再開発と合わせて駅東西一体的なまちづくりを検討する必要」とされ、「財源確保に向けた調整に加えて、市コンベンション施設を含め、踏み込んだ見直しを行うことも視野に検討しなければならないと考えております」と、この計画がいささか徳俵に足がかかっていることを感じさせるものでした。しかし、財源確保もイトーヨーカ堂の撤退で生じる

東西を結ぶペデストリアンデッキの設置等は行政が市民の付託に応える使命であり、また強みなので、様々な課題を解決するだろうと期待するしかないと、私は考えます。一つだけ気になるのがMICE(Metting, Incentive Travel, Convention,Exhibition /Eventの頭文字を使った造語でこれらのビジネスイベントの総称)を企図するコンベンション施設が文化芸術の上演に対応できる仕様となるか否かです。その点は後述します。

何よりも私の関心を惹いたのは計画にさらなる負荷を与えることとなった「イトーヨーカ堂の撤退」です。マーケティングの観点からは、総合スーパーマーケットという業態が、実は「徳俵に足がかかっている」曲り角なのではないかという時代を映している「終わりの始まり」ではないかの疑問が頭をもたげました。劇場経営をするには、政治・経済・社会に感度のよいアンテナを張っておかなければならない、と職員に促してきた私としてはセブン&アイ・ホールディングスの動向を検知していなかったというのは迂闊だったと自らを恥じていますが、そのうえ講演を受けた「福島の芸術ホールを創る会」に大きく影響する事案を見落としたことを猛省しています。昨年10月に「セブン&アイ・ホールディングスと、アメリカの投資ファンドであるバリューアクト・キャピタルとのバトルが過熱している」とのリードで「セブン-イレブンをスピンオフさせ、同業他社並みに成長したとすれば、株価は今後6年間で3倍程度上昇する」とするファンド側の主張に対して「コンビニとスーパーという異なる事業間に『定量化できないシナジーがある』と繰り返すセブン&アイ側の考え方が激しく対立していたという。そして、同月26日で米国ファンドのバリューアクト・キャピタルは株主リストから外れていたという。イトーヨーカ堂の閉店は、福島だけではなく、北海道・東北・信越地方の17店を閉鎖するという。全国の10%強の店舗を今春以降に順次閉める予定だという。セブン&アイ・ホールディングは、イトーヨーカ堂33店舗を26年2月末までに減らし首都圏など都市部中心の体制に移行する計画なのだという。物流の専門家からは「1階の売り上げを2階が縮小した」という指摘がなされています。つまり総合スーパーが力を失った最大の要因は、非食品部門の売り上げを専門店チェーンに奪われたことにあって、その回復のための投資は無駄であるという「選択と集中」との経営哲学が背景にあります。専門店チェーンとは、ユニクロなどのカジュアルアパレル、ニトリ、ABCマート、ドラッグストア各社等の商品ジャンルごとの専門店を指します。

しかし私は、この物流専門家の指摘する要因にいささか疑問を持っています。「Windows95」が世界一斉発売される7年前に出版されたドン・ペパーズとマーシャ・ロジャースの共著であり、私淑していた慶應義塾大学のマーケティングの権威だった井関利明先生の翻訳紹介していた『ONE to ONEマーケティング』を読んだ時の衝撃と潜在顧客とのコンタクトポイント(顧客接点)に大きな変化をもたらす考え方に強い共感を持ったことを思い出します。つまり、アウトバウンド媒体であるチラシやポスターやテレビに依存する広報宣伝のマス・マーケティングの常識をITで覆す思考回路に私は驚嘆したのです。従来のマーケティングは不特定多数に情報を一方向に、まるで川上から川下に、誰が受け取るかもわからない大量の情報を流すのが一般的だったわけで、それが近未来の技術革新で「経済学の基礎もなく、マーケティングの基礎理論も知らない浅学の私には『ONE to ONEマーケティング』はかなりの難物であったが、『新しい時代が来る』との予感を持たせるに充分な内容だった」と館長エッセイに「近未来的なマーケティングを予言した書」と2017年5月に書いています。そして、それは間違いなく、21世紀の4分の1を過ぎた現在で決しても旧くなっていないと考えています。

その時のことを振り返って「館長VS局長」のウェブ連載の第72回に『商店街の八百屋の親父のように』との題でまとめています。『ONE to ONEマーケティング』を読み終わってすぐに「脳裏に浮かんだのが、『これは何処かで見たことのある売り方だなぁ』という思いだった。『いつか見た光景』だと感じたが、しばらくは思い当たらなかった」としています。この頃には、私の生まれ育った下北沢も2軒の大型スーパーマーケットの進出によって、4つあった商店街連合会は機能不全となって、多くの個人店舗は店仕舞いしてテナント賃料収入に依存するようになっていました。寂れてはいないものの、活気は以前の生活感のただようものとは違っていました。『商店街の八百屋の親父のように』は次のように記しています。少し長くなりますが引用させてください。「『ONE to ONEマーケティング』を読了して数ヶ月経った頃に、近所の商店街で比較的遅くまで残っていた八百屋と酒屋が代替わりした時の『これから、大丈夫かな』と感じた時のことを思い出した。70年代の頃である。その頃には酒屋は『量り売り』も店頭での『もっきり』(立ち飲み)もなくなり瓶詰や缶詰などのパッケージ商品のみの商いになっていたが、八百屋はまだ陳列台に野菜や果物や自家製の漬物を並べている昔からの業態で、馴染みのお客との会話が普通に飛び交うような店だった。

代替わりは店主の死によってなされたのだが、あの『親父さん』の死は商いにとって相当な打撃だろうと想像した。まだ老齢になった『お母さん』はいたが、私の『大丈夫かな』というのは、若い店主になるのだからむろん店を切り盛りする『労力』のことではなく、『親父さん』の馴染み客との関係のことだった。この際の『関係』とは、『親父さん』が長年かけて積み上げてきた顧客のライフスタイルや嗜好や家族構成などに関する知識に他ならない」と、井関先生から学んだ「リレーションシップ・マーケティング」の根幹に触れる直感でした。八百屋の親父さんが蓄積した半径せいぜい300メートル程度の顧客データベースこそが、商いの源泉であり、お得意さんの数ではなく、その切り結んだ関係の品質こそが売り上げに直結する商売をしていたのです。「人と人をつないで売り上げを伸ばす。まさに『商い』の極意であり、その八百屋は馴染み客にとっての『小さなコミュニティ』だったのです。したがって、どんなにご近所の便利なところに八百屋が新規開店しても、ちょっと遠い馴染みの店に足をのばしても買い物に行くことになる」と近刊の『人間の安全保障としての文化芸術』で言及する数量信仰に囚われたマーケティングとは位相の異なる「関係品質のマーケット」へ向かう原点を述べています。

大店法施行以降、どの町にも郊外にいくつかのスーパーがあって、多くの買物客で賑わっているが、スーパーやコンビニはポスシステムでレジの入力が中央の演算センターにデータが送られ、集積されて、この町と店舗の「売れ筋商品」や季節毎の「売れ筋」が統計数字として出ていて、そのエリアのスーパーマーケットの品揃えはどのスーパーに行ってもほとんど変わらない。どこかのスーパーで仮に食中毒事案などの不祥事があっても、別のスーパーに乗り換えればよいだけのこととなります。代替えの利く店舗なのです。スーパーの店員は陳列棚に品物を並べるだけの社員で、顧客との「関係づくり」の役割は持っていません。そのような「関係づくりの変数」を限りなく零に近づける経済合理化と経営効率化によって成立しているスーパーやコンビニが失ったものは、顧客とのリレーションシップという経営資産に限りません。「体温」のある顧客との関係を失ったわけで、失った経営資源は計り知れないと私は考えています。また、顧客相互で結ばれる「つながり」という人的ネットワークという経営資産までも失ったのです。私が「終わりの始まり」かも知れないと「イトーヨーカ堂の撤退」から直感したのはそういう理由があるからです。「合理化と効率化」にあまりに囚われて、経営が近視眼的にはなっていないか、私たちは不断に自問しなければならないと考えます。

冒頭の「MICEを企図するコンベンション施設が文化芸術の上演に対応できる仕様となるか」ですが、正直言ってかなりの違和感はあります。音楽ホールと使用するにはどうしても音響反射板の設置が必要です。可児市文化創造センターalaのような自走式の反射板であれば、照明機材や一文字幕、中割幕、ホリゾント幕を吊るバトンの数に制約はないのですが、反射板を格納できるだけの舞台の奥行きが必要となります。いきおい客席数の減数が求められます。一般的な吊り物タイプの構造の反射板となると、バトンの数に大きな制約がかかって、演劇やバレエ、オペラの上演は難しくなります。そのことは「福島の芸術ホールを創る会」も、福島駅西口にあるコンベンション施設のホールや飯坂温泉にあるパセルいいざかの大ホールを視察していると推察するので、演劇やバレエ、オペラの上演には不適で、仮に音楽ホールとして使用するにしても音響反射板の設置は必須であることは了解していると理解しています。どのような選択をするにしても、計画見直しの財源の確保はさらに必要となります。ならば、MICEを主目的とするコンベンション施設の中のホールを「福島の芸術ホールを創る会」は承諾したのかですが、その経緯は分かりません。「MICE」とは、企業等の会議(Meeting)、企業等の行う報奨・研修旅行(Incentive Travel)、国際機関・団体、学会等が行う国際会議(Convention)、展示会・見本市、イベント(Exhibition/Event)の頭文字を並べた語彙であり、多くの集客交流が見込まれるとされるビジネスイベントの総称です。その研究者の知見では、

「一般の観光と違い、MICEはグローバル企業や学術系の団体の関係者やその家族が世界各地から訪れるため、大型団体となるケースが多いのが特徴。また滞在日数も多く、開催後にはパーティや周辺観光が発生するため、コンベンション施設や展示ホール、ホテルなどの宿泊関連施設、周辺の観光施設や運輸機関、さらにはイベント関連業者など、広範な分野に多大な経済波及効果をもたらします」と説明されています。組織による経費の負担比率が大きいので、1人当たりの当該地への投下金額が多いのが特徴としています。

いま私は「福島の芸術ホールを創る会」での講演を採録した機関紙の校正原稿を、PCのメモリーの底の底から探し出して読みながらこの原稿を書いています。講演後のフロアからの質問を見ると、「福島市は駅前にコンベンションホールをつくれば交流人口が増え、賑わいが創出できると言っています。全国各地のコンベンションホールで成功している例はありますか?」とか「市の懇談会で客席数が1500人を超えると収益が上がって採算がとれると言われたのですが、それは本当なのでしょうか?」というものもあって、行政が落しどころを想定して市民を誘導していることが窺がえます。前者については専門外ですのでエビデンスとなる統計数値があるのか否か確答は控えますが、「1500席を超えると採算性の確率が上がる」というのは、誰に聞いたのか分かりませんが、まったくもって非科学的です。当時の福島市の人口は28万人と言われていましたが、年に何回の事業をするのかにもよりますが、1500の客席を埋めるだけでも相当の経営スキルを必要とします。何よりも、税金を原資として設置運営しているのですから、大量にチラシをばら撒いて、チケットを売り捌くという「興行」の概念から離れた公共経営の在り方を私たちは考えるべきです。その一つの提案が、可児市文化創造センターalaで私の提案創発した「劇場の定義」を変えたと評価されている社会包摂型劇場経営です。