第12回 「明日は今日より良くなる」を信じられる日本人は?-近視眼マネジメントを回避して遠くを見て仕組む経営と政策。

2023年10月28日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生

「やりたいこと」と「やれること」は別物、「やらなければならないこと」がイノベーションの初めの一歩。
本連載の前回の執筆をしている時に、隣室のリビングでつけっぱなしになっていたテレビから前日に組閣を終えた岸田総理大臣のコメントの音声が聴こえて来ました。耳を疑いました。誰が言っているのかを確認するために、思わず隣室に行って画面をONとしました。「『明日は今日よりも良くなる』と誰もが感じられるよう、政策を進めていきたい」、確かにそう私には聞こえました。私は可児市文化創造センターalaの館長に就任した2008年から、つねづね職員に言ってきたことがあります。「やりたいこと」と「やれること」は別で、「やらなければならないこと」は市民の生活実感や作品の許容範囲(mass customize=市民の嗜好の最大公約数)をわきまえて価値判断と意思決定をしなければならない、ということです。「できること」は有形経営資源である予算、無形経営資源である人的資源を勘案して、しかも緊急性のある地域の社会課題と生活課題を織り込んで意思決定するものです。公立文化施設の職員には、自分の趣味嗜好で「やりたい」事業を実施できると勘違いしている者が多くいます。幹部職員になってからも、そういう勘違いのままの人間がいます。とりわけ、新人職員はそれが劇場ホール職員の職業上の「特権」でもあるかのような著しい勘違いをしている場合が見受けられます。

「明日は今日より良くなる」は決して間違っておらず、国民の一人ひとりの誰もが願っていることですが、これは60年代から70年代の高度成長期にかけて言われて、実際にそうであったし、国民の誰もが信じていた、現在では「夢のようなフレーズ」です。毎年5%~10%の給与の伸びがあるのですから、多くの国民には「生きがい」があり、仕事にも「やりがい」を感じていた時代でした。土地バブルの時代は庶民には実感に欠ける夢にうなされるような時代でしたが、「失われた30年」を経て、それが希望とも期待ともかすりもしない無残な時代環境となってしまっていると、私は言わざるを得ません。19人の閣僚のうち初入閣は11人、女性閣僚は過去最多に並ぶ5人となりましたが、だから「明日は今日より良くなる」の政策転換が起きるとは誰も思っていないと断言できます。総裁選の折に彼は、「小泉改革以降の規制緩和、構造改革の新自由主義的政策はわが国経済の体質強化、成長をもたらした。他方で富める者と富まざる者の格差と分断を生んできた。コロナ禍で国民の格差がさらに広がった」として、「今までと同じことをやっていたら格差はますます広がる。成長を適切に分配しないと格差の拡大は抑えることができない」と新たな日本型の資本主義の構築、いわゆる「新しい資本主義」を熱く訴えていました。あれほど「新自由主義的政策」との訣別を明言していたのに、コロナ禍で「苦しい者はより苦しく」なってしまい、私見では国民の多くが快哉を叫ぶような政策転換はいまだに何ひとつ出されていません。これまでの「政治の失敗」に対して給付金を出す予算手当に終始しています。消費税減税をすれば、国民の生活は一息つけるのが一目瞭然なのに、「消費税は社会保障の目的税」なのだから出来ない、というのが政治と経済団体の側の反応です。確かに消費税法の第1条2項には「医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする」と記されていますが、これは建前ではないかとの疑念が私にはあります。消費税収は5%から8%、そして現行の10%と税率が上がって税収も伸びているのに、ステルス増税と言われる社会保険料の負担はそれ以上に伸びていて国民の生活を圧迫しているのが実感だからです。実態は、1988年の税制改革法の第10条で、「税体系全体を通ずる税負担の公平を図るとともに、国民福祉の充実等に必要な歳入構造の安定化に資するため」と明示していて、消費税は社会保障のためにだけ使われる目的税ではなく、所得税や法人税と同じ一般財源として、全ての歳出予算に充てられる税金に位置づけられているのです。

「やらなければならないこと」を見付けたが、同時に無力感も突き付けられる。
「やりたいこと」は生きるモチベーションを持つうえでとても重要ですが、そのためには経済環境をはじめとする社会環境がそれを可能とする方向に整備されていないと、政治で言えば「甚だしいポピュリズム」に堕してしまいます。社会の変化を企図するムーブメントでは、非現実的な「夢」や「理想」としてしか認識されません。その「やりたいこと」、「出来ること」、「やらなければならないこと」の価値判断を自らに突き付けたことが私にはあります。1998年に私はバルセロナで開催された国際文化経済学会で『Public Theatre as Means of Community Revitalization (コミュニティ再生装置としての公立劇場)』という論文を発表する機会を得ました。この論文は、前年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』の序章「芸術支援から芸術による社会支援」の第一項「カキの森の文化政策」をベースとして長文の論文に仕立てたもので、その頃の私の重大関心事であった「生命維持装置としてのコミュニティの再生」を長文の政策提案にまとめました。現在の私が使う言葉で言えば「つながりの貧困」からの脱却です。私はペレストロイカが始まった80年代後半にソビエト作家同盟とソビエト批評家同盟の招待でモスクワとレニングラードの劇場を訪れる機会を得ていました。友人でその後文化大臣になるミハエル・シュイットコイによるモスクワ芸術座改革が、その社会の空気を背景にドラスティックに進められていましたが、まだ上演許可の下りない作家や作品もあって、劇場はプロバガンダの場の側面が強くあり、私の主張するような社会的ニーズはあり得ないとするロシアの研究者から猛反発を受け、激論となりました。国際学会が終わって、翌朝には私は英国へ飛びました。前年に名古屋の愛知芸術文化センターで開催されていた世界劇場会議国際フォーラムのシンポジウムでパネルとして同席したマギー・サクソンが経営監督をしている、北部英国・リーズ市にあるウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)を訪れるとのマギーとの約束を果たすのが目的でした。マギーと同行していたウエストミッドランド芸術評議会の理事リー・コナーからも、シンポジュウムで私が主張する内容から、リーズ市を訪ねることを強く奨められます。あわせて、前年に文化庁の在外派遣制度でサンフランシスコのアーツセンターとWYPで3ヶ月間研修した、私の持論を熟知している妻の柴田英杞からも絶対に行くべきと背中を強く押されていました。私にとっては、彼女たちに再会するだけのいわば気楽な表敬訪問程度に考えての英国・リーズブラッドフォード空港へのフライトでしたが、この時のちょっとした寄り道が、その後の私の生き方を大きく変えることになります。

当時の日本では次々に竣工する公立劇場ホールを「ホール建設ラッシュ」と揶揄するレッテルが貼られて、「税金のムダづかい」の批判が浴びせられている只中でした。日米貿易不均衡の是正を目的として1989年に始まった日米構造会議の最終報告で、米国は「(日本は)輸出につながる産業分野への投資より、公共分野に投資するほうが賢明」であるとし、日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求した。海部内閣はこれに応えて10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定して、90年代の「ホール建設ラッシュ」というハコモノ行政が始まります。そして、1100館を超える文化施設が全国に乱立することになります。(さらに、米国側から「日本の対外黒字の増加を考えれば、公共事業の目標の上積みが必要」との要望があったため、1994年に村山内閣で計画が見直されて、「社会資本整備費」としてさらに200兆円が積み増されて、総投資額は630兆円を計上しています。これによって当時の自治省の起債許可のハードルが低くなり、しかも地方交付税交付金に元利とも算入され、当該自治体の自己負担は全事業費の17%程度という強力なインセンティブが制度化されます。当然ですが、その後の事業費・管理費の保証はありませんでしたから、オープンの杮落としが終われば劇場ホールは閑散とします。したがって、行政主導による管理中心の運営となります。退出時間が21時と条例に書かれていれば、巡演している劇団は、終演後に外での着替えやメイク落としということになっていました。

到着した翌日は、毎週水曜日に劇場内のすべての空間を活用する55歳以上の高齢者のためのプログラム「Heydays」(ヘイデイズ 元気盛りの日々)でした。午前10時から午後3時まで、ランチタイムを挟んでおよそ23~25のプログラムが用意されていて、前年の名古屋でマギーからもリーからも、「絶対に水曜日にWYPにいられる日程を組むように」言われていた理由がこれでした。300~400人前後の高齢者が全館で思い思いのプログラムに参加しながら、会話を交わし、笑いの絶えない「Heydays」の光景に出くわしました。この劇場がいかに市民から必要とされ、市民にとって大事な場所であるのかを身に沁みて知ることになります。価値観の共創共有による「つながり」の発酵する音が聴こえるような「Heydays」でした。劇場がそういう社会的な、そして公共的な役割を充分に果たしていることに、心の底から「こんな劇場ホールが日本に10もあったら、日本人はいまより少しは幸せになれる」、「この町では劇場と文化芸術の社会的価値が認知されている」と思いました。「存在を癒す場」としての劇場ホールは、当時の日本での現況からは月の裏側に行こうとするよりも大変なことではありましたが、私には「やりたいこと」、「やらなければならないこと」がその時の体験と重なり、激しく心に刻まれたのです。ただ「できること」であるかについては、当時の私の底の浅い経営に対する知見と学識では心許なさがあったのは厳然とした事実でした。浅学の私には、その時の思いを説得力のあるロジックで紡ぐ手立てはまったく持ち合わせていないことも同時に突き付けられてました。あるのは、演劇をはじめとする舞台芸術の知見と経験とマーケティングのいささか付け焼刃の底の浅い知識だけです。経営学も経済学も公共政策学も組織心理学も社会心理学も、いわばWYPをベンチマークとして劇場経営のデザインと現場を積み上げる作業に必須の「実学」の知識の持ち合わせがまったくなかったのです。しかし、徒手空拳であっても、「WYPのような劇場ホール」の種を日本の文化芸術土壌に蒔いて、育て上げる仕事こそが、私の生涯を掛けるに値する使命だと、私はその時に心に強く刻み込みました。自分が生まれてきた意味は「これなのだ」とまで思いました。身の程知らずの思い込みでした。51歳の時です。

遠くの理想を「できること」へ、実現可能にするために学び切る日々を送る。
98年夏を境にして、演劇評論家、劇評家を生業としながら、専門外の実学分野の猛勉強が始まります。1996年には「道立劇場基本構想委員会」が始まり、「基本計画委員会」、「基本設計委員会」と重ねて「北海道劇場PFI調査ワーキンググループ」の主査を務めたのが2002年でした。「日本の何処にもない劇場をつくろう」と浅学なりに北海道劇場の存立根拠を組み上げる作業をしていた矢先でしたが、知事の交代で劇場計画は瞬間凍結されます。その直後に早稲田大学から県立宮城大学・大学院研究科に籍を移して学部・大学院ともにゼミを持つことになって、四六時中、WYPのような劇場ホールを日本に現前化することばかりを考え、独学で独りよがりの研究に拍車がかかりました。違和感のある劇場経営と芸術経営の実際に行き当たると、それに関連する先行研究にあたって、仮に先行研究がなければ関連分野の、例えばスポーツ・マネジメントや当時から違和感を持っていた数量信仰のマーケティングの研究成果から演繹して、それがたとえ「常識」とされていることでも疑って修正を試み、その整合性をはかって理論化して自分のロジックに組み込むことに傾注するようになりました。ジョン・スポールストラの『エスキモーに氷を売る』などは、文化芸術を必ずしも必要にしていない日本の大多数の人々に、WYPのあるリーズで見てきたような社会的価値財としての認知を得るための「ジャンプスタート・マーケティング」の詳細が報告されていて、先行研究ではないが学部三年生の必修講義の教科書にしていました。北海道劇場計画が凍結されてしまったことで、もう二度と劇場の立ち上げに関わることはないだろうと考えていたので、ゼミの指導教員として、培ってきた知見と経験と思いのDNAだけでも若い人たちに引き継ごうと考えての大学人としての生活でした。ゼミ生のいくばくかは将来きっと文化芸術に関わることだろうし、その時ために人間の価値観を変えるマーケティングの実際を学習するのも決して無駄ではないだろうと思っていたからです。

「Heydays」で創られる参加者による作品は、半期ごとに開催される館内バザーで販売されて、その売り上げは福祉機関などのパブリックな事業に寄付されています。そのことによって、高齢者が社会とつながっていることを実感できる仕組みが施されていることに感心させられました。高齢者が陥りやすい「社会的孤立と孤独」をHeydaysで結ばれる「つながり」と社会での「役割認識」で回避する制度設計がしっかりなされていました。高齢者にとって、「役割認識」は必要とされている存在としての自分を実感できる重要な心の動きです。自尊感情から育まれる「自己肯定感を生きるよすが」とする高齢者にとって大切な処方箋と言えます。「Heydays」を毎週水曜日に開催して、劇場の予算と人材を配していることも大切なことですが、そこで切り結ばれる個々の「つながりの構築」とあわせて、社会とつながっているという実感とリタイアしても自分が社会の役に立っている、社会に参加しているという「役割認識」にWYPという劇場のスタッフの心が配られていることに、私は心からの敬意を持ちました。

WYPの立地をリーズ大学構内からクオリーヒルズの現在地に建設する際、その設計プロセスには、現場の劇場人が強い権限を持って関わったと聞いています。のちにロンドンのサウスバンクセンターの芸術監督となるWYP初代芸術監督ジュード・ケリーも開場後のプログラム展開を構想しながら、様々な設計案を出したのではないかと想像します。再開発によって全英展開する百貨店チェーンJohn Lewisの巨大な建物が出来たことで人の流れが大きく変化して、リーズプレイハウス(旧ウエストヨークシャ・プレイハウス)の入り口は、改装後の現在では再開発で建設された巨大百貨店John Lewis側の大通りに面したところに移っていますが、当時のWYPの入り口は、クオリーヒルズに上がる石階段を上がったところにあって、入るとまず目に飛び込んでくるのがレストラン&バーのある巨大な空間です。ここでは「Heydays」の様々なプログラムが大勢の高齢者によって行われますし、またスタッフの打ち合わせ、ランチ時の市民の食事のレストラン、私のような外来のゲストとの懇談等々と多様な用途に常時開放されています。入り口を入って数段の階段を上がると、扉の一切ない、その大きな空間となります。劇場に入るためのステージドア(楽屋口)は階下のリハーサル室の傍に設けられているのですが、開場以来堅く封印がされています。したがって、キャストも技術スタッフも芸術監督・経営監督をはじめとする劇場幹部職員も、そして多くの市民たちも、すべてこの広い空間を通って劇場内部に入って行くことになります。このスペースの配置と用途と役割が、ジュード・ケリーの劇場理念を物語るものと私は思っています。この仕掛けは、人々が分け隔てなくコミュニケーションの機会を得て、「つながり」という価値が生まれる場として、あえて扉を排した設計になっていると感じました。日本では劇場建設計画には、どのような劇場理念を体現するために今後展開する事業の構想を持っている現場の人間が関わることはほとんどありません。それだけに、北海道劇場計画に参画できた足掛け7年間は、真駒内の道庁の休眠施設をマネジメントとマーケティングを中心に劇場経営の専門家育成機関を設けて、乱立して休眠化している全国の文化施設に派遣する計画を立案するとか、高度利用地区の札幌駅中央口前が立地予定地だったために相当にゆったりとしたプロアスペースがとれるので、障がい者施設と協働でパンを焼ける匂いが常にする大きなレストランスペースのある劇場を構想したり、広いレストランスペースであることから調理場もそれに比例して大きくしなければならないわけで、そこで高齢者世帯向けに廉価な食事を宅配する機能を設けようと、北海道劇場発信の社会的存在意義経営の発想は拡がるばかりでした。

社会的存在意義劇場経営の発見から「新しいマーケット」を構想する。

「社会包摂型劇場経営」を掲げての可児市文化創造センターalaで各分野事業の観客動員数を上げて、2007年から2010年までの4年間で、パッケージチケット販売数を163セットから1426セットに876%増に、収支比率は25.4%(2008年度)から2010年度には72.1%と赤字体質は徐々に改善されることになります。劇場の外部経済性による社会的価値を高度化するための「アーラまち元気プロジェクト」も2009年に年間256回で動き始めていました。その2年後の2011年2月には「第三次基本方針」が閣議決定されて、「文化芸術の外部経済性」、「文化芸術の社会包摂機能」の文言が記されて「社会的必要による戦略的投資」と公的資金投入の位置づけは大きく転換することになります。歴史的な「政策転換」です。それまでの「保護政策」としての文化政策から、文化芸術の「外部経済性」による行政コスト・社会コストの抑制というアウトカムに期待する戦略的社会政策へ大きくシフトすることになります。上記したアーラの経年数値比較は、2013年度まで僅かずつでも前年比を上回っていました。着々とWYPで目撃した社会的存在意義を梃子とした愛好者のみに依存しない「新しいマーケット」が出来つつあると手応えを感じていました。ところが、2014年に消費税が5%から8%になると赤字決算となり、翌年度は赤字予算を組むことを余儀なくされます。ではありましたが、前後して社会包摂型事業への投資に対する政策根拠を証し立てるために、2016年に芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)の通知が年当初にあったことで、たとえ赤字予算を組もうと手綱を緩めるわけには行かないと、社会包摂型事業に社会的投資収益率(SROI)分析を導入することになります。

そのことから可児市文化創造センターalaを「社会包摂」の先駆的役割を果たしたと評価いただくことが多いのですが、私は、それによって前記の成果をアウトカムしたことで、むしろ従来からのアクイジョン型(数量信仰の新規顧客開発と販売促進型)のマーケティング成果で評価することの意味のなさを強調しようとしました。未来型の「新しいマーケット」でのブランディングを加速度的に成立させるマーケティングの再定義を推し進めたと、私は自己評価をしています。顧客との「つながりの品質」に着目したマーケティング転換こそが、可児市文化創造センターalaの公立の劇場音楽堂の再定義を促したと考えています。前述したエビデンスの数値は、可児市の人口10万人、商圏25万人の経営環境に質的な変化を促した結果であり、その数値的成果は開館4年目までの数量の多寡をはかる広報宣伝から劇場が独自に開発する価値観と社会観と生活実感に基づく「新しいマーケット」の醸成を企図するマーケティングの転換に因るものだと私は考えています。アーラのチラシの印刷枚数は、私が就任した2008年から漸次少なくなります。アウトバウンドの媒体であるチラシの枚数に過依存する「広報宣伝」と「販売促進」には何の根拠もなく、マーケティングの「数量信仰」に幻惑されているだけとの私の確信によるものです。インバウンド媒体である自社のウェブサイトに導引するブランディングこそがマーケティングの本質的役割であると、井関正隆氏のリレーションシップ・マーケティング理論との邂逅に衝撃を受けて私淑して以来、30年近くのマーケティング研究の到達点です。今年度から新しくアーラのチームの一員となった新人職員が、「チラシ部数のあまりの少なさに驚いた」と漏らすほど、アーラのマーケティングは単なる販売促進からテイクオフしているのです。

新しいマーケットによる成熟社会におけるVital Industryへ。
「やりたいこと」と「やらなければならないこと」は明確に像を結んでいるのに、「できること」への確信がまるでないという地点で「WYPのような劇場」を日本に現前させたいというのは、あまりに無謀なセルフ・マネジメントだったと、いまとなっては「むこうみず」、「無鉄砲」、「一人よがり」、「思い上がり」と言われても致し方ないことでした。ただ、それを「できること」にするための勉強と研究は、少しずつ靄が晴れて行って自分を縛っている「常識」や「思い込み」から離れられる喜びと楽しみがあって、その作業への強いインセンティブとなっていました。加えて、私たちの世代は「諦めの悪さ」という特徴があります。経済思想や政治思想とは異なって、当時は公共文化施設を縛る制度は指定管理者制度以外はほとんどなく、私の行く手に立ち塞がる高いハードルは「無理解と誤解」くらいしかなかったことで、あまり一般的には見向きのされない「曠野」を好きに歩くことが出来たことが幸いしたのかもしれないと思っています。私は館長時代に「強い者が生き残るのではない、変化し続ける者が生き残るのだ」と職員に繰り返し言い続けていました。私たちの世代は、近視眼的な価値判断に陥ることなく、遠くを見て「いま」を考える習性みたいなものが学生時代からあります。それはおそらく吉本隆明の『涙が涸れる』という若書きの一編の詩の「僕らは遠くまで行くんだ」のフレーズに再び立ち上がる生き方を託して、身に沁みついているせいかも知れません。私は「むこうみず」、「無鉄砲」、「思い上がり」と言われようとも、遠くを見て「いま」の時代環境を考え、その変化から、まず「自分から変わる」ことで世界を変えることを生き方の使命として来ました。他人の心は一睡のあいだには変化するものではありません。「無理解と誤解」は制度より心に深く染み入っている「常識」で、コロナ禍での不要不急あつかいには文化芸術の社会的存在意義に費やしてきた四半世紀は徒労だったのかといささか心が折れそうになりましたが、対症療法でしかないネット配信を「収支構造の改革」などと舞台芸術の強みを手放して「稼ぐ文化」に傾斜する文化庁の当事者意識のなさへの憤りも相まって、諦めの悪さは一層に強まりました。「遠くまで行くんだ」との姿勢こそが大切だと、来し方を振り返って考えています。

いくら岸田総理が「新自由主義的政策との訣別」を明言しようと、政治も経済も社会も、四半世紀のあいだに新自由主義的な制度の制約でがんじがらめとなって「常識化」しており、保守系はむろんのことリベラルを標榜する政党も身動きの取れない状態であって、認識も意識も「競い合い、奪い合う」制度に馴染んでしまっていると言えます。米国・ビジネスラウンドテーブル(BR)が2019年8月19日に発表した新自由主義のテーゼである「株主資本主義からの離脱」と、顧客、従業員、取り引き相手、コミュニティ、株主の5者への説明責任と利益の分配という「ステークホルダー資本主義」へ回帰しようとの声明が出されてから4年もの時間が経っているというのに、つい最近の9月19日に経団連の十倉会長が、社会保障制度改革の財源として消費税率の引き上げを「有力な選択肢」と明言して「税を含めて一体的な改革をしなければ、日本の社会保障制度はもたない」と強調して強いハレーションを起こしました。「若い世代が将来不安なく、安心して子どもを持つには全世代型の社会保障改革しかない。それには消費税などの増税から逃げてはいけない」と述べて、実質賃金も年金も下がり続けているのに国民を殺す気かとのハレーションが起きたことは耳新しい出来事です。政界と経済界は、「内集団バイアス」(内集団ひいき)に囚われて、その集団の埒外にいる多くの国民の生活実態に目が届かなくなっているのでは、と疑わざるを得ません。社会をつくる二つの車輪は、疑いもなく「政治」と「経済」です。この二つが「内集団バイアス」で内向きに閉じられているというのは、国民にとって不幸なことではないでしょうか。その結果として、政治は投票率の低迷゛常態化しています。企業の本来的な使命は、国民の生活課題を解決するために製品サービスを供給して需要を掘り起こしているのですから、「売れない」ことで市場からの退場とペナルティを必ず受けます。企業は「社会の公器」であり、従業員や国民や地域社会の生活を守る社会的・公共的役割を持っているのです。私は政治家も経済人もいまの日本で何が起こっているに目が行かずに慢心しているのではと思っています。最も弱い立場の国民をどのように守るかかが、国のリーダーシップを持つ人間たちのとるべき立場ではないか。「豊かさ」とはそういう社会ではないだろうか。

新自由主義が「常識」となり「内集団バイアス」に呪縛されているとしたら、その熱帯雨林のような広大な森林を切り拓くには、大地に広く深く張っている根までを堀り起こさなければなりません。「無理解と誤解」に晒されるより、はるかに大変なことだとは承知しています。それだけに、経済界が米国・ビジネスラウンドテーブル(BR)のように従来の「常識」を切り裂くような意思決定をすべきなのですが、前記のような消費税への見解を述べているようでは多くを期待できません。

可児市文化創造センターalaの経営が比較的短時間で一定の成果を上げられたのは、「『曠野』を好きに歩くことが出来た」からと書きました。南プロバンスの曠野に、二つの大戦をはさんで、毎日苗木を植え続けたエルゼアール・ブフィエが、豊かな「森」と「清流」と「若者たちの笑い声」を「私」の目の前に実現させたというジャン・ジオノの『木を植えた男』のように、「無理解」と「誤解」しかない曠野だったからではないかと、私はこの四半世紀を振り返って思います。WYPを訪れて「むこうみず」、「無鉄砲」、「思い上がり」、「一人よがり」との誹りを受けて当然なことを夢想してから13年後に大いに励まされた「第三次基本方針」が閣議決定されても、並列的に記された「成熟社会における新たな成長分野として潜在力を喚起する」との成熟社会に対する未消化な理解に私は強い疑念を持っています。「新たな成長分野」は、時の政権に対する官僚の忖度でしかありません。70年代初頭にロンドン大学のデニス・ガボールによって、「成長や開発は持続的に続く常態的なものとはいえないのであり、社会においても成長が止まり、ある時期から成熟社会への変化を志向していかなければならない段階がやってくる」、そして「精神的な豊かさ生活の質の向上を重視する」社会に向かう向かうという定義をよく咀嚼、吟味してほしいと願っています。その「段階」における経済と政治は、経済成長よりも定常経済へと価値観が移行して、財政出動よりもいかに支出を抑制するかに政治も経済も重きを置くようになると、私は確信しています。私たちは、足元や目の前に囚われることなく、「遠くを見ながら」、いまを測って行動を選び取らないと大変な間違いを起こしてしまうのではないでしょうか。私は芸術機関を規模の大小にかかわらず、ジャック・アタリがコロナ禍で発した「vital industry」(生命維持に関わるきわめて重要な産業)として低成長時代の定常経済下では文化芸術は社会会的に必需なものだと考え続けています。