第82回 記憶に残る海外での食事は数えるほどしかない。

2019年3月10日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

アーラの常勤館長に就任した翌年の2009年からアプローチを始めて、2015年4月21日に提携契約を結んだリーズ・プレイハウス(当時ウエストヨークシャー・プレイハウス)との国際共同制作の、いよいよ今年度が制作当該年になる。訪英機会が多くなると思うが、実は英国で美味しいものを食べた記憶がほとんどない。「英国で美味しいものを食べようと思えば朝食を三回食べよ」とサマセット・モームが書いたように、概して英国の食事は美味しくないのだが、イングリッシュ・ブレックファーストだけは別なのは間違いない。焼いた厚切りのショルダーベーコン、卵料理(通常は目玉焼き)を基本として、その他に英国風ソーセージ、マッシュルームのソテー、焼きトマト、 ベイクド・ビーンズ(豆の煮物)、ハム、チーズなどを好きなだけ皿に盛って食するのです。しかし、これも3日目からは食傷気味になってしまう。今年は俳優を使って戯曲を仕上げるために2週間程度リーズ市に滞在しなければならず、毎朝あれと対面して食すと思うといささか気が重くなる。英国の食事に飽いたら、私はインドレストランに飛び込むことにしている。かつて植民地だったせいでインドからの移民の末裔が多く、インド料理は「本場もの」である。また、英国は米国同様に盛りが多く、スパイスの香りもフレッシュで、存分に満足できるディナーとなる。

アルバイトで食いつないで年間200本以上の芝居を見ていた貧乏評論家だった私は、海外に渡航する機会などなく、初めて海外に行ったのはソヴィエト作家同盟とソヴィエト俳優連盟からの招待でモスクワに降り立った時だ。折しもペレストロイカの真っ最中で、経済事情がすこぶる悪かったのをよく憶えている。当然のことだが、美味いものにありつけるわけもなく、毎日のように鱈の塩漬けやキャベツのピクルスなどを食べていた。かのモスクワ芸術座も例外ではなくペレストロイカによる改革を進めており、その任を一身負っていたのが私と同じ30歳代半ばの評論家のミハエル・シュイットコイで、彼の築150年の、それでも新しいと言っていたアパートに招かれてのディナーも、干し魚と塩漬け魚と、何とニンニクの塩漬けで、当時はほとんど手に入らなかったウォッカの500ミリ程度の小瓶をまわして、それこそ少しずつ舐めるように飲んでいた光景を思い出す。10人ほど座れる長机の上の貧相なディナーに比べて、列席者が当時のソヴィエト演劇界のお歴々だった、その不釣り合いな食卓がおかしかった。その後、ミハエルは二度来日して親交があったが、40歳代のはじめに文化担当大臣になり、私を驚かせた。

それとどうしても忘れられないのは、日本でも度々上演されていた『イルクーツク物語』、『私のかわいそうなマラート』などと、アーラで制作した平幹二朗さんと渡辺美佐子さんの二人芝居『黄昏にロマンス』の作家でもあり、主に彼の地の女性を描いたソヴィエト連邦国家賞の劇作家アレクセイ・ニコラエヴィチ・アルブーゾフ未亡人を訪ねた時のことだ。彼女のモスクワの住居も200年弱は経っているというアパートの6階で、テーブルの上には白い皿に小さなリンゴひとつと果物ナイフが置かれていた。ソヴエト連邦の最高国家賞を数年前に受賞した世界的な劇作家の未亡人に似つかわしくない質素なもてなしで、年金生活だったと思うが、それほど物資に事欠く経済状態だったのだろう。遠い日本から来た演劇関係者への精一杯のおもてなしが大人のこぶしくらいのリンゴだったに違いない。彼女の思いを味わわせてもらった。日本の甘いリンゴに慣れた舌には、いささか酸味の強い味だったが、とても美味しくいただいた。

次の海外体験は北京市からの招待で、改革開放の中でその気運に連動して行われた「小劇場フェスティバル」の視察で中国に渡った時だった。北京空港が悪天候で目的地から遠く離れた広東省の深圳空港に緊急着陸して4時間機内に閉じ込められて、成田の出発も2時間程度の遅延だったから、北京空港には8時間遅れの到着だった。午前3時を回っていた。空港から市内のインターナショナル・ホテルまでのバスが隙間風の入るオンボロで、しかも車体が吹き飛んでしまうのではないかと心配になるほどスピードを出すので、寒いし、車体の軋みが気になるし、といった波乱の予感させる北京行の幕開けだった。北京での毎日の食事は、昼から何皿もの中華料理で、相当高価な食材を調理した「歓待」だったのだが、「ラーメンにチャーハンに餃子をつけて」という日常の中華料理屋の贅沢とはあまりに懸け離れていて何ともありがた味が薄い。この北京の旅での最大の出会いは、その後全国各地で舞台製作とワークショップの現在に至るまでのビジネスパートナーとなった文学座の西川信廣さんと合部屋になったことだ。明け方にホテルに着いてフロントの前での部屋割りになったのだが、大先輩の評論家と一緒になりたくなかったので、当時若手演出家だった西川さんを私は真っ先に指名した。皆が眠い目をこすっての時間だったせいで、その指名はすんなりと受け入れられた。

ホテルでの3日目くらいだったと記憶しているが、ある朝起きてカーテンを開けると眼下の町が降りしきる雪で真っ白に染められていた。「お、西川、雪だ、雪だぞ」と彼を起こして2人で窓外をみると、道を埋め尽くす自転車の流れの向こう側に湯気が立ちのぼる光景が目に入った。とっさには何があるのかは分からなかったが、露店で食べ物を売っているとだけは察知できた。インターナショナル・ホテルの高くて、それほど美味しくない、しかも極めてぬるい朝粥に飽きていた私たちは即座に行動を起こした。階下に降りて道に出てみると、揚げたての捻じりパンを売る店と、熱々のワンタンを食べさせる露店が目に入った。零下になった路上での熱々のパンとワンタンは極上のご馳走だった。丸太を渡しただけの露店の椅子に座って、少量のスープと山盛りのワンタン、そして揚げパンをかじりながらの夢みるような朝食にありつけたのである。その露天は少数民族の少女たちが目の前で調理していた。代金を割り振られていた元で払おうとすると、彼女たちの顔がばっと明るくなり、何か仲間と騒いでいた。当時は国内だけで通用する元と、マルボロ等の輸入たばこも手に入れられる海外客だけしか出入りできない施設で流通する元があって、後者で払おうとする客に彼女たちは驚いたのである。そのような北京の庶民しか利用しない露天ではありえないことだったのだろう。あまりに喜ぶので、手持ちの元と彼女たちの元と交換してあげることにした。おそらく数十倍の価値があったのだろう。この時食べた揚げたての捻じりパンと熱々のワンタンは、昼夜食べさせられた歓待料理よりはるかに美味で、「生きるために食べている」という実感のある食事だった。「もてなし」とはそういう実感のあるもの
でなければならない。

そのほかにはタイの屋台船の麺料理、パリでの観劇の後の屋台のオニオングラタンなど、「生きるために食べている」と実感するものはあったが、振り返ってみると、ことごとくその国の普通の庶民が日常的に食しているチープなものばかりである。おそらく「もてなし」とはそういったものなのだろう。前述の「実感」と「庶民が日常食しているチープなもの」は同義であり、それこそが「おもてなし」なのかも知れない。