第64回 ヒステリック・ストイック・エキセントリック・マニアック、今は昔。

2015年12月27日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

表題は、当時日本エコロジーネットワークの代表をしていた高見裕一氏のセミナーで聞いた言葉で、確かNGOやNPOで「飯を食おう」と発言すると必ず反発があり、強硬に反発するのが古い意識の市民活動家だった、という話に出てきたように記憶している。90年代のことだ。「ヒステリック・ストイック・エキセントリック・マニアック」とは上手い言い回しだと感じってメモをしておいた。

当時の芸術家や評論家にもこのタイプが普通に大勢いて、私が行政と事業計画や予算配分について交渉して落としどころを図って合意すると、決まって「行政のポチ」とか「回し者」とか言われたものである。富山市のオーバードホールが芸術監督制をやめてプロデューサー制度に移行した時に、芸術監督に巨大な権限を付与する経営手法は、芸術家の未成熟な社会性と経営に対する不見識から日本では定着しない、と書いたのだが、大芸術監督の腰巾着のような先輩の演劇評論家から「ポチ」と書かれた。2003年のことだったと記憶している。阪神淡路大震災の時に神戸シアターワークスという任意団体を組成して、子どもたちの心のケアと仮設住宅の中高年のコミュニティづくりをしていた時にも、地元劇団のチケットを買わないからと「売名行為」と罵られた経験がある。こちらは東京の企業回りをして資金調達をしながらギリギリで活動しているのである。

1500円のチケット代だって出せない台所事情があった。また、現在では第一線で活躍している当時の若手演劇人に神戸での活動協力を要請したら「演劇はそんなことのためにあるのではない」と面罵されたこともあった。当時は、まだ被災者の生活環境を整えるために社会包摂という考え方に依拠したワークショップ等が、被災者の精神的な生活状態を安定化する方策であるという社会的な合意には程遠く、私の仕事はまさに「ヒステリック・ストイック・エキセントリック・マニアック」に四方を囲まれている、孤立した徒手空拳のパルチザンのような状態だった。
あれから、もう20年が経った。随分と私の仕事を取り囲む環境は変化した。激変と言ってよいほどである。だから何もかもが良くなった、という訳ではない。指定管理者制度の導入で劇場音楽堂等は非正規職員率が一般のそれの倍近くになってしまい、「人材育成」ということが機能不全になってしまっている。「人材育成」とは人材に投資するということであり、非正規率が高いということは短期雇用で雇止めがあることで、投資が機能しないことを意味するからだ。2011年の「第三次基本方針」以降、「文化芸術の社会包摂機能」は広く一般化しつつあるが、ならば何をすべきなのかが不明という劇場音楽堂等も芸術団体もある。そもそも「社会包摂って何?」という無邪気な人間さえいる。文化芸術に関わって仕事をしている以上、それ自体は罪ではないが、仮に公的資金である税金を原資として活動しているのなら責任を放棄していると言わざるを得ない。

公立施設としての矜持である。また、公立施設でありながら、一万数千円という価格設定をしている劇場音楽堂等も、私には看過できない。「貧乏人は劇場には来るな」というメッセージを発しているに等しい。積算型の価格政策をしているのだろうが、これでは旅費交通費と運搬費で億単位の税金を投入している政策根拠に乏しい。税金を投入しているプロジェクトである以上は、民間の興行資本が実施するよりも廉価な価格設定をすべきである。依って立つ場所さえわきまえていれば自ずと導き出される価格政策である。私たちは「興行師」ではないのだ。これは絶えず職員に言っていることだが、これも公立施設で働く者としての矜持である。

今年も間もなく暮れて、新しい年を迎えようとしている。今年は英国・ウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)との業務提携の締結に明けて、2度の渡英で4年後の滞在型国際共同制作の予算と創造面の粗々のスキームを合意するという、WYPに明けて、WYPに暮れるという感の強い2015年だった。また、日本劇団協議会の理事として、2020年東京五輪の文化プログラムにインクルーシブ・レガシー(包摂的な社会構築のためのオリンピック遺産)を策定して文化庁に提案できたことも良かったと総括できることである。

職員が提案して進めてくれた、就学支援と一人親家庭の児童扶養手当を受給しているご家族をアーラの事業に招待する「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」と、感動したり、心が動くと奇声を上げたり、立ち上がって身体を激しく動かすためにホールでの鑑賞ができない障がい者の「初めてのコンサート体験」として「オープン・シアター・コンサート」を、市内の障がい者福祉施設の入所者・通所者と介助職員、隣の美濃加茂市にある県立の特別支援学校の全生徒、さらには乳幼児を抱えているためにコンサートに来ることのできない若い親さん方のために開催することができたことが私には嬉しい出来事だった。地域拠点契約の新日本フィル弦楽八重奏によるコンサートだったが、前代未聞の歓声と奇声と笑顔にあふれた会場であった。舞台技術職員の、オーケストラピットを客席と水平までにあげて全面にパンチカーペットを敷き詰め、客席の階段をスロープにして車椅子対応と、お母さん方と乳幼児たちの場所を造ってくれた、気持ちの籠もった仕事も心から嬉しかった。

上記のように、アーラの経営方針と使命を職員がしっかり心得て、事業を組み立ててくれるようになった。8年間で「あるべき公立劇場」を描きながら仕事のできる職員が育ったということである。アーラで私のやるべき仕事はそろそろホームストレッチに入っているということだ。一昨年あたりからの傾向なのだが、アーラの経営を話してほしいという依頼で講演に行く機会が非常に多いのだが、一方では「可児は特別」とか「衛紀生がいるから」と特別視することで「変化」を拒む劇場人がいるのである。これにはほとほと困っているのだが、来年度からは、私でなくても良いとの了解を得られれば、しっかりと育った職員を派遣しようと考えている。しゃべることで確認できることもあるし、さらに彼らが育っていくに違いないと思うからだ。

来年以降の課題もたくさん見つかった年であったが、これは宿題として、毎年我が家の恒例となっている箱根・強羅温泉での年末休暇に持っていこうと思う。解決のつく課題ばかりではないが、少しずつ前に進むためには、出来ることから解決する姿勢が大切である。これはアーラに来てからの習い性である。