第67回 人間は分かり合えないという地点からの出発  文化の大切さを共有する。

2009年12月2日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

文化芸術がどれほど人間の日々の生活に大切な事か、日本ではなかなか理解されません。「高尚な」文化芸術は、金銭的に余裕があって、時間がある人間だけの独占物であり、日々の生活に精一杯な人間や、興味のない人間には、無縁なものとの認識が日本人の平均的なアーツへの評価です。先の事業仕分けの結果をみてもその傾向は顕著ですし、各地の自治体が策定する総合計画などをみても、文化施設の位置づけは文化芸術に特化した「地域文化振興」に押し込められています。文化や芸術は「特別なもの」という意識が一般的であることにその原因にあると考えています。本当に文化や芸術は「特別なもの」、「一部の人たちの感興を誘うもの」なのでしょうか。

私たち人間は、猿から進化することによって、前頭連合野という額の後ろにある脳の部位を大きく発達させました。ここは適切な社会行動に関わる部位です。情動のコントロールや、論理的な判断、将来的な事態の予測と、それによった計画性の立案をつかさどる部位です。学習や記憶をつかさどる海馬や、快不快を感じる扁桃体とともに人間らしさの源泉と言われる場所で、損傷を受けると、理性的な判断ができなくなります。つまり、社会的な存在としての人間の健全性を保つのが、これらの「社会脳」という部分なのです。ここに外傷性の損傷を受けたり、トラウマによる精神的なダメージを受けると、人間は理性的な行動ができなくなったり、社会的適正度に欠ける行動をとるようになります。人間という「種」が、この部分を大きく発達させたのは他者との関係を適正に結ぶことによってのみ生きられる存在だからです。独りでは決して生き延びられない存在だからです。他者を必要とする社会的な存在だからです。

私たち人間にとっての20世紀は「戦争の世紀」であるとともに、そのことによって科学の飛躍的な発展を実現して、経済的な「豊かさの世紀」を手にした時代でもありました。「経済性」が尊ばれ、人間はすべての事象を「経済」という尺度ではかることが習い性のようになりました。人間でさえ「経済性」で区分けしてしまう世紀であったと言えます。教育の世界に持ち込まれた「経済的尺度」は偏差値です。偏差値はもともと「目標設定」のために開発された尺度ですが、それが志望校選択というよりも、志望校を絞り込むために使われるようになり、子どもたちを将来的な経済性で輪切りにする手段として採用されることになったのです。そのような「経済的尺度」で人間をはかる風潮によって、私たちは、人間にとって大切なものを失っていくことになりました。人と人の関わり合い、人の心を思いやること、他者に対して適正な行動をとる社会的理性などに、この風潮は少なからず影響を与えました。したがって、20世紀は「発展の世紀」であると同時に「人間喪失の世紀」でもあったのです。21世紀はその失ったものを「回復する世紀」でなければなりません。

もともと人間は社会的な動物であり、他者と関わり合うことで生きていける存在です。「かかわりたい」という情動は、地球上に人間が出現してから400万年の時間で、私たちが獲得してきた大切な遺伝子なのです。それが「経済的な尺度」が万能とされた時代によって、大きなダメージを受けることになったのです。たとえば、相手の気持ちを思いやる想像力、自分のとった行動によって起こる事態を予測する能力、相手の動作や表情を読み取って適正かつ健全な行動を選択する創造力などが、現代では著しく損なわれてしまったのです。最近言われる、コミュニケーション能力の低下は、何も子どもに限ったことではありません。社会全体をコミュニケーション不全のあつい雲が重く覆っています。その結果としてのコミュニティの崩壊や溶解は、当然の帰結と言えます。「かかわりたい」という生本能からくる関係欲求が充たされないのが現代なのではないでしょうか。「かかわれない」のです。そこからくるストレスが現代人の行動に翳りをもたらしています。

だから、「かかわりたい」という人間本来の関係欲求を充たす場所が、いま強く求められているのです。想像力と創造力によって他者や事象と関わる機会が求められているのです。感動し(され)、共感し(され)、賞賛し(され)、感性の豊かな進化を実現できる場が社会的ニーズとして求められているのです。それこそが「回復の時代」である21世紀における文化芸術の社会的使命だと、私は断言します。大声で叫びたいほどです。アーラはその私の信じて疑わない考えにそって経営されています。「社会機関としてのアーラ」とは、そのような時代認識と問題意識によって導き出された解なのです。「芸術の殿堂」ではなく「人間の家」と私が常々言う背景には、そのような時代認識があるのです。劇場事務所の壁に貼ってある、大きな文字で書かれた「We are about people, not art(私たちは崇高な芸術ではなく「人間」に関わる仕事をしている)と「We offer experiences, not shows(私たちは興行ではなく「経験」を提供している)という英国芸術評議会の「優れた劇場の定義」も、21世紀の公共劇場の社会的役割と使命を職員が常に意識するようにという考えによっているのです。

ワークショップやアウトリーチ、さらには鑑賞行為も、文化芸術が人間に与えるものは、社会的理性の成長を促す想像力や創造力や予測力の涵養です。それらは他者とのコミュニケーションに際して適正な行動を選択するために必要な能力です。「関係欲求」を充たすために求められる能力です。「つながる」ために必要な脳の働きを活性化するのが文化芸術の本然的に持っている力です。このことを理解していないと、文化芸術は、富者のなぐさみもの、愛好者だけに利得が偏在するもの、と誤解されてしまうのです。

文化芸術へのそのような誤解は、ほとんど「一般的理解」と言えるでしょう。とりわけ文化芸術を鑑賞をも含めて、文化芸術に何の体験のない人々には、その行為は「ムダ」と思えることでしょう。そのための施設は「ムダ」と思うでしょう。つい最近の、行政刷新会議の事業仕分けを見ていれば分かります。「ムダ」と思っている人たちと私とのあいだには、埋めようのない溝が横たわっています。しかし、「時代認識」と「問題意識」を共有し、対処策をともに考える出発点は、そこにしかないのです。私たち人間の内部世界は、生きてきた環境や文化的背景や折々の体験によって作り上げられています。したがって、誰一人として同じ内部世界を持っている人はいない、という前提から私たちは出発しなければならないのです。人間の内部世界はきわめて自己中心的なものであり、価値を判断したり、行動を選択する内部世界との関わり合いは、「分かり合えない」という前提からしか始まらないのです。私は前述した立場から文化芸術の21世紀の社会的使命を考え、多くの人たちとその立場を共有しようと仕事をしています。それは大変難しい仕事です。しかし、だからと言って、私は諦めるつもりはありません。この立場を放棄するつもりもありません。理解されないからと言って、自暴自棄になるほど若くはないのです。辛抱強く、粘り強く、説得力を持つ言葉と論理を探し続けようと思います。

私は可児というまちが好きです。そのまちにあるアーラという劇場が好きです。アーラがたとえ日本においては計り知れないほどのポテンシャルを秘めた施設であろうと、それがあるまちが好きでなければ本当の意味で「好き」とは言えないでしょう。だから私は、ここで日本の公共文化施設のワーキング・モデルをつくろうと思っているのです。オンリー・ワンの劇場をここにつくりあげて、可児というまちに住む人々に「誇り」を持っていただきたいのです。脳科学からの21世紀の文化政策へのアプローチは、いま始まったばかりです。アーラはそのための、高く飛翔するための滑走路だと私は思っています。