第52回 「つながる」ということ―脳科学から見る文化の力。

2009年7月31日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

人間関係が希薄になっている、ひきこもりが多くなっている、コミュニケーション能力が低下している、自己中心的な人間が増えている、コミュニティが修復不可能な状態になっている。これらは最近、さまざまなメディアで繰り返し言われていることです。つまり、一人ひとりの関係が「キレテイル」と言えるのでしょう。たとえば、何でこんなに多くの人間がいるのだろう、と思ってしまう東京でも、雑踏と呼ぶにふさわしい、あるいは混雑している状態の電車の中で私に見えるのは、一人ひとりが他人に無関心で、孤立して歩いているという不思議な光景です。「いまここで、何が起きても不思議はない」という漠とした恐怖です。

だから今こそ、出会い、語り合い、違いを認め合い、豊かな人間関係を切り結ぶ文化芸術の出番ではないかと思っています。そんな思いに科学的な裏付けがほしくて、『社会化した脳』(村井俊哉著)と『つながる脳』(藤井直敬著)と『愛は脳を活性化する』(松本元著)、『社会脳 人生のカギをにぎるもの』(岡田尊司著)、『エモーショナル・ブレイン』(ジョセフ・ルドゥー著)、『ソーシャル・ブレインズ』(関一夫/長谷川寿一編)を読みました。ともに脳科学の入門本です。MRIなどの精密医療機器の発達によりソーシャル・ニューロサイエンス(社会神経科学)が今世紀に入ってから著しく進捗して、脳の大脳皮質の前頭連合野は近年「社会脳」と呼ばれるようになっています。そこは他者とつながりたいという社会的な欲求や他者の心の情動を想像する機能があり、また、その関わりあいの結果として、他者からの評価や肯定や共感によって「生きる意欲」の湧いてくる源泉となり、「社会脳」をさらに進化させるのだそうです。つまり、コミュニケーションやそれによって形成される社会は、相手の気持ちを読み取るという行為と、その相互の交換がなければ成り立たないということになります。相手の気持を察して初めてコミュニケーションが成り立ち、その集積がコミュニティ(社会)になるのです。「つながる」ということは、だから他者との相互作用の結果で生じる「生の実感の他者との共有」なのだと思うのです。他者の心に思いをはせるということなのです。他者の気持ちになる、ということなのです。

人間は「つながりたい」という欲求を本来的には持っているのに、なかなか「つながれない」のが現代人の姿であり、その結果としてストレスが増大して、理解不能な事件を起こしてしまうのではないでしょうか。私は、想像力に欠けた、後先を考えていない不可解な事件を聞くたびに、そこから「つながりたい!」という悲鳴が聞こえるのです。後先を思いもせずに凶事に走ることに想像力の欠如を思うのです。

私たちは前世紀で、学力の優劣や知能指数や学歴という知的能力だけで人間の価値を決める社会をつくってきてしまいました。その結果が社会性の未発達な人間をつくってきたのではないかと思います。最近とみに起こっている幼児虐待はそういう風に育ってしまった大人が親となって育児の場面で引き起こす社会的に未成熟な人間の事件と理解できます。理解不能の通り魔的事件も、いじめも学級崩壊も同様のことが言えます。「社会脳」が健全に育ちにくい環境が、そういう社会的不安と将来への獏とした危機感を生んでいるのです。

「社会脳」をはぐくむのは、他者や状況と関わり、共感され、肯定され、評価され、賞賛されながら、「生きる力」を他者からもらえる環境です。それに最適な手段は、時間をかけて多くの人たちが交流して、何かを創造する「場」です。他者との関係の中で自己達成を実感することです。自分との関係性の中で他者を理解することです。だからこそ、芸術文化の社会への援用が、荒廃しつつあるいまの社会を健全化に向かわせる最適手段だ、と私は確信しているのです。

私たちは経験則で、アーツが人々の心に変化を与え、健全な人間性とコミュニティを形づくっていくことは知っています。ワークショップのプロセスで、人が変わったように明るく、元気になったり、伏し目がちにしか人と関われなかった参加者が、きちんと自分意見を仲間に伝えようとするようになったりという場面に、私はたびたび遭遇しています。しかし、その場に立ち会っていない人間に、それを客観的に伝えることはとても難しいことです。ましてや実証的に証し立てることは不可能に近いと考えていました。ところが、進捗する脳科学の「社会脳」の研究成果から、芸術文化の社会政策的な有効性に一石を投じられる可能性がある、と私は考えました。それによって、社会を健全化に向かわせる契機をつくれるし、文化政策をより広範な社会政策に、さらには縦割り行政の統合化につなげられると構想しています。

そして、「alaまち元気プロジェクト」は、可児市文化創造センターが、その考えをかたちにするために踏み出した第一歩です。そのアーラの挑戦に賛同を示していただくためのピンバッヂやシリコン・ブレスレットの「まち元気グッズ」は、「希望」の色である黄色をシンボルカラーにしています。皆が「つながる」ために、私たちは、小さいけれど、確かな一歩を踏み出しました。