第210回 この国を「人間の家」にするために -残っている時間を何のために、誰のために、そしてSDGsへ。

2020年11月9日

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

今年度いっぱいで館長職を辞することについては、主治医から不整脈による心筋症を予防するためにニトログリセリンのフランドルテープを処方された3年前に決意し、既にこの稿でお知らせいたしました。3月、日英共同制作『野兎たち』の英国・リーズ公演がロックダウンで4日目に突然公演中止となって帰国してからの私の心は、日によって大きく左右にぶれる状態でした。コロナ禍は、国の在り方や社会の健全さを「試している」とその頃の館長エッセイに書きましたが、実は私自身が激しく「試されて」いました。緊急事態宣言と口腔外科治療で東京での自粛生活を送った4月上旬から5月下旬までのおよそ2か月間は、可児市文化創造センターの館長を引き受けてからの13年の来し方が走馬灯のように脳裏を流れていました。愚直に追い求めてきた「人間の家」であるべき劇場を具現化するまでの時間と、館長としての最終年に唐突に襲い掛かったコロナ禍から先の、私に与えられている「時間」とのあいだを往還しながらひたすら自宅に引き籠る、まさしく徒然なる、あまりに長すぎた日々でした。

1995年に堀達也元北海道知事が1期目の公約として打ち出した「道立劇場計画(のちの名称は北海道劇場)」、その後高橋はるみ前知事の就任直後、前年の2002年に策定された「北海道劇場計画」は財政難を事由に突然瞬間凍結されました。劇場建設に向けた基本構想検討委員会の発足した前年に『芸術文化政策と地域社会』を上梓して、委員会発足直前に、その後の私の精神的パートナーとなるウエストヨークシャー・プレイハウス(現リーズ・プレイハウス)と出会い、重版されてはいたものの芸術創造の現場からは激しい反発とバッシングを受けていた、著書の中で構想している劇場と地域社会の共生関係は決して間違っていないと、プレイハウスとの遭遇で確信を得ていました。そして、その確信のもと、コミュニティの社会課題解決に文化芸術の「社会包摂機能」を活用する方向性を「北海道劇場計画」に強く打ち出していました。当時文化振興課長だった山谷さん(のち副知事)から「こういう劇場は日本の何処にあるのか」と訊かれて、「まだ何処にもないです、ここが最初になります」と駅前の歩道を歩きながら答えて驚かれたことを思い出します。

足掛け6年間にわたって「事業構想」・「事業計画」・「PFI調査」に関わった私にとっては、「この国にまったく新しい社会的使命をもつ劇場を誕生」させることによって、文化芸術を「一夜の慰み」、「不要不急の娯楽」との一般的な認識を覆して、演劇に関わることを、そして文化芸術に携わることを「誇りある職業」に転換させることを個人的に中長期の戦略目標として描いていました。利他的な仕事をして、「誰かのために生きる」誇り高い劇場人が、子どもたちにとって「憧れの仕事」のひとつになり、彼らからリスペクトされる、というゴールを遠くに見据えて突っ走っていただけに、唐突な計画の凍結は、到底立ち直れないと感じられる挫折体験でした。計画の中には「芸術監督」、「経営監督」、「技術監督」等の北海道劇場本体とまったく同じ人事ツリーに、10歳から17歳の子供たちを当てて、子供たちだけで運営される「エンゼルシアター」という小劇場の設置も書き込まれていました。

建設予定地の札幌駅前は、高度利用地区に指定されており、劇場部分に割り当てられるだろう総床面積は35000~45000㎡もあり、大劇場は観光客対象のミュージカルを通年上演するオーケストラピットを設けなければ1300席の、そして中劇場は演劇専用で700席のサブスクライバー(年間予約会員)対象、さらに小劇場は120席程度で、市民活動とアマチュア対象、そして前述の児童青少年対象の2つを設置するツインシアターを計画していました。市民の文化活動には、何回も繰り返し使用する方が、個人や団体に技術集積が起きるので、出来るだけコンパクトなキャパシティとすることが必要との認識に基づくツインシアター構想でした。その時の挫折体験から、アーラの館長を辞したのちも、私に与えられている時間で「新しい劇場像」へのデザインを1ミリでも前に進められるのでは、そうしなければいつ何時何が起こるかもしれないことと、私が目指してきた劇場の在り方は蜃気楼のようになってしまうとの危機感があり、コロナ禍で一度はへこたれかけた劇場への意欲も、今は辛うじて何かをしなければとの気持ちになっています。そのために私は残っている時間をどのように生きなければならないのか、と自問する毎日です。

しかし、いったん緩めてしまったゼンマイは、いくら巻いても以前のようには心が動かないことを日々実感しています。そういう自分に苛立ちながらも、ならば、どのような生き方があるのか。むろん、ここで何回も繰り返し述べてきたように、「社会包摂機能の先にある社会的処方箋への公共的合意」を醸成することが、私の生まれてきた意味だとは思い続けてはいます。その遠くに設けたゴールに向かって歩を進めるのは間違いのないことではあります。そのゴールは、以前この稿にも書いたように、2015年9月に国連で開かれたサミットで世界のリーダーによって採択された、私達の世界を変革するための持続可能な開発アジェンダである、地球上の「誰一人取り残さない( leave no one behind)」ことの誓いであるSDGsを実現するための一社会機関として、劇場音楽堂等が位置づけられることです。

(館長エッセイ第209回『「歴史の峠」を越えた向こうに見える風景は―人口937人/年増の意味と、なぜ、いま、社会包摂と共生社会なのか』)参照。

しかし、「社会包摂型劇場経営」を劇場経営の一手法として認知されるだけで13年もの時間がかかっているのです。そのうえ「職員の意識変革」にかかる時間をも加えると、気の遠くなる時間がアーラには、そして職員育成には費やされています。人間の心や価値観に関わることですから、社会的・組織的合意に膨大な時間を費やさなければならないことは、アーラでの経験で充分に身に沁みて承知しています。それだけに、私に何年間が与えられているのかを知る由もありませんが、ともかくも1ミリでも、「誰か」のためになれることができればと考えます。とは言え、あくまでも直近のゴールは「社会的処方箋」による新しい劇場像の結実です。百折不撓、諦めの悪いのが私たち団塊の世代の特徴ですから、これからも同じ生き方しか出来ないのも充分に承知したうえですが、とは言っても確かなよりどころのないフワフワとした気分です。

私の個人的な気持ちの問題からいったん離れて、視線を全地球的なアフターコロナに移してみます。新型コロナパンデミックのおよそ9ケ月の中で、私たちは「歴史の大転換期」を生きているのではないか、と強く感じています。むろん、その現状認識の発火点は、コロナ禍が世界を覆って私たち人類の「いま」が白日の下に晒され、「すでに始まってしまっている歴史の誤謬」が私たちの前に暴かれた、あるいはこれからも次々と暴かれることによるものです。その意味で、フランスの歴史人口学者・家族人類学者のエマニエル・トッドがコロナ禍で露わになった機能しない社会を看破するように「確かに被害は甚大でも、『突然に引き起こされた驚くべきこと』ではない。SARS(重症急性呼吸器症候群)やエボラ出血熱など、近い過去に感染症はあり、警鐘を鳴らす専門家はいました。

「多くの国が直面している医療崩壊は、こうした警告を無視し、『切り詰め』を優先させた結果です。時間をかけて医療システムが損なわれたことを今回のウイルスが露呈させたと考えるべきでしょう、その意味ではマクロン氏だけを責めているわけではありません。サルコジ、オランドという歴代の大統領や、彼らを選んできた私たち世代に大きな責任がある」という彼の自戒を込めた認識に、私は全面的に同意します。いま現在コロナ禍での解雇や雇止めによって、住まいさえ覚束なく、最低限の生活さえ脅かされているご家庭や子どもたちや高齢者の置かれている境遇は、90年代後半からの政権と、その政策に連動した経済界の新自由主義的な経済的な価値観によってもたらされた社会の在り方です。私たちは、少なくとも私は、その「歴史の誤謬」を生きてきてしまったのです。しかも「おめおめと」です。私はいま自分自身への嫌悪感と、半世紀前に私たちの世代を捉えていた「自己否定」というネガティブな感情の中で、往きつ戻りつして、幾分途方に暮れて立ち竦んでいます。そして、まさしく「歴史の大転換」が、正の方向に働くのか、あるいは負の方向に加速するのかは別にして、何らかのかたちで、その転換期にどのように自身が関与できるのかを手探りで確かめようとしています。

しかしながら、実のところは、「社会的処方箋」の制度化と施策化以前の前提である2011年の「文化芸術振興のための第三次基本方針」に初めて書き込まれた「文化芸術の社会包摂機能」でさえ、全国の事例を吟味すると、十分に咀嚼されて、事業設計に生かされているとはとても言えない現状があります。「社会包摂」という言辞が流布され始めて、それを事業化することが高く評価されるようになって、それまでやっていた普及啓発事業の看板だけを掛け替えて、以前のままの「普及啓発事業」を牽強付会に「社会包摂事業」として分類継続している劇場音楽堂等は、全国に16館ある総合支援採択館にさえあります。「誤解・曲解」の類とは言えない所業で、それに関わる評価を得ての採択を見込んだ「確信犯」と言えます。ジュニアオケ運営を「人材育成・普及啓発」から牽強付会に「社会包摂」に分類しようとするところまであります。名称は出しませんが確信犯的に看板の掛け替えをしている総合支援採択館が複数館見受けられるのです。税金を投入するに足りる施設であるとの矜持を持ってほしいと憤りさえ覚えます。そのような現状を俯瞰すると、ただでさえ遠くにあるゴールが、さらに一層遠ざかって、より小さく見えるように思えています。2011年の「第三次基本方針」にある「文化芸術の社会包摂機能」については、13年間劇場経営をやってきて、セミナーや講演等で言葉を尽くして説明しても、なかなか理解されることが難しい課題だと身に沁みて実感しています。

さらに、劇場法に書き込まれている「文化芸術の社会包摂機能」は評価するうえで、当該プロジェクトを改良進化させるうえでも必然的に求められる「アウトカム」と「アウトプット」の違いと、それを可能とするロジックモデルの作成必要性がいまだに認識されていないという事実もあります。劇場経営及び芸術団体経営に不可欠な評価軸への、「時代の変化」に対する曖昧な姿勢も大いに気になっています。総合支援採択館の上位にランクされる劇場音楽堂等であっても「評価環境」の90年代からの大きな変化に気付かず、四半世紀前の「何回公演、何人動員、公演収支」という、当該自治体及び国から年度末の報告義務履行の際に求められていた「アウトプット」にとどまっているところもあるくらいです。当時の補助金・助成金受給によって求められるのは「評価」ではなく、現在となってはいかなる費目に支出してどれだけの収入を得たかの計数的な単なる「チェック機能」に過ぎません。行政上のチェックでありながら、財政法で求められている厳密な「費用対効果」の測定とは乖離していると言わざるを得ません。

「アウトプット」された数値に合わせて、税金を投下しているのですから、「費用対効果」は厳しく求められます。納税者主権の下では至極当然のことです。それは近年、事業実施による「変化」を定性的及び定量的に捉えて、そのプロジェクトの「政策エビデンス」が、財政運営上、必須と考えられるようになったからです。EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)、政策根拠に基づいた政策・施策立案はなされているか、その場の単なる「エピソード評価」に寄りかかることなく「合理的な根拠」(rational evidence)によって評価しているかが、ここ10年ほど前から厳しく求められるようになってきたのです。その評価を導き出す「ロジックモデル」の作成プロセスは、当事者にとって、みずからのプロジェクトの価値の再確認と、事前に想定していた「アウトカム」(変化・変容)が期待通りに出なかった原因をロジックモデルにさかのぼって、事業設計に改善と改良を加えて、見直しによる進化と深化を企図する作業の具体化を促すことになります。そのプロセスは、納税者への説明責任を担保し、納税者主権に立脚した文化政策と文化行政の基点を確固たるものにします。突き詰めれば、文化芸術と劇場音楽堂等が、コロナ禍で盛んに言われるようになった「不要不急」の営為ではないことを、そのことによって証し立て、国民的合意に近づく起点をつくることになると考えています。

それを現実的に可能な制度とするためには、EBPMを定立させるプロジェクトの「定性的」及び「定量的」なエビデンスをアウトカムすることが必須だということを強く言わなければならないでしょう。一昨年、芸術文化振興基金の当時の矢田基金部長に提言をし、今年5月にはコロナ禍の緊急事態宣言の発出の中で、なんとかお時間を作っていただいて河村潤子理事長、清水明理事長代行兼理事、土居孝一基金部長にお会いして、感染対策とともにEBPMのために従来の補助採択額にアウトカムの調査費を上乗せしていただけるように提言しました。補助金の採択の際に、社会包摂プログラムに関しては、採択された事業経費に「エビデンス抽出のための調査費」を採択額の20%程度上積みして執行額を公費負担とする案を考えることは教育・福祉・保健医療・多文化共生に関わる社会コストを抑制に向かわせる時代の要請がある、と私は考えて政策提案をしました。それらの提言の基礎となっているのは、2001年に施行された「行政機関が行う政策の評価に関する法律」であり、そこでは事業評価をすることによってプロクラムの質的な向上を図ることによる、公的資金投入による費用対効果の改良改善が強く求められています。 

それでなければ、いくら文化政策に公的資金を投入しても、何らの費用対効果も「見える化」できず、「変化」を数値出来ません。「不要不急」と言われても、 根拠のある反論さえできない所以です。たとえば、仙台富沢病院での東北大学教授藤井昌彦先生の「演劇情動療法」に関連する定量的エビデンスの推算は、入院患者10名に費やされる減薬及び介護費の直性経費抑制効果としては年/320,000円で、2025年には厚労省予測では認知症患者は730万人にものぼるとされ、この直接抑制効果だけで年間233億6000万円、それに現在の処方されている抗精神薬が原因の主な合併症である誤嚥性肺炎と大腿骨頸部骨折の罹患率が全患者数のおよそ3%であり、その平均入院日数それぞれ55日間と20日間、それに関わる医療費170万円、220万円とされて合算すると、およそ年間4530億円が認知症を発症した高齢者に費やされます。今後急増するであろう認知症患者への医療扶助費の抑制効果は、直接抑制効果と合算すると年間総額で4763億6000万円の抑制と推算できることになります。

可児市文化創造センターalaは、2016年から「社会的インパクト投資」(SROI)の計測経験値のある(株)ケイスリーの幸地正樹氏に依頼して、2012年から始まっていた県立東濃高校の「仲間づくりワークショップ」の社会的投資収益率の調査をして2年間にわたって実施しました。翌々年からは、可児市役所もアーラでの高齢者ワークショップや乳幼児と若いお母さんのワークショップの投資収益率の調査に入りました。全国で大なり小なり「社会包摂プロジェクト」を実施している劇場音楽堂等及び芸術団体、福祉施設、保健医療機関等は、是非とも、この社会的投資回収率による政策エビデンスを出す努力をしていただきたい。シンクタンクや大学等の研究機関との提携をすれば、それほど大きなバジェットを必要とはしないと考えられます。それに、私は芸文振及び文化庁、内閣府、厚労省等の関係機関に、そのための必要経費の拠出を働きかけ続けます。
(上記のアーラと可児市で出ている社会的投資収益率の数値に関しては、アーラ衛まで遠慮なく問い合わせください。)  

加えて、私はアーラと可児市から完全に離れるまでに、やらなければならない事案が3点あります。ひとつ目は、岐阜県教育委員会と文学座との提携で始めた県立高校での、生徒の承認欲求を満たして自己肯定感を醸成する「仲間づくりワークショップ」の、その後の追跡調査です。たった一校から始まったこのプロジェクトは、現在では、定時制高校を含めて県下15校の一年生を対象として、可能なかぎりクラスの人間関係が固まる夏前までに、一クラス当たり年間3回の取り組みが行われています。当時の松川教育長の強い危機感から、可児市文化創造センターの近隣地区である御嵩町にある県立東濃高校でこの取り組みが始まったのは2012年のことで、すでに9年目になっています。その間に対象地域も県南の美濃エリアから、県北の飛騨高山エリアに広まっています。「中途退学者の急速な減少」、「遅刻問題行動の著しい減数」等のアウトカムも発現しており、定量的なエビデンスも専門的な機関に介入してもらって数値として出ています。40年にわたる米国の「ペリー就学前教育」の追跡調査に基づく、2000年ノーベル経済学賞のジェイムス・ヘックマン博士の分析結果からも、とりわけて人間成長に依拠した揺るぎないエビデンスは、教育分野のプロジェクトではマストであると思っています。したがって、プロジェクト開始当時から9年後の皆さんの「いま」と「これから」を、館長退任後はヒヤリングして回ろうと思っています。ばりばり仕事をしている社会人も、ドロップアウトせざるを得なかった事情を抱えている卒業生もいるだろうし、すでに家庭を持っている者もいるに違いありません。彼らに「あれは何だったのか」の振り返ってのエビデンスの収集に、足を使おうと考えています。むろん私だけではなく、松川教育長の特命で東濃高校の教頭に赴任した、現岐阜県教育委員会次長の堀先生、東濃高校の前校長の平井先生、文学座の西川信廣氏らに同行していただいての、何回かの訪問行となります。

二つ目は、岐阜医療科学大学での文化芸術を活用しての、2年次、3年次の看護学部と薬学部の学生対象の「包摂型演習」が来年度から始まります。今年度から名城大学跡地に移転して薬学部を併設して開学した岐阜医療科学大学の学長をはじめとする理事・執行部からの依頼で、一昨年から取り組みを始めたものです。冨田市長から今後重要となる「地域医療」と「地域介護」の担い手を育成して、その充実を図る目的を持つ大学と聞いて、それならばお手伝いできることがあると考えての参加の決断でした。私は罹患した箇所を看て治療して完治させるだけが「医療の使命」とは思わないし、機能不全をサポートすることが「介護の使命」とも思っていません。

それらを含めて「〇〇さんらしさ」を取り戻す、Be Yourself Management Skillこそが、全人格的な、そして人間を中心に据えた医療と介護の根幹的な使命なのではないかと考えていました。だとすると、当事者の生きる環境を整える仕事こそ、医療であり介護なのではと考えて、ならば「コミュニティミュティ形成機能」と「つながりの回復と醸成機能」のある文化芸術は最適解と言える、とありがたい申し出をお引き受けしたのです。そういう私の考えも、大学関係者と共感・共鳴して共有することができました。そして、この難しい仕事のパートナーとして文学座の西川信廣氏に協力を求めました。「世界的に稀有な事例」となる、と学長から聞きました。近く大学側と詰めをおこなって、東濃高校の岐阜県教育委員会との提携の時のように文学座の稽古場での記者発表をすることになります。医療介護への文化芸術のマッチングは、仙台富沢病院での認知症改善の東北大学の藤井昌彦教授の「演劇情動療法」の試みがあり、私も末席でサポートさせてもらっていますが、私たちのチャレンジが、「医療介護の公的資金の抑制」に働くとの政策エビデンスにつながれば、文化芸術と劇場・音楽堂等の公共的役割と文化政策の総合政策化へのコンセンサス形成の一助となる、と大いに期待しています。

三つ目は、前述のジェイムス・ヘックマンの研究成果を日本の社会環境にトランスレートした「就学前教育」の持続継続性をいかに築き上げるかです。そのために一昨年度当初から「館長ゼミ」で、ヘックマンの『幼児教育の経済学』を教材にして皆で報告・議論をしてきたのです。その契機は、前述の県立東農高校をはじめとする高校生対象のプロジェクト、通年で可児市教育委員会との提携で、支援学級の児童も含めてのアウトリーチ、学校に行けない子供たちのフリースクール「スマイリングルーム」を対象とする年10回程度のアウトリーチ、毎年明けに実施されるリーズ・プレイハウスのクリエイティブ・エンゲージメント部所属のコミュニティアーツ・ワーカーによる小中学校でのワークショップ、ひとり親家庭の家族を集めての「コミュニケーションワークショップ」、乳幼児とお母さんを対象とした「親子de仲間づくりワークショップ」等々、多様な対象の「まち元気プロジェクト」を実施して来ましたが、児童・生徒の成長環境でもっとも重視されるべき「非認知能力」を育む3歳~5歳期へのサービスがまったく欠けていたことに、ヘックマンを読み進めながら気付いたことでした。

そこが欠落していては、穴の開いた器に水を注いでいるのと同様で、『アーラまち元気プロジェクト』の事業予算が効率的に執行されていないのではと思ったのが事の始まりでした。市からの指定管理料の事業予算にカウントされる見込みは薄い事情があるので、何とかやりくりして、来年度単年度だけでも、その頭出しをすると職員には指示しています。このパイロット事業のエビデンスは、ヘックマンの報告にあるように参加者が10歳以降、そして15年、20年、30年、40年を経なければ到底出ません。したがって、持続継続性を担保するために、これのワークショップ手法の設計を慎重にすすめることで、それによって短期的には何らかのエピソード評価だけでも出したいと思います。それによって、『私のあしながおじさんプロジェクトFor Family』のように、地元の企業協賛を得ることも可能性として残すことができると考えています。むろん、幼児教育に専門性のある近隣大学の教員及び研究室の学生たちにも立ち会ってもらって、「評価の可能性」を推し測ってもらうことを予定しています。

最後に、これはきわめて個人的なことになりますが、4年前に85年を経た自宅のボロ家を建て直した折に銀行から借り入れた資金の返済が年明けにも完済できるので、マンションからの上がりの一部を、塾に行きたくても世帯の事情で叶わない児童生徒3名に3か年限定ですが、総額年270万円の塾代を提供しようと「みんなのみらい寄金」を構想しています。マンション建設前に夫婦で公正証書に遺してある遺言書にそって支援しようと考えています。信頼する人物からの助言もあって、地域内にネットワークを持っていらっしゃる方にお願いできればと思います。仮に法人格が必要ならば、NPO法人格を取得するつもりでいます。また、子どもたちが一度選から漏れると心に傷を負ってしまう心配もあるので、「塾マイレージ制」を用意して、一度落ちても「10ポイント」のマイレージが付与されて、毎年積み上げればたいていは3年目には彼らの希望が叶えられるだろうと考えています。リモート授業ですとネット環境のないご家庭もあるので一度立ち止まらなければなりませんが、何とか来年度から、遅くても再来年度から動かしたいと思っています。可児市民から「人間の家としてのアーラ結実」のために送られた「恩義への感謝」として、「可児の未来」である子どもたちへの、私なりの「恩おくり」です。またしても、閑話休題。

与えられている「時間」をどのように生きるかの、以上が現段階での私の考え方ですが、むろん中央で求められている役割と役職はまっとうするつもりです。これまで述べてきたデザインさえ描き切れないのではないかという不安と不確定要素は当然あります。ただ、アーラの目指す劇場デザインは、今後にアーラを担うことになるプロパー職員たちにDNAとして引き継がれています。これは確信をもって言えます。ここに、この4月から採用する新しいメンバーたちがどのような感性と感覚と大局観のある構想力を持ち込めるか、だと考えて期待しています。現職員はいわば純粋育成ですので、そこに新たな要素が加わることで、新しい地平が広がるのではとワクワクしています。また、今回の採用では、15年後、20年後の経営を見据えての若い世代の育成も想定して採用の可否を見極めるつもりです。

次代を担う経営チームの構成員は、13年間も事業のすべてを共にしてきたわけですし、2週間に一度の「館長ゼミ」で共に前例のない劇場の在り方を探求し、共に研鑽してきたのですから、多少の意思決定の遅れや発信力とガバナンスの脆弱さはあっても、それは時間が解決する類のものであって、彼らなら何処に行っても館長職を務められる確かな能力は有しています。あとは「どれだけ大きなデザインを描けるか」の、社会の仕組みや国民・市民の意識を変えるくらいの「壮大な構想力」を持てるかだと思っています。それだけに、他の地域の劇場での経験のある、即戦力人材との「化学反応」に期待するのです。そのような薄皮を積み上げるような決して諦めない、辛抱強い継続こそが、50年後、100年後のいつかに、この国をきっと「人間の家」にする、と私は信じて疑いません。

そして、いま、この「館長エッセイ」も書き続けるべきか否かとも迷い、逡巡しています。県立宮城大学に奉職した時から演劇評論家としての執筆は断っていましたし、学会等での論文執筆も限られていましたので、アーラからの発信のほとんどがこのウェブサイトからのものです。非常勤で館長に就任して6ヶ月ほどで書き上げた「アーラの作り方」とでも言うべき『回復の時代のアーツマーケティング』(167,000W)をはじめ、『創客の劇場経営 ― 《人間》を中心に据えるマーケティング』(42,258W)、アーラ機関紙「alaTimes」の、食や日本の四季や習慣等に触れているエッセイ(約62,000W)、立場の異なる館長と事務局長の連載『館長VS局長』(約70,000W)、そしてこの「館長エッセイ」は約1,800,000Wで、全体で220万字を超える分量になっています。

これらは、劇場での現場の担務があったからこそ書けた発信であって、劇場経営から一歩引いたところで何が書けるのか、空中闊歩的な、評論家時代から私がもっとも嫌悪する「足のない文章」になってしまわないかと懸念しています。大学中退後に私淑していた名著『底辺の美学』の松永伍一先生から、「足のない文章は書くな」と厳しく諭されていたこともあり、「足のない文章」は説得力を持たない、が私の物書きとしての信念で、その点から「書き続けるか、否か」、「書き続けられるのだろうか」についてはかなり迷っています。アーラの経営を、非常勤館長の時から思い巡らせて往還を繰り返し、現在の可児市文化創造センターalaをぼんやりとデザインし、毎年露天の温泉で長湯をしながら、その年の劇場課題に思いを巡らせて構想した時のように、恒例の年末年始の年に一度の家族旅行で、大好きな濁り湯の強羅温泉につかりながらゆっくり考えようかと思っています。