第176回 指定管理者制度からみる社会包摂型事業の必然性  社会包摂プログラムは成熟社会のセーフティーネット  

2015年10月29日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

一昨年、改正地方自治法によって導入された指定管理者制度施行10年を経過して、様々な問題と課題が総括される論議がありました。劇場音楽堂等にあっては、非正規雇用の拡大によって生じている新しい人材育成への投資の機能不全、雇止めの常態化により希望のある職場ではなくなったこと、民間企業の参入により一括購入による事業費効率化で地域の独自性に翳りが出てきていること、市民へのサービスの劣化等、劇場サービスが指定管理者制度になじまない点がいくつも挙げられました。ただ、指定管理者制度それ自体への検証と改革案の提案はほとんどなされていなかったように記憶しています。

指定管理者制度とは、まぎれもなく「官から民へ」という新自由主義経済政治思想によるものであることに異論をさしはさむ向きはないだろう。「規制緩和」と「民営化」は、戦後続いた「黄金の30年」という「大きな政府」である福祉国家の行き詰まりをブレイクスルーする経済的・政治的特効薬と信じられているからです。つまり「小さな政府」と「大きな市場」を目指すことで、「大きな政府」の非効率を是正しようとしたのです。しかし、「小さな政府」が機能するためには、コミュニティの支えあいのきずなである相互扶助や地域社会で機能していた様々なセーフティネットという「大きな社会」の存在が前提となります。ところが、同質な筋肉労働を大量に必要とする重厚長大の工業化社会は、大量の労働力を生産性の高度化のための資源として都市部に掻き寄せることになります。そのことによって、結果、「大きな社会」の相互扶助機能は壊滅的な状況になります。

昭和30年代から40年代にかけて、我が家に入ったばかりの白黒テレビのブラウン管に映し出された集団就職の上野駅の光景。「金の卵」ともてはやされた子どもたちの姿は、高度成長のために更なる工業化社会を築くために必然的な労働力の調達風景であったのですが、同時にそれは「大きな社会」が農村部で崩壊していくプロセスであり、都市部でコミュニティが細分化されて相互扶助が機能不全となる「小さな社会」が形成されるプロセスであったと言えます。工業化による都市部への人口集中は、結果として、失業保険や生活保護費などの扶養手当などの福祉予算や保健医療予算の増大をもたらし、所得再配分機能が行き詰まりを見せ始め、「大きな政府=福祉国家」が機能不全と非効率を生んでいきます。

それへの批判としてミルトン・フリードマンらのシカゴ学派が台頭して、彼らの新自由主義経済学は「規制緩和」や「民営化」の政策根拠になり、「小さな政府」、「大きな市場」、「小さな社会」という人間的な体温のない社会が出来上がることになるのです。しかし、その原因は、これまで見てきたように、「小さな社会」は大量生産大量消費の工業化社会の進展のプロセスで必然的に社会の分断化が微細な変化によって少しずつ起こり、共生社会の失墜とコミュニティによる相互扶助機能が失われていったのだと見ています。ハンガリー出身の経済学者カール・ポランニーが「市場経済の世界規模の拡大により社会は破局的混乱にさらされる」として共生社会や家族という共同体的人間関係が「悪魔の碾き臼」によって粉微塵に粉砕されるとした警句がこの時代に現実となったのです。

その「微細な変化」が、やがて福祉国家という政治体制に「新しい都市住民」の出現に伴う更なる負担を強いるようになり、犯罪をしないかぎりにおいては儲けた者が優位となるという人間性のかけらもない新自由主義政治経済思想の「小さな政府」「大きな市場」、「小さな社会」の考え方の台頭を結果的に許したと考えます。人間相互のきずなが機能不全となる「小さな社会」は、工業化社会の進展の必然として、経済成長の裏腹に急速に進んでいた、と私は考えています。90年代のホール建設ラッシュの折に、「文化のまちづくり」、「コミュニティの再生」が盛んに言われた背景には、この「小さな社会」を克服して、相互扶助の新しい価値を作り出したいという思いがあったと考えています。このことは後に展開しますので記憶しておいてください。

さて、指定管理者制度と新自由主義政治経済思想に話を戻します。地方自治法第244条が改正された直後に出された総務省自治行政局長の通知には、指定管理者制度を「多様化するニーズに、より効果的・効率的に対応するため、その管理に民間の能力を活用しつつ、住民サービスの向上を図るとともに、経費の節減等を図ることを目的としたものである」とあります。住民への公共サービスに関わる経費を節減して、より効果的・効率的にサービスを供給することを目的としているという訳ですが、現状は果たして制度の政策目的を達成しているのかを検証してみる必要があります。

まず、公共サービスには、財政学的にみれば「内部効率性」と「外部効率性」の二つの側面があることを忘れてはいけません。「内部効率性」とは人件費、施設管理費などの固定費を低減化してサービスの低コスト化を図ることであり、「外部効率化」は、その公共サービスが地域社会のニーズに適合しているか否かの効率性です。つまり、コミュニティ・ニーズにマッチしていない公共サービスは、どれほど低コストであっても供給しても意味をなさないということです。現行の指定管理者制度は、建前上は「内部効率性」と「外部効率性」をともに満足させようとしているのですが、現実的には「内部効率性」のみが追求されて、結果として不安定な雇用環境が野放し状態になっています。「外部効率性」にあっては、一部の例外を除いて自治体からの仕様書の数量的充足は達成してはいるものの、質的な満足度には程遠いのが現状です。つまり、劇場音楽堂等における指定管理者制度の現況は、「内部効率性」は達成度が高いものの「外部効率性」における「住民サービスの向上」には程遠いと言わざるをえません。

しかも、「外部効率性」の観点から言えば、本来的に公的資金で設置し、運営している公立の施設が、その公的資金の戦略的投資行為として文化芸術の社会包摂機能を駆動させて担うべき「社会課題の解決」に向かうコミュニティプログラムに関しては、それが収入のない事業であることから端から無視されていたり、その必要性は認めていて無視はしていないものの未着手となっている事例が非常に多いと言わざるを得ません。敬愛してやまない、ノーベル経済学賞に最も近い日本人と言われ、「経済学は人間を幸せにしているか」と自らに問い続けた宇沢弘文先生の弟子であり、共同研究者でもある神野直彦先生は、「内部効率性」と「外部効率性」の二兎を追うべきと書かれているが、新自由主義的政治経済体制からの行財政改革という錦の御旗で洗脳されて価値の多様性が見えなくなっている財政担当者には、現実的には「内部効率性」しか視野に入らなくなっている。

政府自治体というのは、人びとが作り出した社会の自然発生的な自治統治能力の限界性を克服するために編み出された強制力を付与された制度です。そこでの財政は単なるコストカッターではなく、コミュニティのニーズを勘案して予算の箇所付けに濃淡をつけるアドミニストレーターであるべきだし、コミュニティデザイナーであるべきだと私は思う。「内部効率性」はもちろん追求すべきであると思うが、非正規職員の割合を多くして本来掛かっている人件費を物件費に挿げ替えて固定費を小さく見せるような、見せかけの姑息な「行財政改革」などせず、市民やアーチストとの関係資本の蓄積を必要とする劇場サービスの特異性を鑑みた改革を実行すべきであり、「外部効率性」を特段重視すべきであると私は考えている。「コミュニティ・ニーズにマッチしていない公共サービスは、どれほど低コストであっても供給しても意味をなさない」のならば、それこそその施設を廃絶すべき決断をするのが真の行財政改革なのではないか。もっとも人間的な対人サービスの供給拠点が非人間的な雇用によって維持されている方がよほど不健全であると思うのだが、如何だろうか。

この「外部効率性」の実現こそが、第三次基本方針に書き込まれている「戦略的投資」の目的であり、その戦略目的のひとつが「文化芸術の社会包摂機能」を活用した「社会課題の克服」なのだと、税金で設置して運営している公立の施設の使命なのだと私は確信している。あわせて地域のニーズにマッチした舞台創造をすべきであり、それが「外部効率性」を満足させる方向に向かうことだと思う。中央の芸術団体からの事業購入は次善の策であるべきなのだが、残念ながら日本の劇場音楽堂等は内部に作品を製作するハードの機能がない。日本の劇場の特異性である住民の文化的活動に施設を貸与する機能を考えれば、数週間から1ヶ月に及ぶリハーサル室の専有化をしても住民への貸室貸館に齟齬がないようなリハーサル室のバックアップ機能が強く要求される。具体的には複数の同レベルのリハーサル室がなければ、間違いなく施設設置管理条例の目的に書かれている「地域文化の振興」に抵触してしまうからです。

たとえば1992年に開館した愛知芸術文化センターは、名古屋市という都市部に立地して東海地区を代表する文化施設であるものの、サービス圏域の広さに比してリハーサル室の数は心細い。長期間にわたって専有化して作品創造をするには、まったくもって心細い。日本の劇場環境は、人的資源も、技術集積も、舞台製作にかかわるすべての資源が東京に偏在化して一極集中しており、地方の施設は、それがたとえ都市部に立地している愛知芸術文化センターのように巨大な施設であっても、東京から事業を購入するビジネスモデルを前提として建設されている。つまり、レシービング・シアターとしての機能しかあらかじめ用意されていないのです。これから札幌市が建設しようとしているアートセンターでも市民団体から同様のことが指摘されています。結局、日本における地方の劇場音楽堂等は「受け皿」としての機能しか考えられていないと言えます。「外部効率性」を満足させるような舞台製作ははじめから放棄していると言わざるをえません。

自主的な舞台創造による地域発信の「外部効率性」はあきらめるにしても、私は社会包摂的な事業の展開という機能は、そのような施設であっても保持すべきだと思っています。巨額の建設費用と運営費用は公的資金によって賄われているのです。にもかかわらず、「外部効率性」に著しい欠損があるとするならば、市民的合意形成は非常に困難なものとなります。21世紀も15年が経過しているのに、またしても「ハコモノ批判」の的となる施設に堕してしまうことになるのです。正直、呆れてしまいます。施設の設置と運営に公的資金を費やすのですから、一方では「悪魔の碾き臼」によって粉砕されたコミュニティのセーフティネット機能を回復させる拠点機能を本来事業として持つべきだと私は思います。

人間の生きようとする意欲は、「他者の発見」と不可分です。他者を発見することによって、「必要とされている実感」、「役に立っているという実感」を他者から得る機会を持つことができ、「自己肯定感」が生まれ、生きる意欲の醸成に結び付く。社会包摂的事業とは、他者を発見することで社会的孤立の淵から人間を救済する、社会のユニバーサルデザインへの戦略的投資なのです。「明るい未来」を約束する希望に満ちた言葉が「社会包摂」であり、劇場音楽堂等こそがその拠点施設となることで、文化的公共サービスの「外部効率性」は揺るぎないものとして定立するのだと私は考えています。

私が可児市に居を移して可児市文化創造センターalaを経営してきた考えの根本には、「<悪魔の碾き臼>によって粉砕されたコミュニティのセーフティネット機能を回復させる」ことで体温のある、人間的な可児市という地域社会をつくるために「内部効率性」と「外部効率性」のバランスをとって、創造的事業と包摂型事業の両輪を動かすことがありました。これは40代後半から関わった「北海道劇場計画」を経て、県立宮城大学・大学院で劇場経営のDNAを若い世代に移すことを使命として学生・院生とのフィールドワークと研究・交流のなかで培ってきた公立劇場の経営手法であり、97年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』から一貫したものと言えます。