第103回 いま、私たちは何をなすべきか。

2011年3月14日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

3月11日、可児市文化創造センターalaが大きく揺れました。すぐに何処かで大きな地震が起きた、と思いました。阪神淡路大震災のときも、遠く離れた東京で尋常でない揺れを感じた経験がありました。想像を絶する大きさの東日本大震災でした。私どもの劇場にも、東北の出身者が何人かいます。当初は安否不明の近親者がいる職員もいました。宮城大学時代の私の教え子にも安否不明者が数名いました。二次災害の津波が被害を甚大にしています。阪神淡路大震災のときに、演劇人として何をなすべきかを考えたと同じに、劇場人として、いま何をなすべきかを考えています。12日と13日に大型市民参加型事業の『わが町可児』の公演を控えていました。それにはすぐに結論が出ました。

かつてバークレー・レパートリーシアター(BLT)の経営監督スーザン・メダック女史に、ロサンゼルス大地震のときにBLTは何をやりましたかと訊いたとき、彼女から返ってきた答えが「いつもと変わらず公演をすることが、市民に余分な動揺を与えないことです」というものでした。私たちが上演しようとしているのは、ソーントン・ワイルダー原作の『わが町』です。『わが町』は、一瞬一瞬を大切に生きることをメッセージとしています。可児市民にこのメッセージを送ることが、いまこそ大切であると思いました。

東北地方の公共ホールはもちろんのこと、東京圏の劇場・ホールは、お客さまの安全を期するために設備の点検や破損個所がないかのチェックを万全にする数日間を休館するようです。仙台の会館は被害が甚大で閉鎖状態です。盛岡の会館は、避難所になっており、会館職員は被災者のお世話をしているようです。演劇人たちも被災して、アクションが起こせない状態とのことでした。私もかつて芝居を見に行ったことのある九段会館で一部崩落による死者が出たことは悲しい出来事でした。お客さまの安心と安全のために尽力することは、劇場人にとって何よりも大切な仕事です。劇場・ホールはそれでなくとも、建物の性格上、危険と背中合わせになっている場所なのですから、劇場人としての大事な任務です。また、東京の劇場・ホールは、計画停電が前日にならなければ時間が確定できないために、公演が出来ない状態が続いています。非常時ですので、これは致し方ないことと思います。

阪神淡路大震災の折には、震災直後、「歌舞音曲の類の自粛」が行政から出されました。むろん、災害地では施設の被害でそれどころではなかったのですが、文化芸術の社会的効用に無知な人間の発想として、この種の指導を、それも行政が求めること自体、ナンセンスだとその時に思いました。大きな災害は、生活の困難をもたらすばかりか、目には見えにくいが、「こころ」に想像以上の大きなダメージを与えることを、私たち劇場人や文化芸術関係者は社会的・潜在的ニーズとして感じ取らなければなりません。昨年亡くなったピッコロ劇場の山根淑子館長は、県教育委員会の許可を得るのももどかしく、すぐに避難所となっていた学校にピッコロ劇団の劇団員を派遣して、教室や講堂や体育館に避難していた人々の「こころ」にアウトリーチしました。被災地でもあった尼崎のピッコロシアターが、被災者の「こころ」に関わる仕事を即断して始めたのでした。

私が故山根館長に畏敬の念を持ち続けているのは、彼女が文化芸術の社会的効用に気付いていて、すぐに劇団員の出動を決断したことです。その時の演劇人や劇場人は、建造物の被害の大きさや被災者の生活困難にばかり目が行っていて、手をこまねいて事態の前で立ちすくんでいたのでした。自分の持っているコミュニケーション・スキルに気付かず、あるいはその力を信じられずに、被災地に足を踏み入れるための武庫川を渡ることが出来ずにいました。それだけに山根淑子という人物の、自分の仕事に対する真摯な姿勢と、それを信じて即座に動いたことに敬意を表するのです。私が1年後に、子どもたちの心のケアと仮説住宅の中高年者のコミュニティづくりのための「神戸シアターワークス」を立ち上げたときに、私の背中を押してくれたのは神戸の仲間たちと、「歌舞音曲の自粛」の空気の中での山根館長の勇気ある、そして演劇を信じ切る矜持でした。

東日本大地震の被災地と遠く離れた可児市文化創造センターalaにいる私たちは、いま何をなすべきだろうかと考えます。可児市民の心のよりどころになること、可児市民に生きる勇気を讃えるメッセージを送り続けることはむろんのことです。あわせて、東日本大震災の被災地に向けては、「私たちにいま出来ることは何なのか」を市民が一人の人間として考える契機を提供することではないでしょうか。

可児にある劇場が被災地の東北で「神戸シアターワークス」のように活動することは非現実的ですが、可児市文化創造センターalaがセンター機能を持って、劇場を通して被災地と事態を共有し、手を携えて困難を乗り切ることは出来ると思っています。多くの可児市民にそのメッセージを発信し続けることは、可児市内では、年間32万人の市民が集うアーラならではの使命となります。私たちの「強み」を活かした仕事になります。「阪神淡路大震災」は、震災2年目を過ぎるころからマスコミにも取り上げられる機会が急速に少なくなり、遠隔地東京では震災の記憶が薄らぎ始めました。東京の企業を回ってファンドレイジングする折に、そう感じたことがあります。ともかくも「忘れないこと」です。決して「忘れないこと」です。それが被災地とのきずなの黙契を切らないことになるのではないでしょうか。それと大切なのは、スーザン・メダックの言を待つまでもなく、可児市民の日常を変えることなく、「いつものアーラ」であり続けること。劇場としての機能を普段と同じように維持させることではないでしょうか。