第90回 「劇場法」には、文化投資の明確な政策目的をうたった「前文」を。

2010年8月4日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「劇場法」に関する論議が一巡して少し静かになっている様子です。「劇場法」に反対する声を最初にあげたのは東京の小劇場系の演劇人たちでした。これは、劇団協議会の理事会で、代表して平田オリザ氏と意見交換をした結果の報告が幹部からあり、あわせて文化庁の芸術団体に対する「特別支援事業の3年間で半減」という方針が語られました。まったく別のニュースソースからの情報が同時に語られたことで、劇場には今後は予算の増額、それに連動するかたちで芸術団体の予算の削減という風に勘違いした演劇評論家の理事が「何だ、それじゃ、劇団無用論じゃないか」と不用意な発言をしたことがすべての始まりです。東京の一部演劇人のあいだに平田オリザ氏への反駁が、まさしく燎原の火が一気に広がったのにはそういう経緯があります。冷静に「劇場法」を吟味して発言している演劇人もいますが、反対する演劇人の大半は「パイの分け前」が小さくなることと「劇場法」が、木に竹を接ぐようなかたちで考えられているのが現状です。

もう少し冷静に、今後の日本における舞台芸術の在り方から帰納して「劇場法」は吟味されるべきではないでしようか。『シアターアーツ』に掲載された「(助成金を増やせと言うほど)演劇は社会に必要とされているのか疑問がある」という流山児祥氏の発言は、東京で活動する演劇人の意識の輪郭をかなり正確に物語っています。15年前に、阪神淡路大震災で私が神戸シアター・ワークスを立ちあげて、「被災した子どもたちの心のケア」と「仮設住宅の中高年者の孤独死を防ぐためのコミュニティづくり」を演劇的な手法でやろうとして、地域創造の会議室で東京の演劇人に協力を求めた時の、当時の若手演劇人たちの猛烈な拒絶反応と根は同じだと思いました。

地域では、演劇に限らず、舞台芸術を含めたアーツには社会政策的な要請があります。マーケットで戦うことを余儀なくされている中央とは、文化芸術の役割がまったく違うのです。非常に住民の生活に近いところで要請があります。あるいは潜在的な社会的ニーズが存在します。芸術的評価の高いものを制作したり、提供することはむろん当然で、言うまでもないのですが、あわせて地域社会の諸課題の問題解決のために劇場・ホールは草の根的な仕事をします。前者と後者は、予算の多寡の違いはあれ、活動の重要性からいえば「等価」です。後者は、平田オリザ氏が言うところの「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)」のための劇場・ホールや文化芸術全般の、社会的役割です。

アーラが先行モデルとしてその理念を共有している英国北部・リーズ市のウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)は、移民地域へのアウトリーチ、犯罪歴や薬物歴のある青少年への再チャレンジ・プログラム、高齢者のコミュニティづくりのためのプログラム、子育て世代の母親と幼児とのコミュニケーション・ワークショップ、障害者のディスクジョッキーによるクラブ運営など、年間およそ1000回のコミュニティ・アプローチをしています。延べ20万人の市民がそれらのプログラムにアクセスしています。ブレア元首相が97年にソーシャル・インクルージョンの考え方をすべての政策に敷衍して、地域劇場が地域社会とコミットした結果が、これらのプログラムとなっています。大切なのは、「地域社会とコミット」したことであって、英国芸術評議会からのナショナル・ロッタリー(国営宝くじ)の資金は、結果として地域の文化施設を支えましたが、ミッションとしては文化支援ではなかったことです。WYPはリーズ市民にとってはなくてはならない必要な劇場・活動になっています。「人間的な共感をベースとした顧客サービス」の通年実施や、学校、フリースクール、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、医療施設、多文化施設、地域集会施設へのアウトリーチやワークショップをまとめた『アーラまち元気プロジェクト』(09度実績 27事業区分267回、10年度からは14施設ある公民館へのアウトリーチを加え、コンテンポラリー・ダンスによる「高齢者の健康保持・体力維持のための事業」も視野に入れているので、およそ280回超の予定、詳細はウェブサイトの『alaまち元気プロジェクト2009レポート』参照・ダウンロード可)の通年での実施は、WYPを先行モデルとした、「社会的包摂」の考えに基づいたアーラのコミュニティ活動です。

2001年(平成13年)に施行した「文化芸術振興基本法」の第32条の「国は、第八条から前条までの施策を講ずるに当たっては、芸術家等、文化芸術団体、学校、文化施設、社会教育施設その他の関係機関等の間の連携が図られるよう配慮しなければならない。2. 国は、芸術家等及び文化芸術団体が、学校、文化施設、社会教育施設、福祉施設、医療機関等と協力して、地域の人々が文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会を提供できるようにするよう努めなければならない」は、前述の劇場・ホールや文化芸術全般に求められる社会的役割をあらわす文言です。この条文の前提に、すべての人々が文化に参加し、享受し、創造する権利があるという「社会権的文化権」があるのは言うまでもありません。

「東京」というマーケットと対峙して芸術活動をしていることには一定の敬意は払いますが、日本全体の文化芸術の将来を考えるとき、「東京」という市場での文化芸術の在り方が全体を代表するわけではありません。近視眼的に「東京」だけを見ていては、日本の将来社会での文化芸術の社会的な在り方はまったく像を結びません。芸術家や芸術に関わる人間は、社会と密接に関係しているはずです。社会から超然としていては創作も公演活動もできません。世界や日本社会の動向や地域の社会的必要にアンテナをはって、先を読み取る能力が求められる職業です。したがって、一級の知識人であるはずです。「劇場法」を考えるとき、時空を跨いだ鳥瞰図を描いて、将来社会のグランドデザインのなかでその仕組みと条文・文言を検討すべきではないでしょうか。

たとえば、東京で製作された舞台の赤字回収をするための施設として地域の劇場・ホールを位置づける従来の考え方は、近い将来には改めるべきです。確かに東京には舞台芸術の技術集積や人材集積が圧倒的にあります。今後は、むしろその集積を一時的に地域に滞在して、地域社会の活性化ために活用するという時代となるべきなのではないでしょうか。私がこの6年間推めてきた地域文化施設と東京の芸術団体との「地域拠点契約」(長岡市、北上市、可児市、八尾市)や、東京に集積した人材や技術をアーチスト・イン・レジデンスして、作品創造をする「アーラコレクション・シリーズ」のような方向にシフトする時代がすぐそこまで来ていることに、私たちは気付かなければなりません。たとえば、地域劇場・ホールと東京の芸術団体との「共同制作」が成立すれば、「劇場法」の立法精神から言って、東京の芸術団体は劇場・ホールを通して間接的に補助と支援を受けることになります。「特別支援事業」に採択されるような劇団やオーケストラになら、「地域拠点契約」や「共同制作」のパートナーとなることは、さほど困難なことではないでしょう。加えて、地域の創造環境の良さを考えたら、芸術団体のメリットは計り知れません。「アーラコレクション・シリーズ」で1カ月半前後可児市に滞在したアーチストやスタッフたちの反応から、それが窺い知れます。

芸術団体への補助制度も、従来から問題視されていた「赤字補填」から、稽古期間のすべてをカバーした「製作補助」に変わることが検討されています。本番の公演では自助努力で多くの観客・聴衆を集めて収益を上げるスキームであり、自助努力のできないところは赤字となる、という仕組みです。私はこの補助制度の考え方に大賛成です。「護送船団方式」で支援される仕組みから、活動も意識も、テイクオフすべき時期に来ていると思います。いわば「淘汰の時代」です。「劇場法」も、また、全国の公共劇場・ホールを階層化する「淘汰の時代」の制度です。このところ私の耳には、地域の公共ホールの管理職からの「劇場法」への不安や不満が入ってきます。しかし、全国の公共ホールが一律して自主文化事業や自主製作事業をする必要はないはずです。明らかに「ムダ」としか思えない買い公演を「とりあえず」しているような会館は非常に多くあります。「選択と集中」は今の日本には必要な財政方針です。「ムダの削減」は、具体的には無為な事業や護送船団方式の見直しであり、今後私たちが淘汰の時代にさらされることを意味します。したがって、文化芸術の社会的重要性をはっきりと位置づけなければ、私たちの社会的基盤がずるずると後退してしまう懸念が、私にはあります。

だからこそ、その一方で、前述した文化芸術の社会的意味を「劇場法」の「前文」で明確に規定すべきだと、私は思います。文化行政の政策目的を、その社会的意義を「前文」ではっきりと言い切るべきと考えます。すべての公共劇場・ホールを網にかけた、社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)をベースとした社会的存在意義を「前文」で強調すべきと考えます。たとえ「貸館」を専らとする施設であろうと、その社会的意義にそったサービスによって、地域社会の健全化に資することをはっきりと謳うべきです。文化芸術が、教育とともに「未来への投資」であることをはっきりと言い切るべきと思います。

文化芸術には、制度を改変したり、経済的生活支援をしたり、支援のために必要な造営物を建設したりする力は、もとよりありません。しかし、このウェブ連載で機会があるごとに私が縷々述べてきたように、それらを必要とする人々に「生きようとする力」を湧きあがらせることはできます。私たちは一過性の娯楽の提供を仕事にとしているのではありません。興行師ではないのです。私たちは「人間」に関わる仕事をしているのです。社会の健全化に文化芸術の潜在力が必要とされる時代は目の前に来ています。いや、もうその真っ只中に踏み込んでいるのです。ある種の社会的混乱のなかを私たちは生きています。将来世代にこのままの社会を残すわけにはいきません。それだけに、将来社会への「投資」として文化予算を位置づけ、文化芸術の社会的役割をしっかりと書き込んだ「前文」が、「劇場法」には必須ではないかと強く思うのです。その「前文」に、日本の社会での文化芸術の社会的存在価値を余すところなく書き込むべきと、私は思っています。