第89回「赤字」なのか、「投資」なのか  公共劇場・ホールの使命を考える。 

2010年7月11日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

6月初旬、みのもんたが司会する朝のTBS番組『あさズバ』の「ほっとけない!」のコーナーで、11年連続黒字(事業費のみ、管理費は算入せず)を続けている全国でも数少ない公共ホールとして、綾部市の京都府立中丹文館会館(1983年竣工 1003席)が紹介されていました。

インタビューでは、京都府中丹文化事業団の加柴和成事務局長が「文化とか教育はお金がかかって当たり前という意識を根底からゴロッと変えないと経営は難しいのではないか」と語っていました。また、「プロモーターさんと金銭面を含めた調整をして、市民の方・お客さんを巻き込んだやり方を徐々に広げていったこと」が就任以来11年連続黒字の原因ではないか、とも言っていました。ナレーションで「黒字の秘訣は住民の見たいものを、出来るかぎり安く呼んでくること」との説明が流れました。

しかし、その事業ラインアップを見ると、これが本当に「住民が見たいものなのか」と首を傾げざるをえないのです。番組では、「上原彩子ピアノリサイタル」のチケットを、以前合唱団でホールを利用したことのある女性に営業している職員の映像も流されていましたが、その女性がインタビューで「ちょっと強引な、熱心すぎて強引なところもありますけど」と答えていたのが印象的でした。事務局長は「会館『頑張っているやん』という気持ちがあってこそ、まぁ、ひとつ協力でもしてやろうかという気分にもなっているんのではないかと」と話の穂をついでいました。舞台芸術のチケットを購入する消費行動は、「協力でもしてやろう」という類のものなのだろうかといささか訝しく思えたのでした。

番組としては、300席以上の公共ホール1751館のなかでほとんどが赤字を垂れ流しており、公共文化施設は無駄である、という結論ありきの構成となっており、そのうち数少ない黒字館(繰り返すが事業の収支のみである)として、中丹文化会館を好事例として上げ、さらに来年度から閉館する134億円をかけて建設された岐阜県民文化ホール未来館を例に上げて、駅周辺3キロ圏内に県立、市立をあわせて6館の公共ホールがあったことを批判していましいた。

むろん、この岐阜市の事例はひどすぎるものであり、公共文化施設が一時期、いかに考えなく、建設工事の経済波及効果と雇用効果のみに着目して公共事業として実施されていたが良く分かります。建設することだけが目的化された「政策目的」としての公共ホールが林立した時代があったことは私も認めます。まったく酷いものでした。ただ、この番組の制作姿勢は、いかにも「ためにする」ものであり、ここで問題とすべきは、公共ホールが、道路や橋と同様に、いかに建設までの経済波及効果や雇用効果だけに期待して建てられ、竣工後のマネジメントにはまったく無頓着だったか、なのではないでしょうか。コメンテーターの片山善博慶応大学教授(前鳥取県知事)が言うように、景気対策として当時の政府が建設を奨励し、その建設費の債務は元本ともにあとに地方交付税交付金で手当てする、という「政治の失敗」こそを痛烈に批判すべきなのです。

中丹文化会館の事例は、その「政治の失敗」の弥縫策でしかなく、結果的に「政治の失敗」が住民の受け取るはずだった「価値」に影響を与えて、しわよせを住民に押し付けているに過ぎないのです。ウェブサイトでこの会館の事業ラインアップをみれば一目瞭然です。なぜなら、決められる事業は「文化とか教育はお金がかかって当たり前という意識を根底からゴロッと変えないと経営は難しい」という公共ホール側の、つまりサプライサイドの「事情」によっているのであって、受益者たる住民にとっての「価値」に依拠していないばかりか、住民の「価値」は斟酌されず、しかも置き去りにされていると断言できるからです。それは「ちょっと強引な、熱心すぎて強引なところもあります」という住民の声が何よりもそれを物語っています。

これはSelling であって、Marketing ではない。フィリップ・コトラーの言葉を借りれば、「刈り取り」であって「種まき」ではありません。ドラッカーに言わせれば「押し売り」です。継続性のある観客づくりである「創客」ではありません。また、何度も書いていますが、「経営」とは経済的利得のみを指す言葉ではありません。「経営」とは「新しい価値」を創造することであり、その経済的側面が「もうけ」なのです。「経営は難しい」とは、経済的利得のみにフォーカスした20世紀的な言辞でしかないのです。しかも、「価値の決定権」は、劇場・ホール経営においては私たちサプライサイドにはありません。「価値」はお客さまが受け取った「価値」がすべてであり、ましてや押し付けられるものではないのです。劇場内のみならず、上演されるパフォーマンスをコア・プロダクトとして、それによって内外で起きるすべての「経験価値の総和」がお客さまの受取価値なのです。

好事例として挙げるなら、むしろ武蔵野市民文化会館ではないでしょうか。最近途切れたそうですが、連続して10年間、しかもソウルドアウト(完売)をした事例です。これは栗原一浩事業課長が持っている「関係資本」、すなわち海外プロモーターとの信頼関係によるところが大きいのです。「安いものを買って売る」のではなく、相当な価値のあるパフォーマンスを、彼の持っている関係資本により「安く買えるので、安いチケット料金を実現している」というわけです。事業数は年間100にも及びます。同じように見えて、中丹文化会館と武蔵野市民文化会館とは、真逆の関係にあります。海外アーチストが、アジアでのツアーのついでに「ムサシノ」でやりたいと「ミスター・クリハラ」にオファーが来るというわけです。かなり評価されているアーチストの演奏会が、1000円、1500円、2500円の価格設定で並んでいるのにはそういう背景があるのです。東京圏というマーケットの広さが可能にしている手法とも言えますが、水準の高いパフォーマンスを廉価で提供するという点で、武蔵野市民文化会館は鑑賞者ニーズの側に立脚した経営をしていると言えます。

確かに、全国に林立しているのは、建設すること自体を自己目的化した公共ホールがほとんどである、といっても過言ではありません。しかし、健全なコミュニティ形成のための「政策手段」として存在する公共劇場・ホールも僅かではありますが存在するのです。「社会機関としてのアーラ」、「<芸術の殿堂>より<人間の家>を」という私の考えは、27事業区分267回(09年実績)という、ワークショップ、アウトリーチで構成された「アーラまち元気プロジェクト」を主要なミッションのひとつとして成立させ、自主事業では客席稼働率84.7%を叩き出しています。ニッセイ基礎研究所の経年調査で私自身も初めて分かったのですが、観客の男女比率も、2005年に23.8対76.2だったのが2009年には42.7対57.3に変化しています。「新しい価値」がライフスタイルに確かな「変化」をもたらしているのです。公共ホールには、同じ金額の欠損であっても、場合によって「赤字」と「投資」とに峻別されます。何も経営手法を施さずに福祉配給的に事業を垂れ流しているだけなら、それはもちろん「赤字」に他ありません。自らの事業を定義したうえでミッションを設定し、きちんとシステム設計をして「政策手段」として公共劇場・ホールを運営して、その果実を地域に還元しているのなら、それは「地域社会への投資」と呼べるものとなります。

このあたりの考察なしに一般論的な公共ホール批判をしてみせて「したり顔」をしているマスコミに劣化を感じます。言われるままに動き、話している司会者やキャスター、番組を作っている製作会社の知性と品格のなさには呆れてしまいます。その程度の検証しかできない頭で大きな影響力をもっているメディアを動かしていることに、彼ら自身は怖さを感じていないのでしようか。そういえば、日本の政治も、政治家ではなくメディアが作り上げる「メディア政局」に振り回されている感が最近は強くあります。良く言われている「政治のワイドショー化」です。視聴率さえ上げれば何でもするかのように思えてならないのです。マスコミの劣化は、影響力が大きいだけに結果として国民の意識の劣化を生じさせます。画面に流れるスーパーインポーズ(字幕)の間違えが近年非常に多いのに気付きませんか。一般教養的なものでさえも、です。アナウンサーが「訂正」をする場面が以前より非常に多くなっていると私は感じています。明らかな劣化です。影響力が甚大なだけに、一級の知性と品格をもって番組制作をする「社会的責任」がテレビ番組の製作現場にはあるはずです。猛省を促したいと思います。