第64回 知性とは未来を見通す眼差しである―事業仕分けの不見識さ。

2009年11月27日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


最近、これほど呆れ、怒りを覚えたことはありません。行政刷新会議の事業仕分けでの、「文化」、「教育」、「科学」に対する仕分け人の姿勢のことです。これらはともに、短期的な費用対効果によって必要不必要を論じる種類のものではありません。国や国民の将来を見通して投資効果に期待するたぐいの予算です。

たとえば、「教育」に投じられる大きな国家予算によって、何人の子どもが健全に、しかも優秀な頭脳を持った人間として成長するかの数値を、誰が言い切ることができるでしょうか。「先端科学」はすぐに成果を期待できないから無駄だと、どうして言えるのでしょうか。私たちは50年、100年、200年以前の先人たちの科学的知見によって利益を受けて、今を生きているのではないでしょうか。「文化芸術」も同様です。「文化芸術」は、想像力と創造力を涵養し、他者が何を考えているかを想像し、相手を思い遣る心を育て、自らの行動を選択し、相手にどのように話せば気持ちがつながるのかのコミュニケーション能力を向上させるなど、人間だけに進化がみられる前頭連合野の活性化と発達をもたらし、私たちの社会を安全と安心の生きやすくする機能を持っています。つまり、「文化芸術の予算」は、将来的な社会の健全化への投資なのです。あるいは、この館長エッセイで繰り返し書いているように、「費用(コスト)」ではなく「投資(インベストメント)」なのです。将来的な社会不安を回避して、健全化するための「投資」なのです。「未来への投資」と考えるべきなのです。

むろん、国の国内総生産を進展させる経済政策や産業政策、支援を必要とする人々を社会全体でケアする福祉政策、国の安全を担保ための外交政策や防衛政策、これらの予算の手当は必要ですが、「未来への投資」である文化政策、教育政策、科学政策を、未来を見通す眼でバランスを持って推進することも必要不可欠です。「未来への投資」を拒絶する国は、確実に「未来」を失っていきます。

文化芸術を富者のなぐさみもので、私たちの生活や未来とは無関係であると断じる人間に、私は本当の意味での知性をまったく感じません。「芸術は自己責任」とは、文化庁の予算に対しての仕分け人の一人のコメントです。またしても「自己責任」です。小泉・竹中の「似非改革」で盛んに発せられた言葉です。市場原理主義者たちが、弱いものを切り捨てるときに多用した得意な言辞です。福祉の切り捨て、雇用の「自由化」による所得格差の拡大と日本の階級社会化、イラクでの人質問題での「自己責任」の連発、人間や未来へのこんなに冷酷で、無慈悲な言葉はあるでしょうか。ここから本当の意味での知性を感じますか。人間に対する温かな眼差しを感じますか。

米国の経済学者であるボウモルとボウエンの両博士が、舞台芸術に構造的に存在する経済的矛盾を指摘して、公共政策で経済的支援をなさないかぎり舞台芸術は衰退し、歴史に禍根を残して米国民にとって大きな損失をもたらすことになるという歴史的な論文を発表したのは、今から半世紀ほど前です。それを根拠として当時のJ・F・ケネディ大統領が全米芸術基金の設立を政策として打ち出したのは有名な話です。舞台芸術は、工業製品のように技術的進捗とそれにともなう生産拡大と合理化、それによる人件費のかさ上げが難しい産業です。また、優れた人材を確保するために他業種の給与水準に歩調を合わせて人件費を上げていくと、経済合理性は著しく損なわれていく、とボウモルとボウエンは経済学者の立場から、舞台芸術の持つ構造的な経済矛盾を鋭く指摘しているのです。今回の文化関連の事業仕分け人のコメントや結果を見ていると、その歴史的論文さえ踏まえていない知性のなさを感じます。まぎれもなく市場原理主義者の文化芸術への無理解と偏見と独断に過ぎません。

繰り返します。文化芸術は、教育や科学とともに「未来への投資」にほかなりません。それを「チケット代、協賛金などで自主運営できている団体がある一方、毎年補助を受けている団体もあり、本事業が団体の経済的自立に向けた取り組みを妨げているのではないか」と一刀のもとに断じる仕分け人の発言には、文化芸術への不見識が露わになっていると言えます。「自主運営できている団体」とは、具体的にどのような団体を指しているのでしょうか。おそらく、東宝や松竹やホリプロ、ジャニーズ事務所のような興行資本を指しているのだと推察できますが、それらの興行資本のみが生き残って、50年代の米国のようにブロードウェイ一極集中になり、多様な価値観が舞台芸術に反映されない事態を、仕分け人たちは好ましいとする類の人間なのでしょう。本来、国民に保障されるべき「多様性の認識の機会と選択の自由」が損なわれるのです。ものごとの理非をわきまえず、自分のまったく知らないことをよく評価できると、その厚顔無恥さかげんに呆れてしまいます。民主党が頻繁に行っている「国民目線」とは、「国民と同じ目の高さで将来を見通す目線」のことであり、近視眼的に足元だけしか見ていない暗愚な目線ではないはずです。

前述した興行資本も、舞台だけで経済的に成り立っているわけではなく、それは自社のブランド力を保持するとか、所属タレントのステータスを上げるとか、テレビ出演のために放送局とバーターになっているとかの、一種の経済的な投資として行われているのです。舞台芸術の本場である米国の地域劇場の収入でさえ、チケット収入やグッズ販売などの事業収入はおよそ60%に過ぎず、その他の40%は公的資金、寄付によって補填されて収支を合わせています。仕分け人には「舞台芸術に構造的に存在する経済的矛盾」をまったく理解していない知性のなさを感じます。「自己責任」を連発して社会を一握りの富者と多数の貧者に陥れた市場原理主義者の考え方です。「日本独自の洗練された文化レベル・芸術性が通用するのであれば、しっかりしたマーケティングで興行可能」とのコメントがあります。アーツ分野のマーケティングを大量生産大量消費の工業製品のマーケティングと区別できずに混同している発言に過ぎません。それに、私たち可児市文化創造センターは、決して「興行」をしているのではありません。文化芸術は、「人間」に関わる重要な仕事であると強く認識しています。私たちの「仕事」を、あの仕分け人たちに見せたいくらいです。文化芸術と聞くと「興行」としか発想しない、この程度の「知性」の人間を仕分け人に任命していることに不条理さえ感じます。

寄付についても、「寄付を集める仕組み作りの努力が不足している。国が補助するというのは知識不足。そもそも文化振興は国の責務か、民間中心で行うか、議論が必要」、「寄付を増やすような政策体系を考えるべき」などと、したり顔のコメントをしていますが、日本にはそもそも米国のような寄付税制が未整備なのをご存じか、です。それを文化に負わせるのは無理無体というもの。それは文化芸術の側の責任ではありません。寄付への優遇制度が十分に整っている米国の税制事情に、そのまま日本の文化芸術を重ね合わせて批判するのは「牽強付会」というものです。「こじつけ」に過ぎません。大きな服に身体の方を合わせろと無理難題を言っているようなものです。

文化に限らず、市場原理主義的な事業仕分けでは、中央と地方の格差は拡大するばかりです。民主党の施策にはマッチしません。再び言います。文化芸術は、「未来への投資」です。鑑賞するだけではなく、それに参加し、創造する「文化権」は憲法にうたう基本的人権にほかなりません。文化芸術にかかわるということは、他者の行為を推察し、人間関係をスムーズに行うコミュニケーション能力を涵養するものであり、社会と人間の伸びやかな未来を担保し、社会の将来的不安に対処できる処方です。文化芸術はいわば「漢方」のようなものであり、社会の病理を全身療法で治癒するツールです。他方市場原理主義者は、すぐに効果の出る対症療法を求めます。もう一度言います。「未来への投資」を拒絶する国は、確実に「未来」を失っていくと確信します。

事のついでに言わせてもらえれば、文化庁が来年度の概算要求から「舞台芸術の魅力発見事業」を外したのは、実態を知らない文化官僚の無知さ加減をさらけ出したことと断じます。地域の公共ホールにとって、旅費交通費、運搬費、日当という、舞台の購入費以外のところを手当てしてもらえるのは、地方財政が厳しい折に大変有難いものだった、と私は高く評価していました。とりわけ、北海道、九州・沖縄の公共ホール関係者にとっては、一極集中した中央から事業を購入する際の周辺諸経費が満額補助されるこの補助金は「福音」とも言えるものでした。その事業を概算要求から外すということは、文化格差が急速に拡大することを意味しており、民主党の方針から言っても齟齬があるのではないかと思っています。

文化芸術は「ムダ」とか、地域の公共文化施設は「ハコモノ」とか、その現場の実際に当たらないで盲目的な「一般論」でそれらを批判する向きはいまだに跋扈しています。ひどいところでは、「売却してしまえ」という暴論さえあります。「売れる」ものなら、そもそも地方自治体が施設を設置してはいません。興行資本が地域に進出して、彼らが自身で造っているのではないでしょうか。儲かるものなら民間の興行会社が進出しているはずです。頑是ない子どもでも理解できる話です。地方自治体が設置しないと、「文化芸術振興基本法」にある基本的人権の一要素である「文化権」が担保できないから建設のです。もちろん、「公共事業」として、設置だけを政策目的に建設された施設はおそらく2000前後はあります。それはまぎれもなく「ハコモノ」です。それは認めます。ただ、現実の実際に当たらないで、一般論的な、将来を見据えていない市場原理主義者の如き不見識な批判は、物事のすべてを目先の損得だけで判断する人間のすることです。想像力と創造力を涵養して、相手を思い遣り、他者が何を考えているかの想像を張り巡らし、適正な行動を選択し、相手にどのように話せば気持ちがつながるのかの適切、かつ健全な判断ができるように前頭連合野を発達させるには、広義のコミュニケーションの機会を持つことが必要です。人間は、広義のコミュニケーションのなかで、共感され、同意され、肯定され、賞賛されることで「社会脳」=前頭連合野を健全に発達させて行きます。これは脳科学分野の「社会脳」研究で実証されている知見です。ここでいう「広義のコミュニケーション」のひとつが「文化芸術」であることは言を待ちません。だからこそ、文化への予算手当てを「未来への投資」と言い切れるのです。