第3回 ある出会いから地域劇場へ。

2007年4月29日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

 今からちょうど二十年前、私は、東京で毎日のように舞台を観て、劇評を書いたり、テレビやラジオの演劇キャスターとしておしゃべりをする生活を送っていました。もっとも多いときで年間420本の舞台を観ていました。体調を悪くしたのは言うまでもありません。ひどかったのは腰痛です。たびたび起き上がれないほどの痛みに襲われていました。私と舞台との関係は、そのような生活で自己完結していました。

 そんな私が地域に出たのは四十歳を少し越えた頃でした。「ブーム」と言われた東京の舞台に不満を感じていた私は、50年代のニューヨークで若い演劇人や学生たちを中心にして起こった「リージョナル・シアター運動」(地域劇場運動)をまねて地域に出始めました。

 「リージョナル・シアター運動」は、地域の劇場がハリウッド全盛期に次々と映画館になっていき、舞台芸術がニューヨークに一極集中して商業主義的な舞台一色に染められようとしていることに危機感をもった若者たちが、フォード財団の支援を得て、舞台芸術の拠点を地域につくろうとした画期的な運動でした。

 対する私は、たった一人の、しかもたくわえを切り崩して地域に出かけていく中年おやじの抵抗でした。「ラジオ深夜便」と「BSエンターテイメント・ニュース」を降りました。十二本あった連載を一本に絞りました。その一本が「テアトロ」という演劇雑誌で連載していた「50-50」(ヒフティ・ヒフティ)でした。そこに地域における文化政策の動きを詳細に報告・評価しました。その連載の一部は『芸術文化行政と地域社会』として一冊にまとめられています。

 年収は激減しました。十分の一以下の60万円前後です。いまになって考えると、私のところの学生たちのアルバイト収入程度ということになります。それでも、私にとって一番楽しく、生きているという実感を存分に味わったのがこの時期だったと思います。

 そんな生活の中で、私は一人の少女と出会います。長崎駅前の社会福祉会館で毎週土曜日に一時間だけ稽古をする、自閉症児や学習障害児たちの「のこのこ劇団」にいた「あゆみちゃん」です。彼女は当時小学校四年生で、多動性障害のために学校ではいじめに晒され、教師からも問題児とされていました。彼女たちは「変化」に対してはパニックを起こすことがあります。その意味では、私は彼女たちにとってはよそ者であり、まさしく「変化」でした。なのに、一人の子供が私に対してコミュニケーションをとろうと近づいてきました。それが「あゆみちゃん」との最初の出会いでした。

 彼女は絵本で顔を隠すようにして、どのように対してよいか決断しかねて書架のあいだに立っている私に近づいて来ました。私に向かって開かれた絵本には大輪の向日葵が大きく描かれていました。うろたえた私は言葉を探しました。「あぁ・・・・・・ヒマワリだ、夏なんだ」と間の抜けた言葉をつぶやくように言いました。すると、彼女は顔を隠したままページを一枚めくりました。そこには、見開きのページいっぱいに数え切れないほどのコスモスが咲いていました。「あっ、コスモスだ、もう秋なんだ」と今度ははっきり彼女に向けて言葉の穂を継ぎました。絵本が少し下がって、彼女の目がのぞきました。私には少し微笑んでいるように見えました。

 この「事件」が私と演劇との関係を劇的に変えました。関係性を成立させることの苦手な彼女が、私にコミュニケートしようとした。「この子たちにも演劇が必要とされているんだ」と、私は眩暈を覚えるほどの衝撃を受けました。毎日のように舞台に接することを仕事としていた人間にとって、彼女たちに演劇が果たした「力」に、ここにも確かなかたちで演劇が必要とされている現場がある、と突然まばゆい世界に引きずり出されたような感覚をおぼえました。私のこれからやるべき「仕事」が一瞬にして見えたのです。

 世界的な水準の舞台も人々には必要だが、彼女たちが必要としているアーツの力も社会には欠くことのできないものであり、それらは等価であると私は考えました。そして、その双方を同じ価値として使命とする劇場・ホール、そして美術館を構想して、そのような使命を果たそうとする施設やプロジェクトのお手伝いの仕事をすることになったのです。

 地域に出てから十年目に「24時間365日利用可能」の 金沢市 民芸術村のアドバイザーをお引き受けして、二十年目に 可児市 文化創造センターを仕事場とすることになったのです。あゆみちゃんとの出会いが、長い時間を経て、 可児市 文化創造センターに私を導いたといっても過言ではないでしょう。あゆみちゃんは、その後、のこのこ劇団を指導した川口さんのようになりたいと作業療法士を夢見て長崎福祉短期大学を目指していると伝え聞きました。

 可児市 文化創造センターで働くすべての人々に私が示した当センターの今後の使命(ミッション)を記します。ここにも「あゆみちゃんとの出会い」が息づいていると私は感じています。そして、可児市文化創造センターを通して芸術文化と出会い、健やかな未来を手にする可児や周辺地域の子どもたちに、私はあゆみちゃんを重ね合わしています。「あゆみちゃん」は私にとって当センターに関わるすべての子どもたちの総称といえるのかも知れません。

可児市 文化創造センター ミッション(Ala MISSION)

★ 時代・地域と共生する、全国レベル、世界水準の舞台芸術の鑑賞機会の提供。

★ 劇場をナショナルブランドすることを目途する高水準の舞台芸術の自主制作。

★ 行ってみたい、住んでみたい、住んで良かったと言われるコミュニティサービスの提供。

★ 地域社会と連携し、芸術文化を通して明日の 可児市 の「希望」を形成することに寄与する。

★ 以上は等価であり、スタッフは、以上のために可能なかぎりサービスを創意工夫する責務をもつ。