第16回 文化は健全な未来をつくる記憶。

2008年4月6日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

 東京に打ちあわせのために帰ると、心から嫌になることがあります。大勢の人々が行きかうターミナルや繁華街などで、他人に対して心を遣わせていないことが間々あるのです。たとえば、身体が他人にぶつかるだろうことが予測できる動線なのに避けないでぶつかってしまうケースに良く出会うことがあります。人の流れに逆らうような動きを平気でやる人間がいます。ちいさな「混乱」がいたるところで起こっているのです。

 これを私は、特に若者たちの「身体感覚」が衰えているからだと思っています。この自分の身体に対する感覚の鈍さは相当にひどいものになっています。私が子供だった頃には「江戸しぐさ」というものがまだまだ残っていました。すれ違うときに相手とぶつかりそうだとお互いに肩を引いて往来する「肩引き」という気遣いが生きていました。雨の日に通りすがりの人に傘のしずくがかからないように傘をかしげあって気配りをする「傘かしげ」も普通に皆がやっていました。

拳ひとつ分だけ腰を浮かせて席をつめて立っている人の一人分の席をつくる「こぶし浮かせ」という仕草も当たり前のように電車の中で見受けられたものです。

 いまは酷いものです。若者だけではなく、中年のオヤジまでが少し込んでいる電車の中で足を組んで座っていたりします。他者への距離感や気遣いという感覚を日本人は喪失してしまっているのではないでしょうか。そのような他者への身体感覚を失っている人間同士が一緒に住んでいる「家族」は、考えるだけで空恐ろしくなってしまいます。

 そのような様子を見るたびに私は、これも「文化の喪失だな」と感じてしまうのです。「人を殺してみたかった」と通りすがりの人を殺した少年がいました。格闘技ゲームと現実を融け合わせてしまったかのように多くの人を殺傷したフリーターがいました。これらと他人を思いやる仕草をなくした人間の根っ子は同じだと私は思っています。

 「文化の喪失だな」を大袈裟だと思うかもしれませんが、私は「文化」とは他人を自己の内に取り込める力だと思います。他人の気持ちになって行動を律することが出来るか否かが「文化的であるか」と「非文化的なぎすぎすした社会か」の分水嶺だと思っています。最近、日本人は劣化していると言われています。それもこれも、相手の身になってものを考える慣わしを私たちが忘れてしまっているからなのではないでしょうか。政治家しかり、官僚しかり、企業経営者しかり、そして若者しかり、です。社会全体が劣化していると感じてならないのです。

 私たち日本人は「経済的な尺度」だけですべてのものを評価する社会を長く生きてきてしまったのではないでしようか。経済的な利得にならないものは「無駄」とか「不用」としてしまう生き方をしてしまっている、と私は考えています。だから、いまこそ「文化」が必要だと思うのです。「文化」は未来をつくる記憶の種を人々の心に蒔いてくれます。「文化」は未来への投資なのです。「未来への投資」ですからただちに社会的な効果や経済的な効果がアウトプットするものではありません。

 心を動かす演劇や美しい旋律の音楽に触れることで、人間はいろいろな感情を記憶します。人間の「美しさ」や「醜さ」や「いとおしさ」や「やさしさ」や「楽しさ」や「哀しさ」や諸々の感情を体験します。あるいは意識していなかった人間や出来事に対する感情を追体験することにもなります。その薄紙のようを心の動きの一枚一枚を重ねていって人間的な感性は長い時間かけて醸成され、「記憶」されていくのです。

「経済的な尺度」で計ってどれほどの効果があるのか、と言われても数値で答えることは残念ながら出来ません。しかし、そのような人間を形成していくことが将来の社会への投資になることは間違いのないところでしよう。悲惨な事件や不幸な出来事は社会コストを大きく膨らませます。それに対処するのは警備を強化することや監視を強めることではありません。そのようなことにコストを使うのなら、「いま」にきちんと投資をしておくことではないかと思います。「泥縄」ではなく「備えあれば憂いなし」です。

「文化」は不要不急であるように見えます。しかし、言うまでもなく私たちの社会は連続性があります。私たちはその連続性の中で生きています。いま、何を為すべきかをきちんと考えて来なかったから、私たちの社会は劣化の一途をたどっているのです。

「いま」だからこそ「文化」なのです。お金が余っているからではなく、生活にゆとりがあるからではなく、暇があるからではなく、心がザラザラしているから、人間関係がギシギシ軋んでいるからこそ「文化」を出動させるべきなのです。近視眼的に社会を見るべきではありません。そのために日本人は劣化してきてしまったのです。遠くを見る慣わしを、私たちは取り戻さなければなりません。次にくる人々に何を残せるかが「いま」を生きている私たちの使命なのではないでしょうか。

だから「いまこそ文化」なのです。