第15回 「文化的である」ということを考える。

2008年4月4日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

 火曜日の休館日に定期的な大腸検診で東京の大学病院に行ってきました。月曜日の夜遅くに東京に戻り、翌日大学病院に向かおうと家を出ていつものまちの風景とは違っていることに気が付きました。妙な違和感を覚えて記憶の襞に思いを馳せたら、私が子供だった頃からあった近所の屋敷桜の古木が切られていました。新しい住人が切ってしまったようです。毎年、花盛りの春のまちを着飾ってくれていた桜の古木のなくなった風景に愕然としながら、私は一種の欠落感を覚えました。「桜折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿」です。

 四年ほど前にも、自宅の裏手にある隣家の太い幹周りの金木犀が突然切られたことがありました。毎年秋になるとひんやりとした空気に花の香りを漂わせてくれていた金木犀が切られたことに、私はショックを受けました。仕事をしながら、少々寒くても窓をいっぱいに開けて香りが運ぶ秋の到来と冬の予感を毎年楽しんでいたのでした。物書きになってからそれが習慣になっていたので、心にぽっかりと穴が開いたようになったことがあります。

 季節の到来はカレンダーの中にあるのではありません。自然の営みに寄り添うことで自然が知らせてくれるのではないでしょうか。桜の古木も大きな金木犀も、私たち住民にとっては大切な隣人であったはずです。何らかの事情はあったのでしょうが、それを切り倒してしまったことに私の心は痛みます。私たちの生活の周りから少しずつですが、確実に「季節という営み」がなくなっていっています。それは私たちのまちが「文化」を失っていっていることを意味していると私は思うのです。センチメントでしようか。あるいは、人間が文化的でなくなっているのではないかと、変容していくまちを前にして私は考え込んでしまうのです。

 考え込むと同時に、憤りのようなものも感じます。「いのち」を存えてまちの人々に安らぎや季節の豊穣をもたらしてきた木々を利己的な事情で切り倒す人間の気持ちは私の理解を越えています。私たちはさまざまな「つながり」の中で生きています。それは人間同士にとどまらず、すべての生き物ともつながって日々の営みをはぐくんでいると思うのです。

 「文化的である」ということは人間が優しさと愛おしさのなかで生きている、ということではないかと思います。私たちはいろいろなものに「生かされている」と思うのです。さまざまな思いを遣わし、遣わされて「生かされている」のです。理解を越えた不可思議な動機による殺傷事件が多く起こっています。それはそのような関係が断ち切れたところで起こっているのだと私は考えています。木々が切り倒されたまちの変容の前で、私は人々の心の荒廃と劣化を感じます。

 英国では地域劇場や美術館が、人々の孤立や青少年の心の荒廃などのコミュニティの将来的な不安に対して一定の社会政策的な役割を担っています。たとえば、犯罪に手を染めて少年刑務所を経験したり、麻薬に手を出してしまった若者に対しての音楽を通しての再チャレンジのプログラムがリーズ市のウエストヨークシャー・プレイハウスという劇場にあります。才能を認められれば、リーズ音楽大学への推薦入学の道まで用意されています。子供たちが犯罪に巻き込まれないような放課後対策としてのアウトリーチ・プログラムもあります。これらはソーシャル・インクルージョン(社会的包括)という英国政府の社会政策として位置づけられています。

 私たち劇場のやれる仕事の範囲は社会全体を包み込めるほど広いのです。日本では文化をきわめて狭い範囲で考えますが、文化が適用できる範囲は福祉、教育、医療、環境など、その社会政策的ツールとしての機能の裾野は大変広いものです。いまこそ、劇場や美術館などの文化施設は社会に向けて公共的なサービスを発動しなければならない時だと思っています。パブリックな役割を果たさなければならない公共施設だからこそ、その役割は必須であると思います。

「文化的であること」とは、何も音楽や演劇や美術に造詣があったり、好きであることでは決してないと思っています。心が健やかで、人間が好きで、自然に心遣る気持ちがある、つまり豊かな人間性を備えていることこそが「文化的である」ことの基本的な姿であると私は思っています。そのような心をはぐくみ、コミュニティを健やかに生きる場所にするための拠点が地域劇場や美術館であり、施設の社会的な役割であり、公共が設置する根拠であると、私は地域に出て仕事をするようになって二十数年のあいだずっと思い続けてきました。

 四月の新年度から福祉施設、学校、病院などへのアウトリーチ・プログラムが始まります。地域拠点契約を結んだ新日本フィルハーモニー交響楽団と劇団文学座がプログラムを担ってくれます。また、子供、障害者、高齢者とのワークショップでその技術が高く評価されている金沢の10シーズ(ten seeds)の黒田百合さんに、ワークショップリーダーを五年がかりで可児で養成してもらうプロジェクトを動かします。参加者としては、演劇愛好者のほかに学校、保育園、幼稚園、病院、福祉施設などで働く方々をリクルーティングすることを予定しています。これは演劇のワークショップというよりも、他者に関わることを職業とする、あるいは職業としたい人のためのワークショップです。五年後にはさまざまな施設や機関にアウトリーチするための人材が可児で自給できるようになればと思っています。

 「文化的である」ことがこんなにも難しい時代は、かつてなかったのではないでしょうか。それだけに劇場など文化施設の社会的使命は重要であり、緊急性の高いものだと思います。金あまりで生活に余裕があるから「文化」なのではなく、心がザラザラとして、人と人の関係がギシギシと軋んでいる時代だからこそ「文化」が必要なのです。こういう時代だからこそ「文化」の出番なのです。そうは思いませんか。