第121回 眠っている客を揺り起こす  アーツマネジメントを正しく理解する。

2011年12月10日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

私は舞台芸術のアーツマネジメントを、

1.アーツマーケティング

2.アーツファイナンス

3.ヒューマンリソース・マネジメント

の三つの主要な要素によっていると考えています。

それぞれの最適な組み合わせを考えて、戦略ストーリーを描き、リスクをどのようにマネジメントするかを図って、具体的に実行することがマネジメント全体の流れとなります。リスクをマネジメントするということは、リスクを最小化するということではありません。舞台芸術のマネジメントは経済活動ですからリスクから逃れることはできません。想定する成果に対してリスクも当然大きくなります。戦略化するということは、より大きなリスクを取れるようにするということです。リスクテイクなしに事業で成果を得ることはできません。したがって、リスクを限りなく零にするということは意味のあることではありません。戦略化するというのは、リスクをきちんと取って相応の成果を得るためにストーリーを立案して、実行に移すということです。多くの公立劇場・ホールの幹部職員はリスクを限りなく零にしようとするか、そうでなければ意思決定しないために活性化からひたすら遠ざかることになります。

劇場経営やアーツマネジメントに関する講演、セミナーで良くある質問に、「アーツマーケティング」と「アーツファイナンス」は分かるが(本当のところは理解していないのだが)、なぜ「ヒューマンリソース・マネジメント」がアーツマネジメントに入ってくるのか理解できない、というのがあります。(ヒューマンキャピタル・マネジメントという言い方もあります)。これが理解できないのは、「顧客価値」という考え方ができていないからなのです。

「顧客価値」とは、お客様が受け取る価値のことで「商品価値」や「サービス価値」とは180度違う概念です。「商品志向」ではなく「顧客志向」です。我々は「こういうものを売りたい」とか「私たちにはこういうことがしてあげられる」というのが「商品価値」であり、舞台芸術でいえば、アーチストの表現欲求の成果を「価値」として顧客に押し付けることです。作品や舞台の価値決定権をアーチストの側が握っていることを意味します。「顧客価値」とは、お客様が感じる価値であり、その交換の構造をよく吟味すれば明白ですが、作品や舞台の「価値」とは受取価値にほかありません。さらに言えば、顧客は舞台芸術そのものを買っているのではありません。その演劇や音楽が提供する効用を購入しているのです。したがって、その「顧客価値」を最大化するための作法がマーケティングであり、アーツマネジメントの主要使命なのです。「顧客価値」を最大化するのがプロデューサーや制作のミッションです。「真のマーケティングは顧客からスタートする。すなわち顧客の現実、欲求、価値からスタートする」(P・F・ドラッカー)のです。

アーラは「お客様が受け取る価値がすべて」というマネジメントポリシーを徹底させて、そのために職員個々は何ができるか、私たちの組織に何ができるのかを問うことからすべてが始まっています。たとえばチケットシステムの設計にも「受取価値」がすべてという経営理念が行き渡っています。当日午前零時からインターネットでハーフプライスになり、当日はインフォメーション受付でも半額でチケットを購入できる仕組みを含めた「DAN-DANチケット」は、空席をあたうかぎり埋めて鑑賞環境を良くして、正価で購入したお客様の受取価値を高度化することを企図して設計されたシステムです。「DAN-DANチケット」は、「段々安くなる」の意味で、2週間前から15%OFFになります。誰でも体験しているでしょうが、空席の目立つ客席での鑑賞よりも満席の方が観賞価値は格段に良くなります。皆がディスカウントになるまで待つのではないかと危惧する向きもありますが、経済学の知見でいえば人間はそのように経済合理性で行動するとなるのですが、生身の人間は時に不合理な行動を示します。価格による経済合理的な行動よりも、良い席で見たい、聴きたいという欲求を先行させて行動するのです。行動経済学の知見です。実際、ハーフプライスのお客様は5%前後から多くて7%です。およそ95%の正価で購入したお客様の受取価値は著しく高度化します。そのためのコストがハーフプライス・チケットによる減収という位置付けです。

また、アーラはインターネットでチケットを購入して、クレジットカードで決済できる仕組みを導入しています。その会員登録の折に、購読紙などのほかに誕生日も登録してもらいます。ですから、当月の事業日の誕生月の方が何処の何番の席に座っていらっしゃる何々という方で、どのような鑑賞履歴を持った方なのかが事前に分かります。その席に職員の手づくりのポップアップのバースディカードとラッピングしたバラを一輪置いておいて、いらっしゃったら私がお祝いのご挨拶に伺う、という「バースディサプライズ」というサービスをしています。このサービスの「演出家」は、マーケティングを所掌する顧客コミュニケーション室の職員です。当然ながらその日の鑑賞環境は高度化しますし、その客席周辺の方々もアーラのこのサービスにニコニコとして拍手をしてくださいます。ブランディングです。「可児市文化創造センターala」へのロイヤルティまでもが高度化します。「ファンづくり」と言ってよいでしょう。

このような仕事を生きがいとして、お客さまに喜んでいただける様々なアイディアを出して実行できる職場環境をつくる ― これがヒューマンリソース・マネジメントです。仕事を通して働く人たちを生き生きとさせる、ことです。職員の「強み」を引き出し、「弱み」を無意味なものにするマネジメントが出来ていないと、「顧客志向」のマネジメントは成立しません。職員がお客さまに喜んでいただけることを「喜び」としなければ、こういう体温のあるサービスは、個人的にアイディアは出ても、絶対に組織として実行に移すことはできないでしょう。したがって、ヒューマンリソース・マネジメントをアーツマネジメントの大事な一要素として理解できないということは「顧客志向」と「顧客価値」を理解していないことと同義なのです。

したがって、「顧客志向」と「顧客価値」に沿ったアーツマネジメントを稼働させるためには職場環境がヒューマナイズ化されていなければならないのです。ここが理解されていないと、マーケティング=セリングという図式でしか思考できないようになります。アーツマネジメントをしているつもりが、販売志向のセリングが頭の中を占めるようになります。「マーケティングの理想は、販売を不要にすることである」(P・F・ドラッカー)。マーケティングとは、「売る」と同義ではではありません。同義でないどころか、真逆の経営手法です。「商品志向」からスタートする「欲望の操作」を意味します。ましてや販売促進であろうはずもない。マーケティングとは「顧客志向」の思考と実行であり、「売れる環境」を創造することです。「創客」とは、「顧客価値」と「顧客志向」を原点とする経営哲学です。

なぜアーツのマネジメントを考える時に、「顧客価値」と「顧客志向」が前提となるのか。コミュニケーションとは、相手の個性から学び合う交流のことです。相手の言語行動や身体行動から相手の気持ちを推し量り、思い遣り、気遣って、その結果の「物語」に対して私たちは適切な反応行動を選択します。これを成立させているのは、「社会脳」と呼ばれる前頭前野部の「想像力と創造力」の機能です。

演劇や音楽に接するとき、私たちは客席で舞台からの情報を一方的に受けている存在ではありません。舞台から投げかけられる言葉や旋律から、世界で唯一の自分自身の「物語」を紡ぐ存在となっています。「想像力と創造力」で舞台とのコミュニケーションを進行させている現在進行形の存在となっています。したがって、「価値」は顧客銘々の裡に生じていることになります。私たちはシベリウスを聴いている存在ではなく、シベリウスによって「物語」を喚起している存在となっているのです。「観る」や「聴く」はあくまでも行為でしかありません。その行為を通して「物語=価値」を紡いでいるのです。アーツマネジメントが「顧客価値」と「顧客志向」による経営作法でしかない理由はまさしくここにあるのです。私たちは「価値」は演技や演奏にあると信じ込まされてきました。「価値」は観客や聴衆の裡に生じるのです。この「価値」とは効用のことです。芸術によって生じる効用ですが、芸術的効用ではありません。その個人を取り囲んでいる社会に反映する、いわば「社会的な効用」です。このあたりにワークショップやアウトリーチの「社会的効用」の根拠があると言えます。

通常、私たちは「この舞台はあなたをきっと満足させます」という売り文句でチケットを「事前に」購入してもらいます。「事前に」というのは、幕が上がる前に、という意味です。つまり、「満足させます」という「誓約」を購入していただいているのです。なぜ「誓約」なのかというと、舞台芸術には「認識の困難性」という商品特性があるからです。アーチストの側にいる私たちと購入者の間には「情報の非対称性」があります。舞台に対する同じ程度の情報を共有しているわけではないのです。その「非対称性」が「認識の困難性」を著しいものとします。家電量販店ではこれはと思う商品を手にとって、動かしてみて、いくつもの商品情報をインプットして購入を決めます。売り手とのあいだの商品情報は限りなく対称性を持っています。しかし、舞台芸術の商品特性は「情報の非対称性」からくる「認識の困難性」を宿命的に持っています。それを克服するためにマーケティングが出動します。「情報の非対称性」からくる「認識の困難性」をあたうかぎりに克服しようとします。

事前に確信を持っていただくために、「誓約」を確証とするために、テレビタレントを出演させてブランディングを進めます。大手マスコミによるプレビュー記事やパブリシティ広告で、マスメディアの社会的信頼性(ブランド力)を利用して事前の確信を作り出そうとします。すべて「確かな価値を提供します」という、舞台価値の無形性を確かな有形性に変換しようとする手立てです。「認識の困難性」を克服せんとするマーケティング一手法です。この「認識の困難性」を克服せんとする様々な手立ては、一部は「顧客価値」に対する「顧客志向」の戦略にほかありません。それは同時に、より積極的に舞台とのコミュニケーションを志向する、「個人的な出来事=物語」を紡ぐ環境を高度化して、能動的な観客、聴衆(アクティブ・オーディアンス)を創造することにも繋がります。したがって、アーツマネジメントは「顧客価値」の創出へ向かう、「顧客志向」の関係づくりの作法=マーケティングが主要な要素となるのです。潜在的な「眠っている顧客」を揺り起こすのがアーツマネジメントの重要な使命なのです。