• HOME>
  • alaとは>
  • 館長の部屋>
  • エッセイ>
  • 総合政策としての「社会的処方箋」と国民目線の所得再分配制度設計を ― 「現物支給」としての社会包摂文化芸術サービス、そして創造的福祉社会へ。

エッセイ

総合政策としての「社会的処方箋」と国民目線の所得再分配制度設計を ― 「現物支給」としての社会包摂文化芸術サービス、そして創造的福祉社会へ。

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

経団連の中西宏明会長が「企業からみると、一生雇い続ける保証書を持っているわけではない」と話して波紋を広げました。正直、経団連のトップが日本の社会に対する責任放棄をした、と私は受け取りました。畳み込むように、トヨタの豊田社長からも「今の日本をみていると、雇用をずっと続けている企業へのインセンティブがあまりない」との発言がありました。一方では、20歳代から30歳代の若年層には終身雇用を要望する声が多数派を占めるようになり、かつては「フリーター」という。87年にリクルート社のアルバイト情報誌『フロムエー』によって広められた「フリーター」という造語が「かぎりない自由」をイメージして2000年代までは当時の若者のあいだに一種の憧憬を持って持て囃されていましたが、企業の都合でどうにでもされる雇用環境の不安定さに対しての拠り所のなさ、身分としては戦後の失業対策事業の、1日254円支給なので「ニコヨン」と呼ばれていた日雇いとまったく変わらないことが「フリーター」という「看板のすげ替え」で隠されていました。就職氷河期のロストゼネレーションの生活困難が近年リアルに露わになって来て、その事態を「我が事」と受け止めること等が重なって、若年層に「自由疲れ」が出てきていることがその背景にあるようです。県立大学の教員をしていた折に、求職期の4年生の一人が内定をもらえないで「フリーターになる」と発言していきなり瞬間湯沸器の如く激怒した記憶があります。就職氷河期の真只中でした。それほど雇用環境の激変が将来を暗澹たるものにすることに、当時の若者たちの思いは至っていなかったのです。

「終身雇用・年功序列」は日本の雇用慣行として、高度成長期を含めた戦後の「黄金の30年」を支えてきました。その為に企業コストは確かにかさみますが、前回の館長エッセイの『「歴史の峠」を越えた向こうに見える風景は―人口937人/年増の意味と、なぜ、いま、社会包摂と共生社会なのか』(https://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_209.html)に書いたように、その雇用慣行と企業の活発な経済活動と所得再分配の好循環が日本の福祉社会の盤石な礎を築き、日本人に「明日は今日よりも良くなる」という希望を与え、生産性の高い雇用環境を整え、国民の幸福感を下支えして、購買意欲の高い分厚い中流層社会をかたちづくってきたことは決して否めません。50年代半ばから70年代初頭の「ニクソンショック」、「オイルショック」まで続いた、欧米諸国の4倍にもなる年率10%超えの高度経済成長も、その制度慣行が担保されていた結果として実現できたわけです。「黄金の30年」と言われる日本の戦後社会進展の根底には「終身雇用と年功序列」があったと言えます。この雇用慣行を完膚なきまでに否定したのが90年代バブル崩壊後の「失われた10年」の時で、ほとんどのエコノミストが日本の雇用環境であった「終身雇用と年功序列」型人事及び給与を「時代遅れ」、「非効率」、「経済合理性の欠如」と全否定して、諸手をあげて米国型の「成果主義」の導入に同意しました。機を合わせるように「労働者派遣法」が数次にわたって改正されて「ヒ・セイキ」という言葉が日常語化して頻繁に使われるようになりました。

社会の仕組みに「競争原理や成果主義」を導入して「効率化と合理化」を企図する市場原理主義の新自由主義経済思想が「近視眼的な社会的正義」が「白い衣」をまとって導入されて、終には昨今の諸々の出来事の背景にあるように日本人の心にまで「競い合い・奪い合う」、「自分さえ良ければの利己主義・個人主義」の価値観に乗っ取られ、すっかり根を下ろしてしまいました。日本社会は著しく劣化しました。新自由主義思想は、「連帯」とか「つながり」とか「友情」という人間の情動に基づく根源的な存在欲求を、市場を不完全に導く要因としてネガティブに捉えています。しかし、そこにはバブル崩壊後の「失われた10年」における経済の行き詰まりをブレークスルーしたいという、「バブル崩壊後の経済停滞期の有効な処方箋」としての新自由主義経済への転換という国と企業経営者たちの強い意志が背景にはありました。しかし、一方では成果主義で若い時期に高給を得ていた者が、その給与が30代で伸びを欠き、あるいは低下して、子育てや教育費がかさむ年齢になると「終身雇用・年功序列型給与」時代のような所得の移転が起きず、生活に立ち往生しているという報告が最近ありました。新自由主義経済思想の導入と、それと連動する政権運営は、日本の社会にどのような結果を招くのかの想像力に著しく欠けた選択であり、しかもその責任を負おうとしないのはともに無責任としか言いようはありません。

その日本の社会構造を大転換させた変化には、必ず言い訳のような巻頭句がつけられていました。「グローバル化」です。グローバル経済での国際競争力に勝ち抜くために「痛みに耐えて」構造改革を推し進める、といった具合に。しかし、そのために人に係わる経費を合法的にカットする法律を成立させて、同一労働同一賃金ではない(欧州に比べると40%程度低い給与額)、安く使えて、いつでも代替可能な「使い捨て駒」たる非正規雇用者数を増大させ、その働き手の賃金を企業収益に所得移転したさせただけの「名ばかり構造改革」は、本来はマネジメント主体たる政治家や経営者が社会の健全性の持続継続性を担保するために生み出さなければならなかった「新しい価値=社会に好循環をもたらす新しい仕組み」を創出すべき責任を放棄してしまった結果だ、と私は考えています。GDPの年率を上げることが「景気回復」であるとの国民的錯覚を梃子にして、企業経営者も政治家も、ただひたすらに新自由主義経済を推し進めて「格差社会」を日本社会に定着させ、もはや階級社会とさえ言及する研究者もいるほどの「生きづらさ・生きにくさ」の蔓延する社会になってしまったのです。政治家と経営者が創出提案すべきだった「新しい価値」とは、「終身雇用と年功序列」が多くの国民に安定した福祉社会を約束していた時代の仕組みに代わる「新しい仕組み」であり、真の構造改革です。新しい社会の仕組みを構築するための、しかもより多くの国民の「幸福感」を担保するための政策の転換です。「終身雇用と年功序列」に代わる新しい社会秩序形成のための政策提案と企業の経営理念を提起できてこそ「真の構造改革」だと私は考えています。リーダーとは、そういうものではないでしょうか。

いまに至って、中央省庁は「共生社会の実現」を声高に言い立てるようになっています。効率化・合理化を推し進めて新自由主義思想の「小さな政府」に邁進した結果、人間が生きていくうえで最も必要な「見えない社会保障」と言うべき「Informal Securityの欠如」が社会の健全性と未来にどれほどの損失とコストをもたらしているかに気付いたと言ってよいでしょう。ただ、行政コストを削減する目的で「共生社会」を囃し立てているのなら、日本社会はさらに劣化して、国際的なポジショニングはままならなくなっていくに違いありません。しかし一方で、他者とつながらずに「繭の中の平安」になれてしまった人間が、ふたたび他者に関わる負担を引き受けるとなるとなかなか困難なことです。新自由主義思想が「自己利益を優先する」社会は、当然の結果として「つながりと愛と連帯の不在」をそのような価値観に囚われた社会に生きる人々の心を蝕んでいきます。アダム・スミスは『道徳感情論』のなかで「自己利益を追求する人間からなる社会では、幸福さと快適さが低下する」と書いています。

一方で、「Informal Security」を網の目のように張り巡らせた安全と安心の社会を維持するには、その社会を構成する一人ひとりに応能の負担を強いることになります。地縁血縁のコミュニティから解き放たれた人々は、コミュニティからの縛りからの「自由」を満喫して、その「自由」に囚われていきます。「つながりと愛と連帯」の不在を不便なことと認識する機会は「便利な社会」のなかでますます喪失してきたのです。利他的であることは馬鹿らしいとなり、何処までも利己的であろうとする価値観が蔓延っていくことになります。「見えない社会保障」と言うべき「Informal Securityの不在」と「つながりの貧困」は、日本の未来社会を描けないところまで来ています。今後は「Informal Securityの不在」が、少しずつ、しかし確実に行政コスト・社会コストを膨大させて行きます。それは、自己責任の「小さな政府」を目指した政府自治体に、結果としての「大きな政府」への道程を用意してしまうのです。それを拒むとすれば、格差は果てしなく広がり、大半の国民市民が希望とは無縁の一生を送らざるを得ないことになります。「人間の尊厳」を第一に保障できない国が国際的に尊重されるわけがありません。この国の喫緊の課題です。「存在の欲求」よりも「所有の欲求」を優先させた結果がいまの日本の社会です。「所有の欲求」は肥大化する一方です。「欲望」は充足することを望まず、増殖することしか視野にないからです。「自分だけが良ければ」の利己主義が蔓延ったのは当然の理なのです。

他方、利潤の最大化は民間企業の使命ですが、それは倫理的にも、道徳的にも、国民が許容できる範囲でのものであり、この30年間で言われた「ハゲタカ資本主義」、「強欲資本主義」、「ハイエナ資本主義」という非倫理的で利己主義的な企業の経済活動への呼称は、その活動基盤であり、企業活動の最終受益者である国民の離反を結果として招くことになります。この30年間で経済成長の恩恵に与ったのは、OECD加盟の先進国では人口の約60%前後です。あとの40%の国民は「取り残された人々」と言われています。竹中平蔵氏が盛んに喧伝していた「トリクルダウン」など何処の国でも起きていないのです。「需給のギャップがあるために、マーケティングが資本主義の原動力となりうるというのが私の主張なのです」と語る資本主義の擁護者たるフィリップ・コトラーでさえ、「トリクルダウン効果という言葉があります。国が成長すれば、その恩恵はどんどんと下に流れていくという考え方ですが、私はそんな状態を見たことがありません。不満を持つ人は不満を持ち続けていますし、中流階級はどんどん少なくなっています」と述べています。「トリクルダウン」は経済成長優先主義者の「詭弁」であり、うたかたの夢を庶民に見させる「詐術」だったと言えます。

さて、企業家たちが社会の健全化への責任放棄をした以上、かつての日本のような、経済成長が「トリクルダウン」となって国民が経済的にも精神的にも豊かで余裕の持てる仕組みは、とうの昔に雲散霧消してしまったのであり、「トリクルダウン」は日本の未来を閉ざしてしまった「ミスリード」であったと私は考えています。「戦後最長の景気」と安倍首相は国会で答弁していましたが、その実感を持っている日本国民はどのくらいいるというのでしょうか。GDPの伸びが国民の生活に直結しない、「幸福感」にならない時代になってしまったのです。その仕組みが雲散霧消してしまったからこそ、いま私たちは新しい日本の国のかたちを創ることに傾注しなければならないのです。でなければ、日本は沈没してしまいます。「この国に生きてよかった」、「この国を心から愛する」という感情の生まれる環境を創りださなければならない、いま、その過渡期を私たちは生きているのです。神野直彦先生の言う「歴史の峠」を私たちは生きているのです。「真の構造改革」はこの時代を生きる人間の宿命的な課題であり、使命なのです。企業は何のために利潤の最大化を求めるのか、誰のためにそれを使命としているのかが問われる時代になっています。利潤の最大化を使命とする企業経営の根本的な発想転換が求められる時代です。下落し続ける国民の可処分所得は、GDPの6割以上を占める個人消費の先細り現象を生んでいるのです。

内部留保を国家予算の4年半分である450兆円も積み上げ、しかも働き手への再分配をせずに「自社株買い」に走っている企業の社会的責任経営(CSR)意識とはどのようなものなのか、まったくもって判然としません。社会保障の議論で毎年のように「支給の減額と負担の増額」が判で押したように繰り返されていますが、その議論は「常識」の壁を破ろうとしない非改革的で、不毛で、とても建設的であるとは言えません。壊れたレコードのように私には聴こえます。「人間を中心に据えた、あるいは国民一人ひとりの尊厳をまずは最優先に守るという国のあるべき姿」に向かう新しい価値たる社会の仕組みを何故提案できないのか、私には不思議でならないのです。社会に対するその責任は当然ではありますが、政府自治体にもあります。そして社会によって事業の存続が許されている企業にはその責任があるのは自明の理です。すべての国民市民の幸福感のためにともに機能しないのなら存在価値すらない、と私はそう断じたい誘惑にかられます。船をより早く航行させるためにノット値をあげることのみに専らして、船が転覆しないための船底のバラストが機能していない状態に意識が向いていないのではないでしょうか。私たちは、日本社会は戦後一貫して続いた経済成長と、それによって自己完結していた、エスピン・アンデルセンの定義する日本型家族主義的福祉社会の成功体験からくる「経済成長の罠」に嵌まって身動きの取れない状態に陥っているのではないないでしょうか。「経済成長だけが難しい社会課題を解決する唯一の道」という幻想に踊らされている、しかもこの錯覚と誤解は、日本社会が罹患している死に至るまで踊りつづける病である、と私は考えています。「資本主義はその成功がゆえに土台である社会制度を揺さぶり自壊する」、80年も前にヨーゼフ・シュンペンターが看破しています。

私は言うまでもなく公立の劇場音楽堂等の経営に携わる劇場人の一人です。政治家でもなければ、企業経営者でもありません。だからと言って、現在の社会状況と無縁なところで仕事をしている訳ではありません。日本が陥っている現況に無関心では、劇場がその機能すべき公共性・社会性を何ら発揮できないし、ましてや税金で設置して運営しているのですから、丸ごと現在の社会状況を抱え込んで解決しなければならない事案と課題にまっすぐに向かい合うべきと私は考えます。私は何処かの孤島で仕事をしている訳ではないのです。私は決して「ハコモノ」にしないと決意して可児市文化創造センターalaの館長を引き受けたのですから、この考えは何があろうと揺らぎません。私たちは社会と隔絶した「安全地帯」で芸術の仕事をして税金から所得を得ている訳ではないのです。「社会」というと漠然としていますが、具体的には国民市民から負託されていることは何なのかを、決して情緒的にではなく、しっかり深掘りして突き止めなければ、そして自分たちだけが持つことを許されている文化芸術の多様な機能を武器として、それを解決に向かわせる専門的知見を働かせて、あわせてその「変化」というアウトカムを数値化し、その数値の根拠となる学際的な定性評価までを完遂しなければ、それこそ唾棄すべき「責任の放棄」の責めがブーメランのように自分に返ってきます。可児市文化創造センターalaは、私が就任時に「芸術の殿堂ではなく人間の家」と、その存在を再定義しました。私たちは可児市民が抱え込んでいる「生きにくさ」や「生きづらさ」の生活課題を解決に向かわせて、市長のおっしゃる「住みやすさ一番、可児」を実現する拠点施設たりうるか、を常に自省して、仕組みと理念を上書き保存して進化させています。その10年間の小さな仕事の結果が昨年一年の937人の人口増加なのだと自負しています。

さらに可児という地域のみならず、日本という国に生きていることの誇りを醸成するために、私たちは文化芸術の諸機能を駆使して何を為すべきなのか、「いま」という時代にある劇場音楽堂等の使命を探る作業を私たちアーラの職員は不断にしています。私がいま考えているのは、「文化芸術の社会包摂機能」を、教育政策、福祉政策、保健医療政策、多文化政策、国際政策、基礎自治体の移住促進政策、災害対策政策等、あらゆる政策分野を包括的にカバーする「社会的処方箋」という概念の日本の行政システムへの導入です。そのことで今後増大する一方と予想できる行政コスト・社会コストの抑制と削減を実現すべきと考えています。それが「所得再分配政策への文化芸術の社会包摂機能の介入」による国民市民の「存在欲求」の充足と「幸福感の醸成」につながり、「貧困」のみならず、減少し続ける「中流階級」の救済にもつながると私は考えています。その政策根拠たる定量評価となる社会的投資収益率(SROI)は、教育分野では16.7のSROI値を出した東濃高校を嚆矢として、岐阜県教育委員会と劇団文学座の提携契約による県下の県立高校12校でのワークショップによる中途退学者減少のプログラムが行われており、可児市内小中学校では、金沢の黒田百合さんをはじめとするTen seedsと体奏家 新井英夫さんによる「児童・生徒のためのコミュニケーションワークショップ」が市教育委員会との連携により通年で実施されて7年目に入りました。以前は全国ニュースになった「いじめ」があったほどだったのですが、その中学校が落ち着いてきて、「いじめの認知件数」が有意に減少したことが確認され、SROI値も2.31と出ています。

保健医療分野では、東北大学の佐々木先生と藤井先生が開発した認知症治療の「演劇情動療法」により、仙台富沢病院の入院患者対象の調査で1年間の減薬効果と介護費用が一人当たり3200円の抑制が明らかになりました。2025年の認知症患者数が675万人と推計されることから当該年度での高齢者医療扶助費は243億円の削減というアウトカムとなります。また、アーラで通年開催している、楽しみながら健康維持と仲間づくりができる高齢者ワークショップ「ココロとカラダの健康ひろば」(60歳以上対象)では、近隣地域の病院の理学療法士、作業療法士のグループ「ジェネラルワーク」との協働で、参加者の皆さんの健康診断および人間ドックのデータをベースとしてワークショップによる健康寿命の伸びがどの程度なのか、認知能力、身体機能がどの程度キープされているのか、社会関係資本(つながり)と生きがいの相関性等により、そこから推計される高齢者医療費の抑制額をSROI研究チームに委ねる準備が進んでいます。また、国際性においては、いわば東京を経由することなく国境を越えた連携を組むグローカルな経験交流、人材交流、理念の共有は、英国・リーズ市にある英国随一の社会包摂型経営のリーズ・プレイハウスとの連携契約を2015年に締結して、4年前から国際共同製作『野兎たち』(作・ブラット・パーチ 翻訳・常田景子 演出・西川信廣 マーク・ローゼンブラット プロデュース・衛紀生)の製作と日英の若者たちによるワークショップで舞台製作をするドキュメンタリープレイ『To See You ,At Last(やっとあなたに、会えた)』(演出構成・藤井剛 アレックス・フェリス)の製作に入っています。『To See You ,At Last』は、8月に東京池袋・アウルスポットとアーラでの上演が予定されており、『野兎たち』は12月のリーズ市での2週間の稽古と可児市での3週間の稽古を経て、2月上旬から新国立劇場小劇場で、中旬に可児市文化創造センターalaの小劇場で、3月には英国・リーズ市のリーズ・プレイハウスのコートヤードシアターで上演を予定しています。

現在試行している様々な社会的投資による「変化」の数値ついてはサンプル数がまとまったら追々まとめて公表しますが、ただ政策エビデンスの重要なポイントであるSROI調査は、現在のところ、可児市文化創造センターalaと可児市、文化庁から委託されている日本劇団協議会のみでの実施であり、その広範な導入によって政策における「投資対効果」を早急に実証すべきと思っています。そのための国の機関さえ必要であり、喫緊の課題と迫られていると考えるのは私だけでしょうか。せめて、文化庁内に一課設けて、その調査研究を専らとする専門職を配置するとか、劇場音楽堂等と芸術団体に向けた「普及事業」を「社会包摂事業」として、その委託補助につてはSROI値等の定量評価と学際的な定性評価の費用を調査研究費用を含めての補助として、文化政策エビデンスの抽出を加速させるとかの工夫が必要なのではと私は思っています。日本中が何もかも「2020」に集中的に向かっていることに私は強い危機感を持っています。気味の悪さと違和感を持っています。「After2020」が大事なのであり、此処で幾度となく繰り返し書いているように「After2020」に遺すべきレガシーは、「Inclusive Legacy」でなければ2020オリパラは国民市民全体の受益につながらない「無駄な投資」に堕してしまうとの差し迫った危機感を私は持っています。

私はあわせて「所得再分配政策への文化芸術の機能の介入」を、すなわち「現物給付」としての文化芸術サービスと、それによる「つながりの貧困」、「つながりの不在」からの離脱と脱却、さらに「生きる意欲」と「生きがい」と「幸福感」の醸成を、そして「明日の信じられる社会」をデザインしようとしています。これは数多くのサンプル数のSROI値とその数値がアウトカムした学際的な事由を集積すれば、おのずとその輪郭は見えてきます。多くの政策エビデンスを広範な行政分野に援用・発展させることで、「新しい社会の、新しい生き方」の輪郭が浮かび上がるだろうと思っています。それを私は「共生社会」、というよりも、正確には人々が違いを受け容れて「つながり」を取り戻し、互いに支え合う、足らないものがあっても補い合う「協力社会」(Cooperative Society)へ向かうグランドデザインと考えています。行政の縦割りでは、すでに複雑に入り組んだ社会課題を解決に向かわせる機能が果たせなくなっているために、あらためて提案するものです。

たとえば、DVと児童虐待を所管する部署が異なるなどの齟齬が事案の早期の手当の機会を逸しており、「悲劇の拡大」とその残酷さをもたらしている等、枚挙に暇がないほどです。縦割りから水平型に向かうことです。「社会的処方箋」の概念の行政への導入は、その機能不全の「改善」を目途とするものです。21世紀の行政課題への対応は構造が複合的になるため前世紀型では機能不全となっています。社会課題は不連続に点在するのではなく、複雑な構造で線として、あるいは面として連続性を持ったものとなっているからです。したがって、教育政策、福祉政策、保健医療政策、多文化政策、国際政策、基礎自治体の移住促進政策、災害対策政策等、あらゆる政策分野を包括的にカバーする「社会的処方箋」という考え方を早急に国と自治体が導入しなければならないと考えています。緊急を要する社会課題は、経済成長さえしていれば社会の諸課題、たとえば「格差」、「孤立」、「孤独死」、「若年層の自殺」等は自ずと解決するという考え、すなわち私の言う「経済成長の罠」によってむしろ悪化させてきたという経験を私たちは同時代的に共有しています。「経済成長の罠」は甚だ楽観的、というより、もはや非現実的であって何ひとつ解決しないばかりか、むしろ悪化の一途をたどってしまうという「行政の失敗」という苦い経験を私たちは共有しています。対処療法で「部分解」を求めるのではなく根本的な課題に向き合って、未来を見通せる「全体解」に向かうべき時期であると、私は思っています。現在進行する分断化の進む社会の行き着く先は「民主主義の危機」と感じています。シュンペーターならずとも現況には強い危機感を持つのではないでしょうか。

したがって「いま」必要なのは、「つながりの貧困」と「つながりの不在」を解決に向かわせる、先日の「あーとま塾」で講師を務めていただいた同志社大学の八木匡先生が主張されていた「ポリフォニック共創」、他のパートの演奏者やコーラスに耳を澄ませて聴いて共鳴し合う音楽の「ポリフォニー理論」とともに新しい価値を創り上げる過程で形成される関係性を構築するための不断の取り組みなのではないでしょうか。そして私は、英国の社会学者アンソニー・ギデンスの積極的福祉(Positive Welfare)の「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」という考えに耳を傾けなければならないと思っています。ここで言う「ウェルフェア」は福祉を指しますが、日本では「福祉」と聞くと弱者救済ととられかねないので、前掲の八木先生や佐々木雅幸先生とは、日本では「ウエルビーイング」(Wellbeing)を使った方が賢明との共通認識があり、ここでギデンスが書いている「ウェルフェア」も「ウエルビーイング」に読み替えていただいた方が良いかと思います。ちなみにWellbeingには直訳すれば「よりよい存在」となりますが、転じて「健康と幸福」という意があります。まさにポリフォニーによって結実される共創価値こそ、いまもっとも必要とされている「つながり」なのではないでしょうか。そして、ギデンスの主張する「心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」がこれに当たり、したがって劇場音楽堂等と文化芸術の社会包摂機能がもたらす果実とは「つながりの貧困」からの脱却を意味するのです。

財政の逼迫が社会保障等の社会福祉政策を機能不全にしているとの認識があるならば、「現金給付や優遇措置」という経済的ベネフィットのみに傾注するのではなく、「心理的なベネフィットを増進する」ための文化芸術による社会包摂サービスという「現物支給」によって、孤立と孤独の境遇から脱するプラットフォーム機能を全社会的展開して、その機会提供をすることで「生きにくさと生きづらさ」から国民市民をエスケープさせることを企図すべきなのではないかと、私は構想します。「前を向いて立ち上がる」のは受益者たる当事者であり、見方によっては「自助努力」を促すと言えないこともないですが、そのための「機会ロス」がないように制度設計して、「安心できる他者」との出会いと遭遇をアレンジすべきと考えます。その果実が確実に「心理的なベネフィット」の増進になるのは想像に難くありません。吉岡治という作詞家は詩人として評価されるべき人だと常々思っており、『天城越え』はもはや文学であると考えていますが、彼の作詞した『さざんかの宿』に「くもりガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか」というくだりがあります。私は「社会包摂」に関する講演会の折にフロアの空気を柔らかくするために良くこの話をするのですが、「社会包摂機能における文化芸術機能」とは、この曇りガラス拭く「手」のようなものと言います。「見えた明日」に歩むのは「あなた」なのです。「前を向いて立ち上がる」のは「あなた」しかいないのです。文化芸術や劇場音楽堂等が「あなた」を明日まで運んであげるわけではないのです。

ただ、この「現物支給」の制度設計する際にしっかりと留意しなければならないのは、「応益負担」という、介護保険以来、社会福祉分野に導入された経費分担の在り方ではなく、あたうかぎり「応能負担」で徴収される税金で賄うべきです。介護保険の「応益負担」以来、その過負担によって貧困層がさらに貧困に陥って「つくられた貧困」を再生産しているという大澤真理東京大学教授の指摘は正鵠を得ており、その轍は踏まぬように制度設計は慎重にされるべきと思います。私のこの提案は、まさに「所得再分配機能」の新しい展開として「連帯の経済」(Economy of Solidarity)の中に位置づけて、「共助」による「利他的社会構築」の芽吹きであり萌芽と契機とすべきです。弱肉強食イデオロギーの浸透による国民市民の連帯意識の衰退といった新自由主義思想の負の効果を払拭して、まさしく「明日が見える」制度設計をすべきです。文化芸術振興のための第三次基本方針を嚆矢とする「文化芸術の社会包摂機能」は、機能不全となりつつある「成熟社会のジレンマ」を突き抜けて、新しい社会構築を見通せるものでなければならない、と私たちは自覚すべきなのではないでしょうか。

このページの上部へ