エッセイ

社会的共通資本としての劇場音楽堂等と芸術文化を ― 成熟社会の綻びを回復に向かわせるために。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生

改正水道法が国会を通過して水道事業運営の民間委託が促進されることになりました。私個人としては「料金の値上げ」も心配ですが、それよりも国民にとって健康に直結する「水質と安全性の保障」が担保できるのかに非常に危惧を感じています。日本の水は世界に誇れる私たち日本人の財産です。紛れもなく「公共財」であり、「社会的共通資本」です。今国会の改正では、水道事業を運営してきた自治体が浄水場などの施設を所有したまま運営を民間企業に売却する「コンセッション方式」を促進しようとしているのが特徴です。しかし、日本人の健康と安全に直結する水道事業を利潤の最大化を使命とする民間企業と市場原理に委ねて良いものだろうか。「漁業法」も改正されて民間企業に漁業権を開放するという。沿岸漁民がとっていた量の数十倍の魚を大型船の巻き網でごそっと捕獲する。「資源の枯渇」などは利潤の最大化の前では何の意味もなしません。なんでもかんでも「民営化」、「規制緩和」をして「民のノウハウを導入」をすれば、課題解決するとでも思っているのだろうか。

「民間のノウハウ」を導入すれば「官の硬直化」を免れることが出来ると、90年代から委託管理方式だった劇場ホールにも言われ続けてきましたが、本当にそうなのだろうかという疑問が私の脳裏には長いことつきまとっています。2003年に地方自治法の改正で指定管理者制度が導入されましたが、総務省は「経営の効率化」と「サービスの質の向上」を目的として自治行政局長名の文書を度々出しましたし、当時の片山総務大臣が年頭会見で一瀉千里に予算の削減のみに走る自治体を諌める談話を発表しましたが、それらはまったく無視されて多くの自治体で民間企業を指定管理者にして正規職員をアルバイトとパートに置き換えるかたちで予算削減(これを効率化とは断じて思わないが)を次々に断行しました。結果として自治体の財政負担は軽減化されましたが、「サービスの質の向上」は当然ですが置いてきぼりにされたまま現在に至っています。「民間のノウハウ」を導入してサービスの質の向上を実現できた施設があるのなら挙げてもらいたいくらいです。文化庁は劇場音楽堂等から申請できる補助金の多くを芸術文化振興会に今年度から移管して、自治体を通すことを要件とする補助制度にシフトして自治体文化行政の主導的な役割に期待しているものの、「笛吹けど踊らず」の状態にさほど変化は見られていません。

2015年5月22日に閣議決定された「文化芸術の振興に関する基本的な方針(第四次基本方針)」では、「日本版アーツカウンシルの本格導入について必要な措置を講ずる」と記されて対応する補助制度も整備されたものの、すべての職員が非正規のままになっている「地域アーツカウンシル」が一般的であるのがそのよい例です。ニッセイ基礎研究所の吉本光宏氏によれば、その期待される機能は、「(1)中間支援機能の担い手、(2)新たな地域文化専門職の確立、(3)助成制度の運営に伴うシンクタンク機能の充実、(4)五輪文化プログラムの全国展開に向けた基盤づくり、(5)全国ネットワークへの展開」とされていますが、「地域文化専門職の確立」だけでも有能な職員を雇用すれば1億円程度の固定費は必要とされます。期待される「地域アーツカウンシル」の諸機能を果たすとなると、およそ低く見積もっても3億円から5億円は必要と思われます。

吉本氏の報告によれば、調査当時最も予算規模の大きかった沖縄アーツカウンシルで補助金総額は、当初1億9000万円(2012年度予算)だったが、2015年度には1億1014万円と削減傾向にあります。同年度のアーツカウンシル東京の補助総額は、単年助成、長期助成の二つの枠組みで実施されて、2006年度の発足時に2000万円だった助成予算が1億5000万円にまで拡大したとされています。これに人件費・維持管理費・水道光熱費等のランニングコストが加算されるのですから、最低でも3億円?5億円というオーダーはそれほど外れてはいないでしょう。現在の自治体文化行政の環境を鑑みれば、「地域アーツカウンシル」はもちろんのこと、全国に2200館はあるとされる劇場音楽堂等も自治体は何を目論んで最低でも数千万円の維持費を負担しているのだろうかと訝しく思います。民間の事業体を指定管理者にして事業費を計上しないくらいなら、いっそ廃して他の緊急を要する施策にそれらの経費をまわす方が健全であると私は考えます。建造物を経年劣化させるだけではなく、文化拠点を痩せ細らせるにまかせるのなら、また施設をただの鑑賞施設としか位置付けていないのなら、その予算を児童・生徒や高齢者のための施策に振り向けたほうが余程健全だと私は思います。その決断が出来ないのは、首長と議会の見識の低さに主に原因があります。自治体文化行政の実態はそのようなものに過ぎません。

「民間のノウハウ」の導入を企図した指定管理者制度から15年経って、前述のような外部環境に晒されて劇場音楽堂等の労働環境はすっかり「ブラック化」しています。私が経営アドバイザーをしている財団で新規職員の公募をしても応募希望者がまったく集まらない状況になっています。若くて、意欲があり、才能もある人材は望むべくもないほどに、劇場音楽堂等の職場はおおむね荒廃しています。本当に、利潤の最大化を目途とする企業の論理に委ねれば課題が解決できるとでも考えているのだろうか。「民間のノウハウ」とは人件費の削減、すなわち 固定費を変動費にする程度のものでしかないと私は思っています。「プロの経営者」と90年代後半から2000年代初頭に経済誌やエコノミストに持ち上げられた人物が、ただのコストカッターで、「新しい価値」を創造する経営者だったためしはありません。コストカッターの才能は「冷血漢」であることと言えます。従業員に本来は還元されるべき所得が経営側に移転して、直近の企業の内部留保は国家予算の4倍にも膨らんでいます。強欲な経営主権に他ならないと思いますし、これによって「失われた20年」が回復に向かうと公言し支持していた経営学者とエコノミストたちは総懺悔すべきと思います。そのために何十万人の命が断たれてしまったか、生活困難の境遇に追いやられてしまったのです。

彼らの「人間不在の不見識な発言」に対する「責任」はどう果たされたのか。この頃には80年代に「顧客満足」と対をなしていた「従業員満足」という言葉も経営書の中から姿を消してしまいました。そして、日本は格差社会に向かうことになります。「階級社会」とも言えます。「民間のノウハウ」とは「官の硬直化」と対をなしていると考えるのは「物欲しげな強欲者の幻想」に過ぎないのではないか、この言い旧された物言いこそが、まぎれもなく経済成長至上主義者の「思考の硬直化」ではないでしょうか。経営学者やエコノミストは国民全体のWellbeingのために働かないで何のために自分たちの知見を活かしているのか。 一部の政治権力者と企業家と富裕層のためにのみ奉仕しろと高等教育機関で教えられたとしか思えません。経済はそのためにあるとでも思っているのだろうか。

「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する」。宇沢弘文先生の唱えた「社会的共通資本」(Social Common Capital)の定義です。2000年11月に岩波書店から出版された『社会的共通資本』の中で先生がみずから上記のように定義しています。また、先生の作成されたプレゼンテーションのパワーポイントでは「社会的共通資本」を、「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置」、「社会全体とっての共通の財産であり、それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門家集団により、専門的知見と 職業的倫理観にもとづき管理、運営される」、そして「一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し、真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する」と定義しておられます。「社会的共通資本」は、「自然環境資本」、「社会インフラストラクチャー(資本)」、「制度資本」と大きく3分類されます。

宇沢先生は「社会的共通資本」の意味を理解するための例示として、
(1) 自然環境: 山、森林、川、湖沼、湿地帯、海洋、水、土壌、大気
(2) 社会的インフラストラクチャー: 道路、橋、鉄道、上・下水道、電力・ガス
(3) 制度資本: 教育、医療、金融、司法、文化
としています、 そして、「この分類は必ずしも網羅的ではなく排他的でもない」、「あくまで社会的共通資本の意味を明確にするため類型化」であると、発展性及び拡張性のある分類である旨をパワーポイントシートの欄外に明示しています。あわせて「それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門家集団により、専門的知見と職業的倫理観にもとづき管理、運営」されなければならないと念を押すように付記しています。

この宇沢先生のみずからの定義に従えば、「水」及び「上下水道」は紛れもなく「社会的共通資本」です。まるで「打ち出の小槌」か「万能薬」のように、何でも「民営化」と「規制緩和」すれば抱えている問題・課題の処方箋となって、他方ではそれらの施策が竹中平蔵氏の一貫して主張しているように「ビジネスチャンス」をつくって「経済成長」に資するという経済成長至上主義から一向に抜け出せない政治家やエコノミストの発想はあまりに楽天的に過ぎないか、単細胞的ではないか。驚くべき無邪気さです。「単なるコストカッター」でしかないカルロス・ゴーンをはじめとする2000年代初頭の何人かを「プロの経営者」と持ち上げた経済誌やエコノミストと同類の無邪気さと楽天性を、近年の政治家に私は感じます。「経営」とは「新しい価値創造」を果たすことであり、バサバサとコストを切り刻むことに経営の本質があるのではないことは言うまでもありません。イノベーションとは「従来からの常識」を突き抜ける突破力と展開力によるものですが、「民間のノウハウ」だけがそれを可能にするとは、私にはどうしても思えないのです。

可児市文化創造センターalaでの11年間は、「利潤の最大化」より「利益の最適化」により、「常識」を突き破って、市民に真の「新しい価値」を創造・提供することを専らとしてきた成果だと私は考えています。「利潤」は経済的な利得、すなわち「儲け」を指すのに対して、「利益」は公共の利益のように単なる経済的利得のみを指すのではないことは言うまでもありません。民間企業でもなく行政でもなく、「第三の道」の選択こそが劇場音楽堂等及び文化芸術の「社会的共通資本化」には隘路といえども逃れられようなく必要だったのだと、そしてその道を選択することからしか実現できない経営があるのだと、私はいま振り返えっています。

さて、宇沢先生は社会的共通資本の「制度的資本」に教育、医療、金融、司法とともに「文化」をあげていらっしゃいますが、それが如何なる根拠によるものであるかは不明と言わざるを得ません。「文化」へ言及がほとんどないからです。むろん宇沢先生の挙げた「文化」は私たち日本人の日常生活の律動・風習・習慣となっている生活文化や、コミュニティの結束を確認し、高齢者や障害者など社会的弱者を支えて「協働」を再確認する社会的機能を果たしている祭祀・祭式・信仰などがその範疇に数えられるのは間違いありません。したがって、ストレートに文化芸術と劇場音楽堂等を指すものではないとは間違いなく考えられます。しかし、それは当時の文化芸術の一般的通念から導かれたものであり、近年の文化芸術と劇場音楽堂等の「概念の拡張性」から言えば、私は第三次基本方針に「社会包摂機能」の文言が書き込まれた2011年2月の閣議決定を嚆矢として、宇沢先生の「文化」の概念も書き換えられるに違いないと判断しています。これについては後半であらためて言及します。しかし、それら「文化」はまさに「一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し、真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する」ための礎であると言えます。ここで言うところの「リベラル」とは、思想的な概念であるというよりも「人間の尊厳を中心に据えた」、事象の見方や考え方の意味合いと理解すべきです。

あわせて言えば、この定義は文化芸術及び劇場音楽堂等が本来的に果たさなければならない「存在の価値」と通底していると私は思います。もう一度反芻してみてください、「一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し、真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する」のは、文化芸術と劇場音楽堂等の公共的役割そのものだと思えないでしょうか。また、上記の「社会的共通資本」の宇沢定義に沿えば、「民営化」で課題解決すべきではないことが明確な輪郭で見えて来るし、「職業的専門家集団により、専門的知見と職業的倫理観にもとづき管理、運営」されなければ、本来的に受けるべき国民市民の受益が著しく毀損されることも容易に想像できるのではないでしょうか。つまるところ、指定管理者制度は駐車場の管理のように適用可能なものと、不適応な社会的共通資本に分類すべきであるし、明確に峻別すべきというロジックが浮かび上がるのです。横浜市の文化振興財団が、原則「公募」、「指定期間5年」を標準としながら、なぜ、極めて高度な専門性を有する場合等については、「非公募 特命指定」や「指定期間10年」が認められているのかを解く鍵は、まさしくここにあると私は思います。

さて、「成熟社会」とは、完全に熟れきった柿が枝からポトリと地に落ちる寸前の綻びが、あるいは破綻が目前に迫っているような社会のことです。別の言い方も出来ます。もはや経済成長を唯一無二の価値として追求すると社会に看過できないほどの分断化が起こり、多くの犠牲のもとに築き上げられた「民主主義」さえも危機的状況に晒されてしまうのが「成熟社会」なのです。確かにさらなる経済成長がまったき「善」であり、「正義」であった時代もありました。それは私が生きた時代でもありました。戦後日本の復興と急速な経済成長と、その到達点であった高度経済成長期は、経済成長こそが内在する社会課題を解決する究極の手段であったと言えます。たとえば、経済成長は企業収益も家計も確実にうるおして、明日は今日より確実に良くなると信じられる時代を生み出しました。企業にもたらされた利潤は、一部が社宅や保養所などの設置による福利厚生に向けられ、終身雇用は世代間の所得移転により教育費・医療費・介護費等の高所得が必要となる40代以降に分配される「企業内所得再分配システム」が機能して、社員の抱えている生活課題は穏やかに解決されていました。

それが激しく毀損されたのは90年代に入って米国から「成果主義」が入ってきて、「終身雇用」は旧くて企業収益の足を引っ張り、経済成長の妨げとなる存在と唾棄されるようになってからです。成果主義とは、「四半期決算的な考え方」であり短期的に成果をあげた者だけに手厚い処遇がなされるということであり、一見公平性のあるシステムのように思えますが、人件費をカットする手段として一部の企業経営者には固定費削減のための「有効な武器」となったのです。「公平性」というある種の「正義」を帯びているだけに、「企業内所得再分配システム」は一瞬にして崩壊してしまうのです。ほぼ時を同じくして「労働者派遣法」の改正が何次かにわたって行われて、成果主義よりもよりドラスティックなコストカットが「白昼堂々」と罷り通るようになります。これが経済成長のみを唯一無二の価値とした社会の危機を生み出して、何かを犠牲にしなければ成長を望めない成熟した歪んだ社会に突き進んだ大きな原因と言えます。「企業内所得再分配システム」に代わる社会的な「所得再分配制度」が政治的に提起されなかったことは言うまでもありません。むしろ所得再分配機能は80年前後から「ゆっくり」と、そして「緩やか」に機能不全となっていくのです。

「従業員満足」は企業の成長戦略の大きな武器であると、最近の『ハーバート・ビジネス・レビュー』に掲載されている論文では見直されてきているのですが、旧態依然とした前世紀的な経営者の頭の中からは、そして経営書からも「従業員満足」の文字はすっかり消えてしまいました。「従業員」は代替可能な「部品」でしかなくなったのです。「成熟社会」は格差社会を現出させ、いまや「階級社会」であると言い切る研究者もいるくらいです。限界的な危機状況に、社会はゆっくりと、しかし確実に瀕死の症状をあらわにしつつあります。

ここ数年、内閣府、厚労省、国交省、そして文化庁等の中央省庁の出す文書やウェブサイトに「共生社会」という言葉がかなり急速に目立つようになっています。「つながりの貧困」、「つながりの機能不全」が露わになってきて、社会全体に様々な「不都合な事実」が噴出するようになったのが、その「共生社会」への傾斜を加速度的に生んでいると私は思っています。「つながりの貧困」は同時に「自己肯定感の貧困」に捉えられる生活となります。「幸福感」の喪失です。アンソニー・ギデンス(英国・社会学者)の「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」という「積極的福祉(Positive Welfare)」概念規定が切実な響きを持ってきます。

財政的逼迫という環境事情があるにせよ、「経済的給付や優遇措置」という経済救済に専ら傾斜する社会保障への私たちへの刷り込みがいかに一面的かを、ギデンスの「積極的福祉(Positive Welfare)」は気付かせてくれます。ただ、Welfare(福祉)は日本では行政的な狭義に捉えられてしまうので、私はWellbeing(幸福・健康)と置き換える方が適切であり、ギデンスのニュアンスを言い当てているのではないかと思っています。「満足すべき生活状態を表す心理的な概念」は、「つながりの貧困」と「自己肯定感の貧困」からは絶対に立ち上がらない生活実感です。したがって、「社会の自己治癒力」を引き出すために、国民市民個々のWell-beingを現在させて生活実感とすることが、危機的な現況から急務を要するのではないかと、私はいささか切迫感を持っています。「共生社会」が中央官庁の政策キーワードに急速に浮上している意味を、私たちは知らなければならないと強く思います。

「経済的貧困」、「つながりの貧困」、「自己肯定感の貧困」という「相対的貧困の三要素」のうちの「満足すべき生活状態を表す心理的な概念」を成立させるための最大要件であり、必須条件は「安心できる他者」との出会いです。それを時間的にも経費的にも、より効率的にアレンジできる機能を持っているのは文化芸術であると、私は経験値から断言できます。文化芸術の持っている双方向性、双務性、協働性、相互発展性等、すなわち文化芸術に固有の社会包摂機能と、これまで上記で展開したロジックから、これが「日本版社会的処方箋」のベースとなる通底音であると言い切れます。劇場音楽堂等と文化芸術の果実は、間違いなく「一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し、真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する」ために寄与するという「社会的共通資本」の概念規定とほぼその輪郭は重なります。したがって、「日本版社会的処方箋」は文化芸術の機能を十全に活用して、人びとの生涯に「切れ目なく」関わる、まさしく「ゆりかごから墓場まで」の一人ひとりの人間のライフサイクル全体に寄り添う総合政策であると言えるのです。

2000年のノーベル経済学賞を受賞したジェイムス・ヘックマンは労働経済学を専門分野とする研究者ですが、教育学者とは異なり就学前の幼児教育の社会効果をマクロ的に捉えて、教育への投資がのちの福祉政策、労働政策、産業政策への財政支出削減効果をもたらすという視点の研究がその内容となっています。彼がその研究に援用したのがアラバマ州で1972年から2年間にわたって続けられた「ペリー就学前プロジェクト」であり、その追跡調査はその後40年近く継続されて、現在でもその対象となった人たちへの調査は続いているという。「就学前教育」と耳にすると大抵の日本人は「早期英語教育」や「幼児への数学教育」のように就学時に誰よりも先んじての学習能力(認知能力)の早期開発をイメージするでしょうが、その考えは最近中国で青少年の社会不適合という弊害が社会問題となっている「応試教育」(試験で良い成績を取るためにだけする教育)とまったく同じで詰め込み式の間違った教育法です。ペリー就学前プロジェクトは、「認知能力(学力)」の向上の礎となる「非認知能力」の開発と発展を企図している点で、日本で一般的に言われる「就学前教育(幼児教育)」とは大きく異なっています。いわば基礎学力(認知能力)の容量・キャパシティを大きく育てるものと考えてよいでしょう。その有意なアウトカムは後に引用する「ala TIMES」掲載のエッセイ『人の一生に寄り添うということ― ペリー就学前プロジェクトが物語るもの』を参照してください。

ここでいう「就学前教育(幼児教育)」によって涵養される「非認知能力」とは、デンマーク生まれの比較政治経済学者で福祉国家研究に絶大な影響力を持つイエスタ・エスピン=アンデルセンが強い危機感を持って、その機能不全に警鐘を鳴らしている「社会的相続」の主たる要素と重なっています。すなわち、自制心、寛容性、協調性、やりきる力(ペンシルベニア大学心理学教授アンジェラ・ダックワースが提唱する「GRIT」、歯を食いしばって頑張る力。彼女の著書でIQの高さよりGRIT能力の高い人間が社会的に高い地位にあるというエビデンスがあげられている)、我慢する力、対人共感性(つながる力=コミュニケーション能力)、想像力及び創造力(理解する力)、社会規範と社会道徳の承継及び社会倫理性等です。これらを敏感期である3歳から5歳の幼児期に教育投資し涵養することで、IQ向上の効果は漸減するものの、その後の学力の習得力、自立的な行動、危機管理能力等、社会に適応して生きていく能力に有意な変化が表れ、のちのちの福祉政策、労働政策、経済政策への有効な投資となる、とジェイムス・ヘックマンは主張しています。すなわち、この教育投資は「公平性と効率性」をともに両立内包している政策であり、「一人の人間の一生に切れ目なく寄り添う」、もっとも効果的な投資政策だと言っているのです。さらにヘックマンは、「非認知能力」とは独力で習得する能力では決してなく、家族、仲間、教師、クラスメート等の誰かを媒介してコミュニティのなかで身につけていく能力であるとして「taught by somebody」(誰かに教わるもの)と定義しています。ここでも就学前教育と他者を必要とする相互性のある芸術文化との相性の良さ、親和性が証し立てられています。

慶應義塾大学の教育経済学者中室牧子氏は『人生の成功を左右する「非認知能力」とは』で「青少年教育基金の基本的成果に対する非認知的能力への影響」(The impact of non-cognitive skill on outcomes for young people Education Endowment Foundation)の記載を分かり易く整理して下記のように図解してくれている。(https://www.recruit-ms.co.jp/issue/interview/0000000542/)あわせて国立教育政策研究所の報告書からの抜粋も併記します。(https://allaboutlifeworks.co.jp/weekendschool/about.html)私の上記した体験的な「非認知能力」の分類より理解しやすいと思われます。参考にしてください。

社会的共通資本としての劇場音楽堂等と芸術文化を ― 成熟社会の綻びを回復に向かわせるために。

ここでヘックマンがノーベル論文に援用し、その論拠のひとつとなった「ペリー就学前プロジェクト」のあらあらの要約を市民向けの機関紙「ala TIMES」のエッセイに書いているので引用します。
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人の一生に寄り添うということ― ペリー就学前プロジェクトが物語るもの。

「ペリー就学前プロジェクト」は、ミシガン州のペリー小学校に入学する前の3歳?5歳の「敏感期」の、貧困地区のアフリカ系アメリカ人の未就学児を対象に1962年から5年間実施された未就学児教育計画です。未就学児教育というと日本では「英語教育」とかを反射的に考えますが、ここでは私が最近問題としている「社会的相続」されるべき「非認知能力」の涵養に重点が置かれていました。「非認知能力」とは、自制心、協調性、寛容性、我慢、やりとげる力、対人共感性、コミュニケーション能力、社会規範と社会道徳の承継等を指して、社会で自立的に生活するために必要な能力で、かつては家族やその周辺のコミュニティから相続していた能力なのですが、貧困や発達障害等の阻害要因で、それらが未発達のまま成長して社会的適応に欠ける人が多くなっているのです。「認知能力」と言われる学力は10歳前後から伸びるのですが、この時期を境にして「出来る子」と「出来ない子」との格差が拡大していくのです。

このプロジェクトの凄いところは、その後40年近く子供たちを追跡調査して、その成果を同地区で就学前教育を受けていなかった子供と比較している点です。たとえば、月給2000ドル以上は29対7、持ち家率は36対13、生活保護の非受給率は41対20、14歳時の基礎学力達成度は49対15、この他に高校卒業率や犯罪率などが比較されています。追跡調査は現在でも継続されています。これをもとにした研究で2000年のノーベル経済学賞を受賞したジェイムス・ヘックマンは労働経済学の研究者なので、幼児教育はその後の人生を大きく左右して社会全体の経済に大きな影響を与える「投資」である、医療福祉や社会の生産性に多大な影響をもたらす「投資」と考えるべきという論文を発表しました。就学前教育から初等中等教育、高等教育、各種福祉政策、経済・労働政策と、一人の人間を切れ目なく支援することが結果として幸福と健康で社会を満たすということなのです。

ところがそれを実現するための行政は縦割りで「切れ目のない支援」とはなっていません。丸亀市職員研修での彼らの見事に「縦割り」思考回路を再認識しましたが、「車座集会」の市民の頭の中までもが「縦割り」なのです。困ったものですが、劇場政策と文化政策はその切れ目を横串でつなぐ役割を果たすものです。文化庁が近年盛んに言っている各省庁の政策に横串を指す役割とはこのことなのです。人間の一生は縦割りされるものではありません。一生に寄り添うとは劇場の大事な使命です。私が最近言っている総合政策としての「日本版社会的処方箋」もこのことを指します。年明けからの「館長ゼミ」では、このジェイムス・ヘックマンの『幼児教育の経済学』を輪読しています。来年以降には、人材と予算のハードルはありますが、アートを活用した「非認知能力」を育てるワークショップを実現できればと思っています。

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無論のことですが、看過できない社会課題が現出する都度に初等中等教育、高等教育、各種福祉政策、経済・労働政策へ介入した、これまでの「alaまち元気プロジェクト」が不必要であったとは考えていません。その都度の可児市の社会課題、市民の生活課題に変化をもたらして来た成果を今後も継続して、しかもバージョンアップさせて実施すべきとの前提に立ったうえで、なお、「一人の人間を切れ目なく支援することが結果として幸福と健康で社会を満たす」ための「就学前教育プロジェクト」は、可児市に生まれた幼児の一生に影響を与えるプログラムとして実施すべきと思います。あわせてその都度の市民の「Wellbeing(幸福と健康)」のための「社会的処方箋」活動はさらに進化させなければならないと考えています。大切なのは「切れ目ない支援」なのです。この地域の人々の生活重視に向かう二本の柱は、ともに文化芸術と劇場音楽堂等との親和的構造のあるプログラムであり、「個人と社会の自己治癒力」を引き出すために 国民市民個々のWell-beingを現在させることが、社会の分断により民主主義さえも危機的になっている現況から脱するために急務を要する「社会的処方箋」による投資的総合政策だと私は強く考えているのです。

これによって分断化する社会の危機回避だけではなく、将来的な財政支出の著しい軽減化も視野に入ってくると考えています。「ペリー就学前プロジェクト」の社会的投資回収率(SROI)は15%から17%とヘックマンの論文で報告されています。一般的な公共投資ではありえない回収率である、と大阪大学大学院経済学研究科教授の大竹文雄氏は評価しています。この急務を要する2つのプログラムこそ、宇沢先生の定義した「社会的共通資本」としての文化芸術と劇場音楽堂等の公共的存立理由なのではないでしょうか。それこそが劇場音楽堂等が「公共財」たる由縁なのではないでしょうか。とりわけて強制的に徴収された税金で設置し運営している公立の劇場音楽堂等は、ここが欠落してしまったら、中央の文化芸術を福祉配給する手段としてのみの存立根拠になってしまい、その公共的使命の殆どが失われてしまいます。むろん、そのような公共的使命の前にあっては、一部の例外を除いて、最終利潤を本社へ送金する民間企業の参入を許している指定管理者制度による「民間のノウハウの導入」が甚だしく不適応であるのは言うまでもありません。劇場音楽堂等に投入される公的資金は市民と地域社会への投資的行為に費やされなければ、社会的倫理に悖ると考えているのは私だけなのだろうか。自治体政策の中で財政逼迫になったら「最初に削られるのは文化予算」がこれまでの「常識」だったのですが、縷々述べてきたように文化芸術の概念は拡張し続けており、むしろ「最後まで削れないのが文化予算」になって来ているのです。

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