劇評

ローマの休日

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

オリジナル脚本:イアン・マクレラン・ハンター、ジョン・ダイトン
原作:ダルトン・トランポ
脚本:鈴木哲也 マキノノゾミ
出演:ジョー・ブラッドレー 吉田栄作
アーヴィング・ラドヴィッチ 小倉久寛
アン王女 秋元才加
  
2012年5月20日(日)[全1回公演]
会場-主劇場

 オードリー・ヘップバーンは、とりわけ日本人に愛される女優として知られている。中でも人気の高いのが映画『ローマの休日』。だから、大地真央主演でオリジナル・ミュージカルが作られたし、今回の企画にもなったのだろう。ストレートプレイ版である。しかも出演者はたった三人。どんな舞台になるのだろうと思ったが、映画そのままの楽しさをたたえつつ、より深い作品になっていた。演劇のマジックとともに、それを仕掛けた脚本(鈴木哲也、マキノノゾミ)・演出(マキノノゾミ)の手腕を改めて思う。
 登場するのは、アン王女とローマ在住のアメリカ人新聞記者ジョー、その友人でカメラマンのアーヴィングだけ。要するに、アン王女の王家の人としての部分は全部はずし、そこから逃れてジョーと出会ってからに焦点を当てた作りだ。つまり映画のハイライト部分の舞台化で、さる王国の王女が訪問先のローマでこっそり大使館を抜け出して……という前提がよく知られているからこその省略である。
 舞台は、公園で寝ていたアンを、ジョーが自分のアパートに連れてきたところから始まる。アンを酔っぱらい女と思い込み、邪険に扱うジョーが、ベッドで寝ようとする彼女をカウチにひょいと転がす様など、さわりをきちんと見せて、映画そのままであることを示していく。そして翌日、アーヴィングが持ってきた新聞でジョーは彼女を王女と知り、特ダネを狙ってローマ観光に誘い出し……という流れもほとんど同じだ。ローマ市内の観光名所を映像で映し出し、その前でスクーターに乗ったり、人形とダンスを踊ったりと、

演劇ならではの工夫を凝らしながら、楽しく進めていく。王女の失踪が王家とマスコミの間でどのように処理されているかは、ラジオニュースを巧みに織り込んで伝えた。
 といっても映画をなぞるだけではない。この舞台ならではの独自の設定を加えて、明快なメッセージを示した。それはジョーとアーヴィングを、アメリカの「赤狩り」によって追放された、ハリウッドの脚本家とスチール・カメラマンと設定し、「かごの鳥と自由」というテーマを、アン王女だけでなく二人の問題にまで広げたのだ。それによって、ジョーのキャラクターに一種の虚無的なかげりが加わっただけでない。たった一日の自由を満喫し、幸せな時を過ごして、身分違いの恋に陥る甘く切ない物語が、国家や組織と人間、嘘と真実、そして真の友情とは?というさまざまな問いをふくむ、深い物語として展開されたのである。映画に内包されていたテーマを、より強くあぶり出したといおうか。
 この運びが実に巧みだった。ジョーが悪夢で見る「非米活動調査会」喚問の思い出は、抑圧する国家への絶望と反逆を示している。そして国家を背負うアンもまた、ほんの少し反抗したのだ。この二人の前提が、ローマ観光の場面の中での二つの焦点――「真実の口」と「祈りの壁」と絡み合って、それらの問いを幾重にもリフレーンする。ジョーは国家から追放されても組織に縛られている。アンもまた国家から逃れきれないことを知っている。そしてそれらの縛りのため、二人は互いを騙している。「真実の口」の場面には、その二人の密かな心の震えがある。そして、「祈りの壁」でのアンの二つの祈りを知ったとき、さまざまな壁を越える友情と友愛、つまりは愛が強く立ち上がる。
 二人の心が本当に通じ合う、最後の記者会見でのその「愛」のシーンも、この舞台のもう一つの仕掛けによって、映画以上に感動的場面になった。それはジョーが新聞記者であることをアンが知る場面を、映画より早くしたことによる。最後の別れの時に、アンは記者証を見て、裏切られたと思う。その分甘く切ない恋の別れはなくなったが、立場の違いの残酷さを強調して、さらにつらい別れになった。だからこそ、ジョーが新聞記者の立場を捨てて愛の側に立ったことが、より強くクローズアップされたのだ。
  ジョーの吉田栄作は、かげりを秘めた懐の大きい男を堂々と演じた。やや一本調子ではあったが、男のダンディズムを感じさせた。それに対する秋元才加のアンも実に愛らしい魅力があった。特に備わった王女の気品をきちんと表現して、初舞台とは思えないほどだ。そしてアーヴィングの小倉久寛が達者にコミックリリーフの役割を果たした。それぞれの存在感が光り、たった三人であることを感じさせない舞台だった。

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