劇評

文学座「花咲くチェリー」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作/ロバート・ボルト
演出/坂口芳貞
出演:鍛治直人、名越志保ほか

2012年9月28日(金曜日)、29日(土曜日)
小劇場

 北村和夫の当たり役で、文学座の代表作の一つとされた『花咲くチェリー』(ロバート・ボルト作、坂口芳貞演出)が、新しい装いで再演された。翻訳もキャストも一新したこのバージョンが、私にとっては『花咲くチェリー』初体験である。60年代の名作を今再演する意味はどこにあるのだろうという興味で見たが、なるほど現代を先取りした作品と思えた。『ドクトル・ジバゴ』や『アラビアのロレンス』などの映画の脚本家としても知られる、ロバート・ボルトという作家の力を、改めて認識する舞台だった。
 妻と娘、息子と暮らすジムは、保険会社で働き、家族を養っている。農園で育った彼は、大地に足を付けて働く力強い男こそが理想で、会社勤めに情熱を持つことができない。いつか故郷にりんご園を持つという夢と、子供の頃に出会った力自慢の農夫の話が口癖だ。娘と息子はそんな時代遅れの父親に反発し、妻もひそかに不安を抱いている。そんな中、ジムは上司と争って解雇されたが、家族に言い出せず、毎日出勤する姿を装っている。そのため酒量も増え、妻の財布から金を盗んでしまう。さらに、種苗会社のセールスマンの訪れで、数百本のリンゴの苗木を注文していたことも判明する――。
  つまり、リストラされたサラリーマンの話である。しかもそのリストラは、サラリーマンとしての生き方になじまない、「男らしさ」という古いタイプの価値観を持ち続けたことから起こっている。彼自身にはその内実がないにもかかわらず、周囲には強い父親、たくましい夫という言動をとり続けずにはいられない。そしてその空周りは、妻や子供達にも会社の同僚にも、すでに見抜かれている。舞台は、彼の理想と現実のギャップが拡大していく過程を見せていく。冒頭ジムは、マッチョ型の堂々とした男として登場するが、舞台の進行につれて、その内実のなさがどんどんふくれあがっていく。最後に彼には、夢見る力さえ残っていなかったという、実に残酷な作りだ。りんご園の夢は妄想であり、そのように精神を病むところまで彼は追いつめられていたのだ。
 この痛ましさ。そしてこの最後のシーンによって、ジムという男の個人的悲劇が普遍であることを痛切に示した。ジムの姿は、社会的価値観の変化に乗り遅れた男の悲劇、ということだけではない。サラリーマンには、均質な駒であることが要求され、個人的な夢や理想を持つことを許されない。ジムの悲劇は、その疎外感の象徴だろう。効率化と成果への追求が60年代以上に厳しくなっている現代は、その疎外感がさらに強まっている。追いつめられ精神を病む人々の急激な増加は、周知のことだ。夢や理想などに見向きもせず、ひたすら働く人さえもが、鬱病になり、燃え尽き症候群になっている。ロバート・ボルトは、そうした現代人の姿を先取りしたのだ。
 さらにボルトの戯曲が力強いのは、ジム一人の軌跡を追うのではなく、家族総体の関係性と、それが崩壊するさまもしっかり描いたことだ。一つは娘の友人キャロルの登場によって浮かび上がる姉弟の姿だ。キャロルは自由奔放な女であり、そのため娘と息子を強烈にひき付ける。つまりキャロルは強い男の裏返しの強い女であり、娘も息子も父親に反発しながら、同じような心の傾向を持っていたことを示す。けれども父親の内実を知り、現実に強い人間が現れたとき、もはや父親には目もくれなくなってしまうのだ。それは親離れというより、一つの崩壊だろう。
 そして、どんな時も彼を支えていた妻も離れていく。彼女は夫の幼児性を知りつつ、力を合わせて生きていこうとした。けれども夫は夢見る力を失っていたばかりでなく、本当に妻と向き合おうともしないのだ。その絶望から、彼女は家を出て行く。彼女はもう一人のノラだろう。彼女たちは互いに支え合う関係をこそ求めている。けれども男はそれに気づかず、ありもしない強さだけを追おうとする。ジムが彼女を取り戻そうと、火かき棒を折り曲げようとするラストシーンは、そのズレの大きさを象徴して、さらに痛ましい。
 このバラバラに壊れそうな家族をつなぎ、家庭を守ろうと一人務める妻を、落ち着いて演じた名越志保がすばらしかった。また、同僚役の大原康裕も、会社人間として功利的に生きざるを得ない現代人を、わずかな出番に象徴した。アンサンブル芝居としてしっかり創られていたが、もう一人魅力的な配役が加わればなお良かったように思う。

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