劇評

俳優座劇場プロデュース公演 音楽劇『わが町』

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作  ソーントン・ワイルダー
訳  鳴海四郎
演出 西川信廣
音楽 上田亨
作詞 宮原芽映
出演 土居裕子、原康義、瀬戸口郁、麻乃佳世、粟野史浩、川井康弘、
   花山佳子、保可南、茜部真弓、岡のりこ、金子由之、金成均、
   藤側宏大、ピアノ演奏 佐藤拓馬
平成25年5月23日(木)18:30開演
       24日(金)14:00開演
可児市文化創造センター・小劇場

 ソートン・ワイルダーの『わが町』は、このところ静かなブームのようで、あちらこちらで上演が続いている。可児でも2011年に、柴幸男の構成・演出で、自分達の町の物語に仕立てた『わが町 可児』が上演された。百人あまりの市民参加によるその舞台は、ワイルダー戯曲の本質を伝えながら、親しみやすい市民劇になっていて、ご覧になった方も多いと思う。他の大多数の上演も、同じように自分達の町の物語としたり、あるいはさらに現代的に翻案するなど、改変を加えることが多いようだ。
 それはワイルダーが1938年に書いた、アメリカの架空の町に住む人々の1901年ごろの物語として展開する世界は、その奥にどの町のどんな時代の物語としても通じる普遍性を持っているものの、やはり現代日本の日常感覚とは遠く、普遍性を確かなものにするための手立てを必要としているからだろう。そして今回の音楽劇『わが町』は、その手立てを音楽に求めた作品だ。基本的にはワイルダーの原作に添いながら、情動に強く働きかける音楽を使うことで、その壁を乗り越えようという企画だろう。演出の西川信廣と音楽の上田亨が長年暖めていた企画だそうで、それを実現させたのだ。鳴海四郎翻訳、宮原芽映作詞。透明な歌声の土居裕子をはじめ、文学座や俳優座などからの出演者によるプロデュース公演である。
 原作同様、進行役の説明に従って、物語はその説明の劇中劇のように展開する。隣り合う家族、ギブス家とウェブ家を中心に町の日常を描く第一幕、その両家の長男ジョーと長女エミリーの恋愛と結婚を描く第二幕、そしてエミリーの葬式を通して、この町の墓に眠る人々を描く第三幕と、原作そのままの流れだが、一つだけ変えた。それは最後の葬式のシーンを、冒頭にプロローグとして加え、そこから始まる物語としたのだ。それは、永遠に繰り返される生を死者の側から見返すという、この戯曲の根底に横たわる主題を強調する作りだ。そのことによって、第一幕早々に進行役によって語られる、ギブス夫人がギブス氏より早く亡くなったという話題や、新聞配達の少年が戦死したという話題が心に残っていく。このように元気に今を生きている人も、いつか必ず死ぬということ、そしてそれは思いがけない形でふいに訪れるということが、頭の片隅に棲みつくのだ。
 そしてその思いと、冒頭と最後に全員で歌われる「いつまでも くりかえす 宇宙の営み」といった歌が重なり、ささやかな日常を生きる一人一人が、大いなる宇宙の永遠の流れの一粒一粒であることや、そのかけがえのなさに生きている間はほとんど気づくことがないということが浮かび上がる。演劇の音楽を数多く手がけている上田の曲は、分かりやすく劇世界に寄り添った。そしてエミリー役の土居の、透明でりんとした歌声の美しさ。
  けれども、こうした仕掛けの数々にもかかわらず、私にはどうしても厚い壁を感じる舞台でもあった。それは、十六、七歳の少年少女が夜九時には床につき、女の理想はよき妻になることで、権威ある父親、家庭第一の優しい母親といった、古き良きアメリカの明るく健康的な家庭像への違和感である。それが典型的なサンプルであり、その典型を通して普遍を導く作りだが、残念ながらその健全さは、今の私達の典型ではない。このような家庭像や近隣関係にリアリティが感じられず、絵空事に思えてしまうのだ。それほどに私達の生きている今は病んでいる。
 もちろんワイルダーの戯曲の奥には、人間の基本的な姿がある。健全だろうと病んでいようと、風俗の皮をはがせば、似たり寄ったりの人生の時間がある、とは思う。けれどもその理解は頭の上でのことで、感覚的な共感を妨げるのだ。とりわけ、「この人生は、二人ずつで送るように決まっている。一人は不自然」というような歌が陽気に歌われることに、首をかしげてしまうのだ。つまり音楽だけではそのギャップを乗り越えることができなかったように思う。むしろ音楽劇にしたことで、人生の明るく健康的な面が強調されすぎ、ギャップを拡大させた面もあったのではないか。病んだ心にも響く何か、そして病んでいてもなお、人生はかけがえがないと思える何か、が欲しかった。『わが町』を愛する人々によって、熱く作られた舞台だとは思うのだが。

このページの上部へ