劇評

ala Collectionシリーズvol.8「すててこてこてこ」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作 吉永仁郎
演出 西川信廣

出演 坂部文昭、千葉哲也、春風ひとみ、福本伸一、鍛治直人
   岸槌隆至、大場泰正、加納朋之、高塚慎太郎、鈴木亜希子、石川武

2015年9月26日(土)- 10月3日(土)計7公演
可児市文化創造センターala・小劇場

ala Collectionシリーズvol.8「すててこてこてこ」

ala collectionシリーズの八作目。今回は文学座との共同制作で、『すててこてこてこ』の上演だ。「牡丹灯籠」や「真景累ヶ淵」など怪談噺や人情噺を作った三遊亭円朝と、その弟子で「野ざらし」などの滑稽噺を残した円遊。近代落語の租とされるこの二人を中心に、江戸から明治へと時代が変わった中で苦闘した落語家たちの物語である。落語という大衆芸能の世界を通して、権力の介入や観客の嗜好など、芸術と芸術家をめぐる普遍的問題を描いた。
舞台は、円遊が円朝の前で、自分が作った「野ざらし」を披露するところから始まる。調子の良い語り口で客のウケをねらう円遊は、多少の言葉の間違いは意に介さない。だが、「真を映す」を信条とする円朝は、それを厳しくとがめる。そもそも「野ざらし」は二代目正蔵が、仏教説話として作った怪談人情噺だった。それを円遊が滑稽噺に改作したのだ。
人間をリアルに表現するか、笑いか。舞台はのっけから、落語をめぐる二つの立場と対立から始まる。それは本質的対立であると同時に、円朝という偉大な存在を前にした弟子たちの苦労の結果でもある。円遊をはじめ弟子たちは、円朝の芸に心服しているからこそ、かなわないと思い、別の道を模索せざるを得ないのだ。円遊はそれを滑稽噺に求め、万橘や円太郎ら芸の未熟な二人は、さらに悩みを深めている。
 

ala Collectionシリーズvol.8「すててこてこてこ」

この関係と対立を底流にしながら、舞台は彼らのもう一つの苦闘を描いていく。それは客の質の変化と、芸能も民衆教化策に利用しようとする政府の方針で、この二つの圧力に円朝も弟子たちも共に苦しむのだ。仏教説話から始まった落語は、粋を好む江戸っ子の目と耳に洗われて洗練されてきた。その洗練された芸が、明治になって、地方から東京に押し寄せてきた政府役人や自由民権運動家たちには通じない。円遊の言う、「お上は汚い手を伸ばし、高座の下を見れァ、洒落の通じぬ不細工な顔がポカーンとしている。上と下からのはさみうち」という次第だ。
牛鍋屋での民権家たちとのトラブルや、どぎつい踊りを見せる寄席は満席だが、円朝が新作「真景累ヶ淵」を語る寄席はがら空きといった話題で客の質の変化を語り、円朝が外務大臣井上馨に鹿鳴館に招かれるシーンで政治の圧力を見せる。井上は彼に怪談噺をやめて、忠孝を説く「塩原太助」を作れと迫る。円朝の芸の理解者を気取りながら、その実、彼がめざす芸術を少しも理解してはいないのだ。ダンスが好きでたまらない西洋かぶれの井上は、当時の政治家の象徴だろう。その姿を揶揄しつつ、権力の強さと怖さを端的に示した。そして円朝は、黙々と期待以上の「塩原太助」を作り、引退を表明する。

ala Collectionシリーズvol.8「すててこてこてこ」

一方万橘と円太郎は、落語をあきらめ、「へらへら踊り」とラッパを吹く珍芸で人気を集めている。円遊はなんとか滑稽噺を貫いてその芸が認められ、真打ちになる。
その真打ち披露の高座で、円朝は「塩原太助」を語り満座の涙をしぼる。その孤高の芸を目の当たりにして、円遊は、自分に禁じていた珍芸「すててこ」踊りを踊ってしまうのだ。万橘と円太郎と同じく、観客の安易な嗜好にすがってしまう、苦い幕切れである。この幕切れは二つの敗北を示している。円朝に対する弟子たちの敗北であり、そして客と権力に対する落語の敗北だ。
もちろん落語が完全に敗退したわけではない。今の落語界では、円朝の作品も円遊の作品も人気演目として語り継がれ、彼らが目指した芸と芸術がきちんと継承されている。ただ、この時期に落語はこのような危機に見舞われたのであり、芸術と芸術家は、たえずその危機と背中合わせにあるということだろう。この作品はその問題を正面から切り取ったのだ。
したがってタイトルや落語家の世界ということでの予想とはちがい、重い舞台だったように思う。何しろ主人公の円遊が終始いらだっている。円朝にかなわない自分にいらだち、観客と権力にいらだち、万橘や円太郎のだらしなさにいらだち、円朝の変化にいらだち……。まっとうな芸術を追求するが故のいらだちと苦悩とは思うものの、戯曲にもう少し変化球があればとも思った。
坂部文昭が苦悩を胸に納める円朝をどっしりと演じ、円遊の千葉哲也も懸命に軽やかさを出そうとしていた。万橘の福本伸一、円太郎の鍛冶直人、円朝の芸を継承する朝太の岸槌隆至らも、芸人のにおいを身にまとい、明治の落語家たちの世界をのぞかせてくれたとは思う。

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