劇評

アーラ演劇塾2006 「間違いの喜劇」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

原作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:小田島雄志
演出:間宮啓行
出演:篭橋俊裕、酒向裕香、富永翔子、中田由布、
森明穂、山本和佳 (以上アーラ演劇塾生)
小林清秀、杉本政志、中井出健、長谷川耕、星和利
堀江ありさ、前田恭明、間宮啓行 (以上助っ人)

2006年12月14日(木)19時開演
        15日(金)19時開演
        16日(土)14時開演
会場-演劇ロフト

 この劇場が開いているアーラ演劇塾の2回目の公演。普通はこうした場合、塾生の人数にあわせた作品を選び、講師の演出で上演することが多いが、この塾では、シェイクスピア作品の上演にこだわり、東京のプロの俳優も参加して一緒に舞台を作るという珍しいケースだ。前回は最後期の悲劇「リア王」をリーディングで上演したが、今回は最初期の喜劇「間違いの喜劇」に本格的に取り組んだ。発声などに多少の差も見られたが、スピーディーな展開でそれを忘れさせたのがなにより。

 この作品は、2組の双子による人違いや勘違いの混乱を描くドタバタ喜劇。シェイクスピアもこのころは、とにかくお客に受けることだけを必死で考えていたんだろうなと想像すると、なんとなくほほえましい。

 ある貿易商人夫婦に双子の兄弟が授かり、同じ日に生まれた貧しい家のやはり双子の兄弟を召使いとして共に育てることにした。ところが、海外から故郷に帰る船が難破し、6人はバラバラに。父親は弟と召使いの弟と生き延び育てたが、2人は7年前に兄たちを探す旅に出て、今やその行方も分からない。父親が彼らを探す旅の途中、エフェサスという町にやって来ると、そこでは兄が召使いの兄と暮らしており、弟たちもやって来ていた――。

 書いているだけで混乱しそうな、こんな状況による1日の物語。つまり、長年生き別れだった家族が、偶然再会するまで(なんと母親もこの町にいた!)で、その大団円までに思いっきり間違いのドタバタを見せる趣向である。間違いのもとは、2組の双子がそっくりなことに加えて、どちらも同じ名前ということによる。商人の息子たちはどちらもアンティフォラス、召使いはどちらもドローミオなのだ。

 シェイクスピアはなぜ同じ名前なのかを説明しないし、むしろ、父親が冒頭で縷々いきさつを述べるくだりでは、「不思議にうり二つ。名前の違いの他は区別できないほどでした」と言ってるのに……と、いつも引っかかるのだが、それはさておき。また弟コンビは、双子の兄たちを探す旅を続けているのだから、間違いが続く途中で気づかないか?と思うのだが、それもさておき。兄アンティフォラスは、弟アンティフォラスを彼と間違えた妻や友人たちに追いつめられてきちがい扱いされ、召使いのドローミオ兄弟は、ころころ変わる主人とその命令の行き違いでなぐられ続ける――という展開だ。

 とにかく矛盾や疑問をすっ飛ばして、その間違いの数々をいかに軽快に笑わせていくかがこの作品のポイントで、間宮啓行の演出によるこの舞台も、ふんだんに遊びながらそれに徹して見せていく。それもただ単にドタバタにぎやかにというのではなく、シェイクスピアの仕組んだドタバタをきちんと表現したのだ。つまり、なぐったりなぐられたり、舞台の周りを走り回ったりといったアクション・ギャグをたたみかけただけではなく、そのスピーディーな動きの中で、シェイクスピアのあふれるような言葉のギャグをしっかり聞かせ、ドラマの展開も楽しませた。

 こうした作品の場合、それができているかどうかでずいぶん違ってくる。どんなに一つ一つのシーンで爆笑させても、流れや関係性を見失ってはわけが分からなくなり、同じことの繰り返しになってしまうからだ。構造が単純なだけにそうなりがちで、にぎやかに騒いでいても少しも面白くない舞台を私は何度も見ている。混乱を楽しむ芝居ではあるが、芝居が混乱してはつまらないのだ。だが間宮は、リズミカルな笑いの中に着実にドラマを積み重ね、夫婦の機微や当時の商人の取り引きの仕方、主人と召使いの関係性など、物語の背景まできちんと認識させて、人間喜劇としての味わいにまで広げた。

 それにはその動きとせりふを着実にこなした、役者たちの奮闘があったことはいうまでもない。とりわけ、なぐられてはひっくり返り続けながらへこたれない召使いを、陽気に表現したドローミオ兄弟の長谷川耕と杉本政志が、この舞台の基調を創った。また、夫を愛する余りテンション高く取り乱す、アンティフォラス兄の妻エドリエーナ役の酒向裕香も目を引いた。この酒向はじめ塾生たちが、先輩たちの胸を借りてがんばる姿も舞台のエネルギーになったと思う。

  

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