劇評

青年団第50回公演「上野動物園再々々襲撃」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

原作:金杉忠男
脚本・構成・演出:平田オリザ

出演:足立誠、猪股俊明*、大崎由利子*、大塚洋、荻野友里、
木崎友紀子、志賀廣太郎、篠塚祥司*、高橋縁、天明留理子、
根本江理子、羽場睦子*、ひらたよーこ、松田弘子、
安田まり子、山内健司、山村崇子 
(50音順/*=旧金杉アソシエーツより参加)

2006年 5月26日(金)14時開演/19時開演
会場-小劇場

 かつてのアングラ演劇の一つに、金杉忠男率いる中村座という劇団があった。東京の下町葛飾区の原っぱをモチーフに、少年少女時代の思い出と彼らが成長した後の姿を交差させる一連の作品を作った。大人の俳優達が、半ズボンと短いスカートの少年少女に突然変貌して暴れ回り、突撃板と呼ばれるベニヤ板に激突する、まさに「体当たり」の演技がその特徴だった。私はそのうわさと伝説は耳にしていたが、実際の舞台を見たのはずいぶん後のことで、90年代初めに名古屋で上演された「胸騒ぎの放課後」という作品だった。すでに中村座を解散し、金杉忠男アソシエーツに変わっていたが、それでも、中年の俳優たちが少年少女を演じる姿には異様な迫力があり、「ああ、これか」と納得したことを覚えている。当時は、女優が少年や少女を演じることが一種のブームでもあったが、それらの洗練された姿とはまったく違っていたからだ。

 さて、その金杉の原作を、平田オリザが構成・脚本・演出し、金杉チームと平田チームの俳優達が演じた「上野動物園再々々襲撃」は、同じでありつつ違う世界だったといえる。少年少女時代は演じられることなく、思い出話として語られるだけ。突撃板の出番ももちろんなくて、洗練された美術の喫茶店を舞台にした会話劇である。身体の劇ではなく、言葉の劇であった。それでも、過去を語りながら、ノスタルジーにはならない舞台だった。過去は何かしら今にからみつき、照射しつづける。そのない交ぜになったところでの生と死。つまりは、<今を生きる>ことが、生々しく表現されていたのだ。

 友人の葬式に出た同級生や同窓生が、その中の一人が経営する喫茶店に集まってくる。思い出話に花が咲き、とりわけ、らくだに乗ろうと上野動物園にしのびこんだという伝説のエピソードで盛り上がる。そこに、そのときのヒロイン菊子がやってくる。メンバーは喜ぶが、席をはずせば仙台に嫁いだという彼女をめぐるうわさがひそかに語られ、離婚した吉田の前には娘が現れ、藤崎はガンであまり余命がないと告白する――。

 舞台は、一見たわいもないご町内劇のように進む。いくつかの年齢差はあっても、同じ街で生まれ育った幼なじみや、その街で働き生きる顔なじみの人たちが、出たり入ったりする中で、そんな思い出話やうわさ話、商店街の慰安旅行に行くかどうかといった、どうでもいいような会話と日常的な風景が繰り広げられるのだ。親しかった友達が死に、いつも以上に仲間意識が芽生えて、子供のころの歌を歌ったりもするが、それ以上に特別なことが起こるわけではない。

 だが、芝居が進むにつれて次第に見えてくるのは、そのひとりひとりは、やはり別々の時間と空間を生きているということだ。そのことをことさら話題にするわけでも説明するわけでもない。ただ、いくつかのエピソードがアトランダムに積みかさなるうちに、次第に、この<ひとりひとりの人生>という思いが、見る者にわき上がってくるのだ。仲間同士が肩を寄せ合おうと、なつかしがろうと、ひとりひとりの人生には何も影響しはしない。力にもなれないし、解決もしない。何事かを語り、何事かに向かう演劇ではなく、ただ人々の姿が放り出されているようなクールな表現だけに、そのことがクリアに見えてくる。

 しかし、それは悲観することでもないし、あきらめでもない。それぞれが自分の無念を抱え、笑いあったりいがみ合ったりする。そのような人生の実相を伝えるだけだ。そしてその冷静な表現から、逆に生々しい生が強く浮かび上がるのだ。人物たちの出入りとさりげないエピソードの積み重ねで、そのことを凝縮していく平田の手際と、役者たちの舞台での立ち方は、本当にみごとだ。それは、エッジの効いた芝居のように瞬間的な興奮にはならないが、後からじわじわ効いてくるたぐいのうまさだ。

 舞台正面奥に喫茶店の窓が大きく切り取られ、それが終始黒々と口を開けている。それは過去と未来の暗黒だろう。生とはその間の瞬間の積み重ねだ。そしてラストに、男たちが騎馬を組み、菊子とアルバイトの女の子をのせて「月の砂漠」を歌うとき、そして菊子が「死ぬなよー」と叫び、藤崎が「おお」と答えるとき、その生を支え耐えさせるのは、この一言だけだと、胸にしみるのだ。

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