劇評

黒テント第55回公演「ど」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

原作:小寺和平『吃音集団』より
構成・演出:山元清多
  
出演:内沢雅彦、木野本啓、宮崎恵治、愛川敏幸、畑山佳美、
森智恵子、伊達由佳里

2006年 5月 8日(月)19:00開演
会場-小劇場

 劇団黒テントの「ど」(小寺和平原作、山本清多構成・演出)は、さまざまな意味でユニークな作品だった。なにしろ舞台上に、劇場がある。4本の柱と屋根のある簡素な演技空間と、その両サイドの客席が舞台の上にあり、通常の客席は前の4、5列だけというミニマムな空間での上演である。そして原作の小説を生かした脚本は、心理や状況を説明する地の文もそのまま読むという構成。しかも吃音、つまりどもりを正面から取り上げた内容だ。吃音者が登場するドラマは見ているが、その問題そのものをテーマにした作品は、初めてのように思う。さらに1964年の話で、60年安保の話題が大きくからむ。40年前の話でわかりにくいだろうと、当時の状況や言葉の解説が入ったりする。時には、当時の歌を客席も一緒に歌ったり――。そんな珍しい作りの芝居だった。

 さて舞台は、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」など60年代のヒット曲を、出演者たちがにぎやかに歌い生演奏するところから始まる。そしてその中の一人が、主人公の吃音者武谷になり、彼に電話がかかってきて物語の世界へ。町工場で働き、普通の人のようにスムーズに電話で話すことができない彼が、その難行苦行をどう乗り切るかを、微細な心理描写と状況説明を交えて、たっぷり見せる。それがおかしい。当人にとっては深刻な事態だが、それをリズミカルにユーモラスに語る語り口に、笑わされてしまうのだ。

 次は、武谷が同じ吃音者仲間の杉雄と中田と語り合う、喫茶店でのシーン。

 彼らはそこで、なぜ自分たちはどもるのか、その原因をめぐって論争し、武谷がどもらなかった瞬間のエピソードを経て、杉雄が突然どもりを克服するという流れだ。その間に、それぞれの数々の屈辱の思い出がはさまれ、吃音者のさまざまな困難の種類や状況を解説していく。それらは、非吃音者の私にとって、発見の連続だった。緊張をすればどもるという体験は間々あるものの、それが高じて発語そのものができなくなるという切迫した事態の深刻さ。それが劣等感と強迫観念になり、状況をさらに悪化させる負のスパイラル。歌うときはどもらないことから、心で歌いながら発語を探すという必死のマニュアル等々。

 そしてこの舞台は、そうした吃音者の一般的な困難を語るだけでなく、彼らを生み出す社会の差別の構造まで描こうとしたようだ。武谷が吃音であることを忘れてまくしたてたのは、60年安保闘争の品川駅でのことだ。当時の思想の対立などの状況がよくわからないものの、闘争やストライキに対する熱い思いが我を忘れさせたらしい。それは町工場の労働者である彼の鬱屈した心の噴出だったのだろう。一方、杉雄が突然どもりを克服するのは、部落出身者だと告白した瞬間だ。そのことが彼を苦しめ、自由に話す心を抑圧していたのだ。腐った固まりが吐き出されたような杉雄の告白。そしてそのあと、彼が中野重治の詩「雨の品川駅」をとうとうと語り出す場面は、衝撃的だった。

 けれどもそれを見ながら、何かちがう、何かずれているとも感じていた。それは、そうした社会的な描写によって、特定の時代の特定の困難のように思えてしまったことだ。なぜなら、当時の体験や知識のあるなしに関わらず、今ではほとんどの人にとって、ストも闘争も安保も思想の対立も、リアリティをもつことができなくなっているからだ。今は新たな貧困、新たな差別、新たな困難の中で、私たちは生きている。何よりも私たちは、1人1人が孤立しており、熱く語り合ったり、肩を組むことはない。この舞台は、そうした現代を告発するものとして作られたのかもしれないが、むしろ断絶を見せたように思う。私にとっては差別を考えるよりも、70年安保を思い出すなつかしい話で終わったのだ。

 それは、小寺和平の原作の問題ではないだろう。悲劇的構造を喜劇として対象化した魅力的な小説だ。けれどもその小説を今の舞台作品とするときに、その魅力に無造作に寄りかかるのではなく、悲劇的構造を洗い直し、現代との接点を発見する必要があったのではないか。例えば歌うことがキーポイントの一つであり、「雨の品川駅」がキーワードであったとき、最後にその詩をあのメロディーで歌うことはなかったのに……、と思うのだ。  

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