劇評

可児朗読劇場vol.1「親子のまなざし」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

構成・演出:前川錬一
出演:勝部演之、高林由紀子、小松エミ、堀江範彦

第1部:『カーネーション』作・重松清
第2部:『父おや』作・山本有三
第3部:『父の詫び状』作・向田邦子
アンコール:『風』作・井上靖、『八月の星座』作・吉田絃二郎

2005年12月10日(土)15:00開演
     12月11日(日)14:00開演
会場-小劇場

 朗読劇、語り、ドラマリーディングといった公演が増えてきた。ドラマリーディングは戯曲を読むもので、朗読劇や語りとは違うとか、そもそもは本公演前の試演や戯曲の紹介なのだとか、いろいろと議論も多いが、要するに<読む>を主体にした公演だ。盛んになってきたのは、普通の演劇公演よりも経費も安く手軽にできるという事情があるのだろう。けれどもそのことによって、新しい発見もあった。動きや装置などがなく、純粋に言葉だけでも、十分にドラマは伝わるのだということ。つまり、聴くことによって、こんなにも想像力は広がるものなのかということへの、新鮮な驚きがあったと思う。

 さらに、演出によっては、普通の公演よりも実験的でおもしろい舞台になりうるという発見もあった。今年夏に、名古屋で行なわれた「AAF戯曲賞ドラマリーディング」では、戯曲賞の受賞作4本を4人の演出家が競って演出し、それぞれアヴァンギャルドで緊張感のある舞台を作った。台本を手に持って読む、あるいは戯曲の指示どおりには動かない、という制約を、逆に先鋭的な演出に転化したわけで、結果的に刺激的な演劇公演になったのだ。つまりこのスタイルは、演劇の新しい鉱脈になりつつある。

 で、今回の可児朗読劇場「親子のまなざし」は、正確に読み、正確に伝えることをベースにおいた、きわめてオーソドックスな朗読劇だった。小説、戯曲、エッセイと、ジャンルのちがう3作品だが、それらの書かれた言葉が、耳を通して情景として立ち上がる。読むことの中に演じることをきちんとふまえた出演者達の力があったからだろう。タイトル通り、親子についてのドラマである。選んだ3作品は、日本のさまざまな時代のその姿だ。そこから時代による変化も、また変わらない部分も見えてくる。

 まず、重松清作の「カーネーション」は、現代の親と子の風景だ。母の日の当日、同じ電車の同じ車両に乗り合わせた3人の話。その車両の網棚の上に1本のカーネーションがあり、そこから引き起こされるそれぞれの心象風景だ。1人は数年前に妻を亡くし、再婚を考えている男。そのことを2人の子供に、今夜切り出そうと思っている。2人目は、渋谷で遊んで帰ってきた女子高生。母親を軽蔑し反発しているが、そんな自分もいいとは思っていない。もう1人は、認知症の母親の病院帰りの男。彼はそのつらさについつい安楽死を考える――。かつてのように無心に関われなくなった現代の親と子の、うっすらと不安な関係を、シビアに優しく見つめた重松らしい作品だ。

 次の山本有三作の「父おや」は、<親子の断絶>などという言葉もなかった古き良き時代の話。妻を亡くして男手一つで育て上げた娘を嫁がせた男の、四六時中彼女のことを思っているほほえましい姿だ。帰ってくる日はそわそわと待ち、病気になったと聞けば夜も眠れないぐらい心配する。おそらく今の父親も同じなのだろうが、それを実に率直に表現できた幸せな父親像だ。ばあややお手伝いさんがいる、かつての中産階級の暮らしぶりや品のいい言葉遣いも興味深い。最後は、向田邦子の名作「父の詫び状」。到来物の伊勢エビを玄関先に置いた話から、少女時代の玄関先での父親との思い出へと移る。父親が家長であった時代の、不器用な愛情表現のエピソードだ。不器用の裏のあたたかさ。やはり親と子が自然に向かい合っていた、幸福な風景だろう。

 もしかすると、第2部の父親と娘にも、似たようなエピソードがあったかもしれないと想像する。そして、第1部の女子高生の家族から、何が消え失せたのかと考える。3つの小説と戯曲とエッセイは、1つ1つのドラマを伝えただけでなく、そんな風に互いに響き合って、親と子についての思考を促した。選択と組み合わせの妙だろう。

 そしてさらにおまけがついた。アンコールとして2本の小品を聴かせてくれたのだ。1つは、どんなに愛し合っていても親と子はやはり他者であるという冷厳な事実を語る井上靖の短編「風」。もう1つは、そんな意識の入る余地もないほどに<絆の賛歌>を高らかに歌い上げた、吉田絃二郎の「八月の星座」だ。これでピンからキリまで見せてもらった。いや聴かせてもらった。ただ、今回は父親ばかりで母親の話がなかった。有史以来、男と女の話と親子の話は星の数ほどある。ぜひシリーズで続けて欲しい。怖い話、こっけいな話などなど、さまざまな親子を見たい、いや聴きたいと思う。そして、時にはハッと驚く演出も交えて欲しい。ささやかな試みから、豊かな演劇体験が生まれる場として。

このページの上部へ