劇評

二兎社公演32「歌わせたい男たち」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作・演出:永井 愛
出演: 戸田恵子、大谷亮介、小山萌子、中上雅巳、近藤芳正

2005年11月26日(土)19:00開演
会場-小劇場

 二兎社公演「歌わせたい男たち」(永井愛作・演出)を見て、永井愛のうまさに舌を巻いた。何しろ笑いと涙が同時に押し寄せてくる。その笑いも理知的に仕組まれたものだし、涙も情緒的なものではない。そして、主題の重さを考える日々が続いた。そのことを考えれば考えるほど、この素材をこう料理するか!と、思わずにはいられなかった。

 教育現場での「君が代・日の丸」問題である。とある都立高校の卒業式当日の朝、式まであと2時間に起こったことを、保健室を舞台にリアルタイムで見せていく。花粉症のクスリをもらいにきた校長(大谷亮介)と、採用されたばかりで、初めての式のピアノ伴奏に緊張のあまり目まいを起こしている音楽講師(戸田恵子)が出会う。この彼女の<緊張>に、校長が過敏に反応する。君が代の伴奏をいやがっているのではないかと思いこみ、説得しようとやっきになるのだ。そんな校長の異様な情熱にはわけがあり……という流れだ。ただ1人、君が代を歌わないと決めている社会科教師(近藤芳正)や、校長の側に立って<教育改革>に情熱を燃やす英語の教師(中上雅巳)、何となく体制派の養護教諭(小山萌子)らも加わり、君が代・日の丸をめぐる、教育委員会のすさまじい締め付けの実態と、それによって教師達がどのような精神状態になっているかが明らかになっていく――。

 まず、教室でも職員室でもなく、エアポケットのような保健室にした舞台設定がうまい。そのことで登場する教師達の素の部分を出し、本音のぶつかりあいを容易にした。さらに、ある限られた人たちの話から、学校全体を想像させた。そしてそのぶつかりあいを通して、今学校で起こっていることを、次々に見せていくのだ。それは、君が代をめぐる奇妙な解釈や論理のすり替えであり、歌わない者を犯罪者のように扱う理不尽な強制と事細かな罰則であり、「内面の自由」も認めないという暴論であり、そしてその個人だけでなく他の教師や生徒にまで連帯責任を負わせる等々の、まるで江戸時代?のような実態だ。

 しかも、それらをしかつめらしく開陳するのではない。永井は3分に1度は笑わせる勢いで展開する。誤解やすれ違い、勘違い、その結果の奇矯な振る舞いといった笑いの要素を丹念に織り込んだだけではない。その実態のあまりの信じがたさに、思わず笑ってしまうことまで計算に入れる。さらに保健室の外で起こる事件を絡め、学校という密室での現実をリアルにスリリングに積み重ねていく。そして、そんな永井の作劇を演じた、役者達がまたうまい。元シャンソン歌手でちょっとピンぼけな音楽の戸田、ノンポリの素朴さががんこさに転化した社会科の近藤、彼自身の追いつめられた歳月を思わせる大谷、流行に乗り遅れまいと先走る英語の中上、無責任、無関係を貫こうとして結果的に体制派になっている養護の小山と、それぞれがキャラクターを立たせ、笑いのツボを心得て演じるから、楽しいことこの上ない。そしてその楽しさのまま、シビアな問題に向かい合うことになる。

 しかし、この作品は、そうした学校の実態を告発するためだけに作られたのではないように思う。永井が描いているのは、私たち日本人の個の崩壊の姿だろう。1人1人が自立した個人として存在し、互いにそれを尊重し合うといった社会の前提は崩れている。なぜならこのドラマには、思想信条の対立といった高尚なことは一つもないからだ。ドラマの中で最も追いつめられていく社会科の教師は、ある思想に寄って立っているのではなく、ただ思想信条は自由であるべきだと主張しているにすぎない。しかし、この主張が<過激だ>と言われる。もはや個が存在するための前提が崩れ、1人1人が孤として追いつめられているということだろう。

 しかも追いつめられているのは、彼だけではない。花粉症になるほど心労を重ねる校長も、ノンシャランの養護教諭も、体制派になろうと汲々としている英語教師も、そして、政治も社会も何も知らずただ食べていくことだけで精一杯の音楽講師も、それぞれに追いつめられ、流れにまかれていくのだ。この<流れに巻かれていく>5人のパターンの中に、私たちも入っているのではないか。私たちは孤立し、上から静かに流れてくる<強制の風>に、易々と流されていると感じている。そして息苦しさと閉塞感がつのり、フラストレーションがたまっていくことも知っている。それらが、ほんのわずかのきっかけで爆発するだろうことも……。この作品は、そうした今の日本を正面から描いている。だからこそ、最後のシャンソン「聞かせてよ、愛の言葉を」に胸がつまるのだ。

このページの上部へ