劇評

こまつ座第78回公演「小林一茶」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作:井上ひさし
演出:木村光一

出演:北村有起哉、高橋長英、キムラ緑子、小林勝也、松野健一、
柴田義之、永江智明、吉田敬一、田中壮太郎、佐藤淳、
大原やまと、島川直

2005年11月5日(土)18:00開演
会場-主劇場

 共に山形県庄内地方出身の二人の作家――井上ひさしと藤沢周平が、小林一茶を描いている。底辺から人間を見つめようとする姿勢も似ているが、その視線の先に、貧しさと悪戦苦闘しながら俳句を作った一茶が焦点を結ぶのだろう。一茶を考えつつ、「芸術家とは何か」という問いを、静かに自分に重ねて思考している気配が共通してあるのもおもしろい。

 さて、井上ひさしの「小林一茶」(木村光一演出)は、例によって凝った趣向で展開する。一茶が寄寓している札差井筒屋から大金が盗まれ、その犯人として一茶が疑われたという史実をもとに、彼をよく知る鳥越界隈の住人たちが、いかに一茶があやしいかを、劇中劇として見せていくという趣向だ。人の良さそうな下町の住人達が、若い同心見習いに手柄を立てさせるためにという、いかにも善意の中でことは始まり、それぞれの証言で一茶の人生が浮かび上がるという流れだ。しかし、一見お楽しみのためだけに仕掛けられたかに見えた劇中劇の本当の意味が、最後のどんでん返しで明らかになる。趣向倒れに終わらず、一茶論だけでなく日本人論やこの国の成り立ち論になっているところがすごい。

 舞台は、現代の交番のような自身番。その家主や番人、その場に捕まっている飯泥棒、そして町内の人たちが、同心見習いを一茶に仕立て、自分たちもさまざまな役を演じて、江戸に出てきてからのさまざまなエピソードを綴っていく。それは、奉公にしくじってばかりの少年が、たまたま紛れ込んだ懸賞句会で俳句の才能に目覚め、以後俳句で食べていこうとして悪戦苦闘するエピソードの数々で、泥棒になってもおかしくないような、食い詰めお金に汚い姿だ。しかしもう一方、乞食同然の暮らしの中でも、欲得を忘れて俳句に熱中していく、根っからの俳人一茶の姿も次第に明らかになる。そのこっけいでみじめですさまじい姿を、とりわけ因縁の深い竹里との関係を通して描いていく。

 竹里は、一茶を俳句に導いた恩人だが、たちまちライバルになり、やがて追い抜かれる。その間の二人の裏切り裏切られるエピソードの数々は、芸術家でありつつ食べていかなければならない人間どうしのすさまじいドラマだ。後半、飯泥棒が実は竹里だということが明らかになり、そのすさまじさが現前化される。こうして劇中劇は、次第にお遊びの域を離れていく。そして、にぎやかな笑いの中で、貧しさから逃れたいともがき、女好きでもある一茶が、俳句にがんじがらめにとらわれていく姿が次第に浮き彫りになっていく。同時に、そうした芸術家の周りに形成されるサロンの酷薄さも。一茶の姿はモーツァルトに重なる。

 こうして舞台は、無惨で気高い芸術家一茶と彼を囲む人々のドラマを立ち上げていき、かなりの満腹感を味わうのだが、さらに最後に追い打ちがかかる。一茶を犯人に仕立てるための劇中劇は、実は町内の人々と一茶のパトロン井筒屋が、お金もうけのために仕組んだことだったというどんでん返しだ。一見善良な町人と見えた人々が、小金ほしさにやすやすとうそをつく。しかも大金持ちや役人のおこぼれにあずかる形でだ。そのいやらしさ、薄汚さ。井上ひさしは、そこに日本人とこの国の姿を見ているのだろう。さまざまに語られる<座>=組織や仲間についてのせりふや描写が、その日本人の姿を端的に語っている。つまり、「和を持って尊しとなす」が、たちまちなれ合いと排他精神でよどんでいく。そこにひそむ、お金がなによりという思想。しかもその中にいて汚れに気づかず、その座を維持しようとやっきになる。江戸の鳥越界隈の人々は、企業犯罪が横行する現代の私たちなのだ。

 そして劇中劇は、現在激しさを増す情報操作の象徴だろう。実は若き同心見習いは、元芝居の作者見習いで、劇中劇のからくりに気づいたとき、彼は同心をやめて再び作家になろうと飛び出していく。金持ちや役人のひもつきではない、本当の芝居を作るために。そこに、一茶と同心と、そして井上ひさしの姿が重なる――。

 相変わらずのお楽しみ芝居と気楽に見始めて、複雑な構造と重いテーマに、まさに脱帽させられた。もちろんその根本は、井上の戯曲の力だが、それを軽々と見せた演出と役者の力も大きい。一茶と同心を躍動感あふれる演技で演じて、舞台にダイナミズムを与えた北村有起哉、女役を一手に引き受けたキムラ緑子、竹里の屈折をひょうひょうと見せた高橋長英、番人と井筒屋を演じ分けた小林勝也らが、スピーディーで魅力的な舞台を創り上げた。

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