劇評

音楽座ミュージカル「21C:マドモアゼル モーツァルト」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

原作:福山庸治
脚本・演出:ワームホールプロジェクト
2005年9月21日(水)19:00開演
会場-主劇場

 メンバー全員が、激しいダンスやめまぐるしい動きをしながら、息も乱さずにたっぷりと歌い上げる。10年ぶりに活動を再開した音楽座のミュージカル「21C:マドモアゼル・モーツァルト」は、まずはそんなミュージカルの基本がよくできていることに心が動いた。ミュージカルとはいいながら、アンサンブル全体の水準でそれができていない舞台が実はけっこう多いのだ。そして今回の作品は、その上にたって、オリジナルの独特のドラマがあった。これもまた、興味深い内容だった。

 モーツァルトは女だったという話である。娘が天才的な音楽の才能を持っていることに気づいた父親が、男として育てた。女ではその才能を生かせない時代だったからだ。そこから起こるさまざまトラブルを、ライバル作曲家サリエリと妻コンスタンツェとの関係を通して描く悲喜劇だ。二人との葛藤はよく知られているが、女だったという視点を入れたことでより複雑によりクリアになった。つまりサリエリは、モーツァルトの才能を見抜くが故に愛と嫉妬に悩むのだが、さらに男としての愛も加わり、二重の屈折した愛に苦しむ。一方のコンスタンツェも、女と結婚した女という悲劇を抱える。悪妻としての風評の裏には、彼女のそんな苦しみがあったという次第だ。しかしこのドラマのおもしろさは、奇抜な発想をテコにした、そんな裏読み的なところだけにあるのではない。この二人の葛藤が、モーツァルトの前では空回りするばかりというところに問題の本質がある。

 モーツァルトにとって、自分が女か男かということはさほど問題ではない。彼女(彼)には音楽だけがすべてなのだ。ピアノをさわればたちまち曲想がわき、それを心のおもむくままに変奏させて美しい音楽を生み出す。そしてそれを、音楽への導き手である父親に示す。「パパ見て!」と。この場合パパは、美に導く神、ミューズだろう。そのミューズと共に音楽に戯れることだけが、彼女(彼)の現実だ。それ以外の人生のもろもろには、さほどの現実感覚を持てないのだ。モーツァルトにとって人生は虚構である。それがスタンダールいうところの「裸形になった天才」の姿だろう。その姿はサリエリにとってもコンスタンツェにとっても残酷なものとのる。実は女だったということは、その虚構性と残酷さを明快にしめす仕掛けだったのではないか。

 そしてこの仕掛けは、もう一つのことを連想させた。実際のモーツァルトも、精神的に両性具有的な存在だったのではないかということだ。パパゲーノとパパゲーナ、タミーノとパミーナのように、自分の分身を愛するような愛を描いた「魔笛」の不思議に透明な美しさは、そこから生まれたのではないか。そして、実は女だったというのは、そのことを強調する仕掛けでもあったと思う。もちろん、現実と虚構の転倒や両性具有性は、モーツァルトに限ったことではない。才能ある芸術家に多々見られることだ。ただ天才モーツァルトは、その度合いが強かったのだろう。だからこそ、一見奇抜な発想による舞台が、よく知られた彼の人生とさほど違和感なく重ねられたのだと思う。

 じつはこの作品には、もう一つの隠されたテーマがあったように思う。それは、老いたサリエリが戦火に焼かれる少女の妄想を見るという、冒頭の不可解なシーンである。そのとき少女は、「パパ!」と叫ぶ。このことがいったい何なのか、舞台を見ている間中気になった。おそらく戦争が頻発している現代への批評的まなざしを、モーツァルトの生涯や音楽をとおして語るというもくろみだったと思う。だが、その後のフォローが弱く、もう一つ訴えてくるものがなかった。ドラマの中にこの主題がとけ込まなかったように思う。

 さて舞台は、そうした生涯を、「フィガロの結婚」や「魔笛」など、モーツァルトのオペラと重ねながら、スピーディーにエネルギッシュに描いていく。1枚の紙をやりとりしながら、結婚の契約書とオペラの原作の契約書の混乱ぶりを描くシーンなど、みごとだ。オリジナル曲とモーツァルトの曲をアレンジした音楽も、親しみやすい。そして冒頭でのべたように、全員がいきいきと歌い踊った。小柄な体をフル回転して、まさに自己回転自己完結のモーツァルトをはつらつと見せた主演の新妻聖子をはじめ、広田勇二、中村桃花、浜崎真美らがしっかり舞台を担っていた。特に新妻のチャーミングさに、ミュージカルスターの新しい誕生を思った。

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