劇評

おとなも楽しい!子どもの劇場2005 アンデルセン生誕200年記念「雪の女王」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

脚本・演出:テレーサ・ルドヴィコ
2005年9月3日(土)17:00開演
       4日(日)14:00開演
会場-小劇場

 私がこの可児市文化創造センターで初めて見た舞台が、テレーサ・ルドヴィコ演出の「美女と野獣」だった。その舞台から受けた衝撃は今でも忘れられない。美しく象徴的な表現も新鮮だったが、最もひかれたのは、古典の新しい解釈だった。美女が自身の野性を発見するなんて、これまでいったい誰が想像しただろう。

 だから、今回の「雪の女王」にも大いに期待した。ルドヴィコは、このアンデルセンの童話をどう解釈し、料理するのだろう、と。結論から言えば、とりたてて目新しい解釈も斬新な試みもなかったように思う。むしろアンデルセンの原作に忠実にていねいに創り上げていた。しかし冷静に考えれば、この「雪の女王」という作品は、そのように取り組むべきものとも思えるのだ。アンデルセン童話の中でも最も長く複雑な内容をもつ作品である。子供のころ、私はこの童話がよく分からなかった。悪魔の作った鏡のかけらが目と心に入ったカイが、それほど悪い子になったと思えなかったし、雪の女王も確かに冷たいけれど邪悪な感じではない。第一ゲルダは、困難を自分の力で乗り切るのではなく、みんなの協力を得て、カイのもとに行き着くのだ。つまり、分かりやすい善と悪の戦いがない。

 けれどもだからこそ、この作品はすばらしいのだと、この舞台を見て思った。アンデルセンが描いたのは、人間社会のリアルな現実だ。ルドヴィコはそのことを伝えるために、いわゆるメルヘン的な誇張をせず、やはり意をつくしたといえる。

 舞台は、悪魔がすべてをさかさまに見せる鏡を作り、それが割れて世界中にちらばり、カイの目と心に入り、雪の女王に連れ去られ……と、原作どおりに進んでいく。「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」という宮沢賢治の「雪渡り」のリズミカルなせりふも取り入れて、日本の民話的な味わいも出したが、それもほんの少しのことだ。6人の出演者は、全員すぐれたダンサーでもあり、象徴的な動きで場面を紡いでいく。打楽器と篳篥の生演奏もふくめ、全体的に抑制したシンプルな表現で、観客の目を舞台に吸い寄せる作りだ。

 その中で特に心に残ったのは、まだ仲良く暮らしていたころのカイとゲルダが作っていた小さな小さな庭だ。それは二人の愛と幸せの象徴であり、それを失うことがどんなに大きな損失なのかを示すこの物語のシンボルでもある。したがって普通なら、その美しさかけがえのなさを強調して表現するところだろう。ところがルドヴィコは、本当にささやかに見せたのだ。予想以上に小さかっただけではない。植えてあるのは一輪のバラ、その庭に雪が降るさまも、ほんの数片の雪紙をチラチラと舞わせるだけと、ミニマムに徹した。その結果、幸せとはささやかなものなのだということを、逆に強く示すことになった。

 実際に私たちは、幸せというものがあるとすればささやかなものであり、すぐに逃げていくことを知っている。逃してしまうのは、ちょっとした欲望だ。美しいものに囲まれて暮らしたい、豊かでありたい、何でも知りたい、偉いと言われたい、強いと思われたい……。そんな当たり前のだれもがもっている欲望、決して不正とか邪悪とは言えない欲望が、本当の幸せを見失わせてしまう。「雪の女王」は、そういう私たちのリアルな世界=心の不条理を見つめた作品なのだ。

 ゲルダがカイを探す旅の中で出会う、魔法使いのおばあさんや王女と王子、山賊といった人々は、そんな私たちの心のありようを具体化した姿だろう。そしてその果てに雪の女王の世界=理知がある。理知が欲望を生み、欲望が排他性を生む。エデンの園のリンゴの実と同じだ。人はそこから逃れることはできない。だからこそ、彼らはだれもが孤独である。舞台にはこの孤独があった。アンデルセンの精神が舞台で生きていると思えたのは、この孤独が見えたからだ。

 ただ、もう一つダイナミックな表現が見たかったとも思う。そうした不条理に対抗できるのは、ゲルダの行動の原動力であり、カイに注がれた涙が象徴する愛とそれを信じる心と、真の理知である孤独の自覚だという結論もふくめ、訴える力が弱かったように思えた。 【2005.8.18シアタートラム(東京公演)より】

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