劇評

おとなも楽しい!子どもの劇場2005 ハレ師人形劇団「蝶の工房」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

演出:クリストフ・ヴェルナー
2005年8月31日(水)15:00開演
会場-小劇場

 最近、人形劇を見る機会が多い。名古屋は、人形劇専用ホール・ひまわりホールがあるなど人形劇のさかんな土地柄で、大人向けの人形劇の上演がふえていることもあるが、よく観るようになった背景には、もう一つ大きな理由があるように思う。それは人形劇のスタイルが実に多彩に広がっていて、舞台表現として刺激的だからだ。操る人間が同時に役者でもあり、登場人物として絡むのはほとんど当たり前。もはや具象性は人形の種類の一つにすぎない。一枚の布や座布団が、たちまち人形に見える、というか登場人物や生き物となる。そうした人形と人間のコラボレーションや、人形自体の造形の自由さは驚くほどで、いかにイメージさせいかにリアリティを与えるかが舞台表現の本質だとすれば、その可能性の広がりについてもさまざまに考えさせられるのだ。そこには作り手達が競い合って工夫し、その工夫を楽しんでいる感じもあり、そうしたいきいきとした精神が、客席を新鮮にわきたたせる舞台が多いこともある。

 ドイツからやってきたハレ市人形劇団の小さな人形劇「蝶の工房」も、そんな作品のひとつだった。さまざまな創意工夫を観てきたにもかかわらず、やはりいくつかの驚きがあった。まずは、動かす人形を舞台上で即興で作ったことだ。左右に黄土色と赤のロールペーパーの柱が立っていて、二人の役者がそれを無造作にちぎっては象や鳥、蝶などを作っていく。そのくしゃくしゃに丸めたりひねったり結んだりして、あっという間に作ったモノが、何となくそれらしく見えるだけではない。用が済めばそれらはどんどん舞台に捨てられ、踏みつけられ、ゴミの山となる。人形劇の人形はていねいに作り、大切にあつかうという発想からも自由な世界がそこにあった。

 さらに役者二人は、そんなふうに一見無造作に人形を作りつつ、それらを操って物語を進めていくのだが、それぞれが登場人物になったり、別々に操ったり、一体の人形を二人で操ったりと、その方法自体も自由にどんどん変わっていく。そして、人形の作り方あつかい方もふくめたそれらの方法すべてが、物語と密接にかかわっていたのだという驚きもあった。

 物語は、何もなかった世界に、生物が生まれ、人間が生まれ、そのひとりがさらに美しいモノを作ろうとするという内容。神と人間の創世記といった、いかにもヨーロッパ的な話だが、それをありきたりな神話によりかからず、オリジナルの物語として紡いでいく。そしてその際、自由なオリジナルの手法が駆使されるのだ。「何もなかった世界に、まず花を創りました」というシーンは、靴底にカラーをつけてどたどたと歩き回るだけ。つづいてちぎった紙の動物たちが出てくるのだが、そのあとに登場するそれらを創った造物主は、怪鳥か宇宙人のような人形であり、その造物主が産み落とす人間はルドルフォという名前の少年で、この2体はリアルないわゆる人形劇の人形なのだ。そしてこのルドルフォが美しいモノを創りたいと願い、何度も失敗し、やがて……と話は進んでいく。

 こうして物語が進んでいくにつれて、初めは単なる楽しい遊びとして見せるだけの手法と思えたその無造作な人形作りが、世界を創り命を創り美しいものを生み出すという、この作品のテーマと密接に結びついていたことが明らかになっていく。モノを創るというのは無造作なことなのだ。しかし創れば、たちまちそこには命が生まれる。人間も動物も植物も命は命だ。美しいモノであれ醜いモノであれ、命は命だ。そしてそれらはやがて死ぬ。死んで大地に帰る。そこからまた何かが生まれる。ゴミの山からだって何かが創れる。美しいモノ、人を幸せにするナニかは、そうした創る行為そのものなのだ。蝶だけが美しいのではない。蝶を創ろうとする行為が美しい。そしてその行為が蝶を生む……。

 そういうことではないだろうか。あらゆる創造のおおもとに造物主を置きながら、それを単純に神とはしない。創造と命と美をはるかな自然の摂理、宇宙の摂理として提示する。そしてそこから、とにかく創ろうと呼びかける。それもお行儀のいいお説教ではなく、雄大でいながら、残酷さもふくむシンプルで楽しい舞台として子供達に見せていく。紙をまるめて人形を創る現場を見せて、創る楽しさと喜びを体感させる。世界観とワザがステキに融合した40分だった。

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