劇評

劇団青い鳥30周年記念公演「シンデレラ ファイナル」

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作:市堂令
演出:芹川藍
2005年5月15日(日)14:00開演
会場-小劇場

 劇団青い鳥は、80年代半ばのいわゆる小劇場演劇が最も華やいでいた時代に、夢の遊眠社などとともにブームの中核になった劇団の一つである。それは、青い鳥の作品が、若々しいカウンターカルチャーとして衝撃力を持っていたことが第一だが、ほかにも注目を集める二つの理由があった。一つはその作品が、役者である劇団員の集団創作によって作られたこと。もう一つは、女性だけの劇団だったことだ。

 その集団創作は徹底していて、出し合ったアイディアを誰かがまとめるというものではなく、まるでメンバーが細胞となって一人の人格にとけ込んだようになされたという。その結果、様々な無意識が乱反射する奥行きの深い作品を生み出した。そして、それぞれが全責任を自覚して舞台に立つ姿は、きらきらと輝いていたのだ。

 今回の『シンデレラ』は、そんな青い鳥の最盛期の作品の一つ。20年ぶりの再演だが、そのままではなく、「ファイナル」として決着をつけたところに、<今>を重視する青い鳥らしさがうかがえる。

 物語の構造は同じ。アパートの一室から姿を消した哲子を、友人の考子が探しに行くのだが、それは彼女の意識の中の旅ともいうべきもので、<探す>と<待つ>をめぐるミステリーゾーンだ。それはまた、考子が自ら作り出した魔法使いのメッセージに導かれて、1本のクギを探す旅でもある。そして、ガラスの靴を抱え、いつかやってくる幸せを待ち続けるシンデレラとなった

 哲子に出会う。さらに、靴を欲しがっているカエルたちや、靴の持ち主を捜している刑事達に出会う。それらの出会いを通して、探していたのは、永遠の生を繰り返す<ぬか床>に入れる1本のクギだったことに気づく……という流れだ。

 しかしこの舞台は、そのような筋がすっきりと通るように展開するわけではない。不思議に美しいミステリーゾーン、シンデレラや刑事物語のパロディ、カエルたちのファンタジーと、それぞれのシーンが音楽や衣装、ダンスの粋を総動員し、めいっぱいの遊び心で繰り広げられるのだ。その陶酔するような楽しさに笑い、美しさに酔っているうちに、<探す><待つ>、<クギを抜く><クギを刺す>といったアンビバレントな言葉がすべり込み、それらのナゾでさらに惑乱する。

 この舞台の魅力は、まさにこの惑乱にある。それは、そのアンビバレントな思考が併存する不可思議な哲学だけではない。その哲学を、ぬか漬という日常の極みのようなアイテムから提出するという大きな落差もある。そして、音楽や衣装、ダンスのスタイリッシュな美的センスと、パロディやギャグを力いっぱい連打する笑いのセンスとの落差もある。それらの多様さが心身を刺激し、惑乱と陶酔という演劇を見ることの最高の喜びを導くのだ。

 そして今回は、そのような構造をそっくり残しながら、やや混乱し混沌のまま放り出されていた哲学の部分を、すっきりと整理した。「ファイナル」と名付けた理由はそこにある。それは、夢や希望を求めて探すことと、それらを漠然と待つことのアンビバレントな行為の並列から一歩進み、両者をアウフヘーベンしたことだ。

 今回のシンデレラはガラスの靴を、最後に放り出す。つまり、漠然と受け身で待つことをやめる。しかしそれは待つことそのものの否定ではない。むしろ待つことの内実の充実であり強化だ。人間はだれも、退屈な日常を繰り返すしかない。しかしそのことであきらめるのではなく、待ちつつ意志的に積極的に夢や希望を持ち探し続けること。そうすることが、永遠の生を繰り返すぬか床から、おいしいぬか漬けを作ることではないか。その同じ生を新鮮に保つのがクギだ。だからそのクギを探そう。そして、いきいきと新しいミステリーゾーンを取り込み、新鮮に呼吸しながら、古くて新しい平凡な日常を生きよう。そう言いきった。

 さらに、過去に作った作品との決別という意志もあったように思う。それは、冒頭の哲子の部屋が、廃墟を思わせるからだ。そこには1982年という、この作品の初演の年が刻まれている。そこに、過去の財産にすがるのではなく、今を表現していこうとする彼女たちの姿勢がある。しかし、だからこそこの作品は、そうした彼女たちの生に、磨き上げた1本のクギを差し込んだようにも、私は思えた。ミステリーゾーンで踊った、たおやかで強い金利惠のダンスもふくめて、再び忘れがたい作品になったと思う。 

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