劇評

ままごと×あいちトリエンナーレ『あゆみ』

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

作・演出:柴幸男
出演:秋葉由麻、鈴木亜由子、長沼久美子、藤吉みわ、
フタオカルリ、真嶋一歌、山田マキオ、吉田愛

2010年11月12日(金)~11月13日(土)[全2回公演]
会場-小劇場

写真撮影:羽鳥直

ままごと×あいちトリエンナーレ『あゆみ』

今年、27歳の若さで岸田戯曲賞を受賞した柴幸男は、たくらみの多い劇作・演出家だ。ただ単に表現欲求の発散としてだけでなく、現代劇の到達点を見すえ、そこからさらに演劇の新しい地平を切り開く可能性に自覚的に取り組んでいるからだ。それも、小難しい理屈に走らず、主宰する劇団名「ままごと」が示すように、だれもが気楽に見ることの出来る敷居の低い演劇としてと、いくつものたくらみを実現させようとしている。

 今回の『あゆみ』は、その高い志の一つの到達点だったと思う。2年前に長久手町文化の家で上演された20分の短編から、東京での長編版、そして今回の愛知版と見てきて、その志が確実にバージョンアップしてきたことを目の当たりにした。「歩く」という、ほとんどの人にとっての日常的基本的な行為をベースに、人生という地図を描いて見せたのだ。しかも楽しく、面白く。そしてだれもが否応なく自分の人生を重ね、振り返り、未来を思うという、演劇を見る一番の喜び、つまり想像の喜びを伴って。物語を排し、構造が透けて見える実験的な舞台でありながら、そのような喜びと広がりを持ったことが柴の実力を示している。

ままごと×あいちトリエンナーレ『あゆみ』

 白い服と赤い靴をはいた8人の女優が、中野あゆみという女性の一生を演じていく。つまり、1人が固定した1役を演じるのではなく、8人が次々とスイッチして1人の女とそれをとりまくさまざまな人物を、次々にバトンタッチしながら演じていくという作りだ。そこで演じられるのは、ハイハイから立ち上がり歩き始める赤ちゃんとそれに驚喜するお父さんとお母さんというシーンに始まり、買い物をねだって叱られたり、友達と親しくなったり意地悪したり、憧れの先輩の後を付けたり……といったありふれたエピソードの数々だ。大学に入り、職場結婚をし、子供を産んで、親を亡くす。その1コマ1コマは、ありふれているだけでなく、自分でも忘れてしまったようなささいなものばかりだ。

 この作りが想像力をかきたてる。その想像は2つの方向からやってくる。1つは、ある1つのセリフも女優から女優へとスイッチしていくような作りによって、中野あゆみという女性が目の前の女優たちの姿を越えて立ち上がること。断片的なエピソードからそれ以外の人生をも想像して、リアルな1人の女性像をそれぞれの脳の中に結ぶのだ。そしてもう1つは、ありふれた他愛のないエピソードが、自分自身の思い出や似たような出来事を思い起こさせること。さらに自分の家族や友人の記憶へと広がったりする。

ままごと×あいちトリエンナーレ『あゆみ』

 つまり観客は、シンプルな断片から物語作りに参加し、それが自分へとフィードバックするという体験をしながら、舞台を見ることになる。そして、<歩く>ことが最初の1歩から最後の1歩までの一生を示すと同時に、決して単純な一本道ではなく、迷ったり脇道にそれたり、また違う可能性もふくめた地図としてあるということ。何よりも日々歩くことが、出会いや出来事を引き起こす原動力だということを思うのだ。日常を見つめつつ一生を考える。一人を想像しつつ、人間の普遍を思う。

 こうしたいくつもの重層性を実現したのは、やはり1人8役という仕掛けだろう。このことによって、出演者達を役作りという作業から解放した。それはセリフの解放であり、言葉の意味からの身体の解放でもあった。その結果、彼らは中野あゆみの記憶の精霊のように舞台に浮遊し、観客の想像力をうながしたのだ。また、8人が四方八方から飛び出して役から役へとスイッチしていく様は、出会いや出来事の予想不可能性も示し、どんなに同じように見えても、人生が常にその人にとって新しい体験の連続であることを思わせた。

 柴が発見し、構想した仕掛けとたくらみは、こんな風にさまざまの意味で新しく普遍的な舞台を創り上げた。けれどもそれを可能にしたのはやはり、8人の女優である。シンプルな構造を支えていたのは、緻密で複雑なスイッチの様式だ。それは一瞬のズレや間を間違えば崩れる可能性もはらんでいたと思う。役作りから解放した代わり、女優達にはかなり高度な作業を強いる舞台だった。それでもなお一見楽々とそれをこなし、まるで精霊達がお遊戯をしているように見せきった、名古屋の8人の女優を讃えたい。

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