劇評

地域の物語 音楽劇『わが町可児』

執筆者:安住恭子(演劇評論家)

原作:ソーントン・ワイルダー「わが町」より
補綴・演出:柴幸男
作曲:上田亨
客演:南一恵(文学座)、大場泰正(文学座)、黒川深雪(InnocentSphere / toi)、
端田新菜(青年団)、冨田成輝(可児市長)
ピアノ:黒木由香
市民キャスト:阿南紗知、生駒裕紀、井戸信子、井戸美空、井戸陸、伊藤和子、梅村紗奈、太田としえ、太田瞳、大梅慶子、奥村友絵、改田英男、各務文歌、篭橋俊裕、片桐朋香、加藤美佑、金井杏樹、可児早也佳、可児純子、亀井飛鳥、亀井はるか、木倉彩水、国枝絢子、玄蕃美帆、纐纈穂高、纐纈萌々華、後藤香代里、後藤友香、小林マハヤナ、小林レチシア、小森芹彩、呉屋光虹、昆汐里、佐藤俊子、佐橋里香、澤田夕希江、塩見歩華、塩見彩来、志村昌彦、下園早紀、鈴木光子、鈴木康之、髙木玲美、高山奈々華、髙山信子、舘林直子、棚橋一光、棚橋美月、谷口友紀乃、田原慈朗、玉置好子、勅使河原杏実、長江麻世、長尾和奏、長瀬皓紀、楢崎義行、服部志保、服部貴文、林万葉、林未尋、比嘉敬太、樋口朔也、樋口翠、樋口幸歩、日比野杏美、藤井康雄、本多ゆかり、前田理奈、前堀まゆみ、松井厚住香、松井美潮、松井柚希音、湊真知子、宮川千利奈、宮川万有香、三宅里音、宮嶋優衣、村上瀬菜、村松海音、山内直子、山浦咲月、山口きみ子、山口真佳、山田理恵、山本和実、山本美幸、吉田歩未、渡辺かおり、渡辺直樹、渡辺優羽、渡辺理紗、渡辺麗奈、*五十音順

2011年3月12日(土)~3月13日(日)[全2回公演]
会場-主劇場

ソートン・ワイルダーの『わが町』は、普通の人が普通に生き、そして死んでいくことをシンプルに描いて、いつの時代のどこの町にもあてはまるすぐれた戯曲として広く知られている。だから、時には戯曲そのままを、あるいはさまざまな町の物語に潤色して、繰り返し上演されてきた。子供から大人、そして市長までふくめた100人あまりの可児市民が参加した、今回の音楽劇『わが町 可児』(柴幸男構成補綴・演出)もその一つだが、これまで私が見てきた数々の『わが町』の中でも出色の舞台だったと思う。原作の構造をそのまま生かしながら、ただなぞるのではなく、いきいきとした可児の町の物語に再生し、しかも原作にひそんでいたテーマを深く伝えたからだ。

 『わが町』は、隣り合った二組の家族を中心に、その町とそこに生きた人々を描く物語。二つの家庭にはそれぞれ二人の子供がいて、彼等がティーンエージャーだったある日ある時、両家の長男と長女の恋愛と結婚式当日、そしてそれから数年してその若い妻が亡くなった葬儀の日という、3つのシーンをピックアップして描く。つまり、日常の生活、世代の積み重ねを象徴する結婚、そして死で、それを二つの家族で定点観測し、永遠の人と時間の堆積を見つめていく内容だ。舞台監督がナレーターとして町の様子をスケッチしながら、それらのシーンを劇中劇としてくり広げる作りになっている。

 柴幸男はこの作品を深く愛し、岸田戯曲賞を受賞した『わが星』も、『わが町』の一種のバリエーションとされている。その原作をよく知る柴はまず、2001年から2017年までの可児の物語として舞台を構成した。つまり

 

は今進行中の現代の可児の物語としたわけで、それにリアリティを与えるため、言葉づかいや地名、職業などに細心の注意を払った。そのことで舞台に出ている市民と、物語の登場人物たちが自然に重なる。また、舞台監督役もこの町の少女や主婦らに変更し、彼らが入れ替わり立ち替わり自分たちの町について語り、進行させたことで、物語をより身近なものにした。さらに、出演者達が舞台両サイドの椅子にずらりと並んですわり、進行役が語るシーンを、その都度席から登場して演じることで、物語を今まさに目の前で起こっていることと感じさせた。これらのドキュメンタリーな作りによって、アメリカ・ニューハンプシャー州グルーヴァーズ・コーナーズの物語は、可児の町を歩く高校生や子ども達、お父さんやお母さんの話に無理なく変えたのだ。市民が素顔のままこの物語を演じる意味を、端的に生かしたといおうか。

 その上で柴は、宇宙や永遠性から人の営みを見返すという、この作品に横たわるテーマを細心に散りばめた。最初と最後に全員で歌う「わたしが生まれた町」などの劇中歌や、結婚式の牧師のあいさつにもさり気なくそのことが織り込まれているし、客席から外国人の女性が神について質問することが、後にブラジルのおばあちゃんからの手紙の宛名のことにつながっていく。また、物語の核になる穣治と絵美との関係性も、実はそのことを媒介にしている。それはのんびり屋で物まね好きの穣治のキャラクターにある。彼はその実、無意識のうちに別の世界を感じていることを伺わせ、彼を通して宇宙と人、その宇宙から見返される視点が導かれるのだ。だからこそ彼女も彼に惹かれるのだし、そうした恋も、恋をする男や女も、宇宙や永遠の中での一粒一粒の命というイメージが浮かぶ。

 そういう積み重ねがあったからこそ、最後のお墓のシーンが生きる。単なる生に対する死ではなく、その連続性と不連続性、それらの永遠の堆積の一粒一粒であり、一瞬一瞬であることを伝えたのだ。そして生きるということは、そうしたことにほとんど気づかず、ただただ目の前のことに心奪われるだけの一瞬一瞬だということも。このシーンがこれほどクリアになることも実は珍しい。なんとなくとってつけたように浮き上がったり、あるいは死の悲しみだけになってしまいがちだからだ。

 可児写真館のおじさんのスライドショーなど、舞台にはとぼけた笑いもふんだんにあった。そして柴はそれら喜びや悲しみをふくめて、物語全体を透明な世界として提出したように思う。広く開け放った舞台が地球を思わせ、そこに登場する100人の市民が、その地球と宇宙に漂う一粒一粒だと感じる瞬間があったからだ。そして私は、その前々日の東日本大震災の被災者たちを思い浮かべながら、この舞台を見ていた。あの町この町にも、こんな話がたくさんたくさんあったと、思いながら。

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