連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第八十一回 日本社会の分断化を象徴する南青山の出来事。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生


フジテレビの『笑っていいとも』はタモリさんの巧みな差配で長寿番組の代表格だったが、その前の「笑ってる場合ですよ」を憶えているだろうか。異曲同工の内容でしたが、この番組で盛んに連発されて、その頃の社会を大きく歪めてしまった言葉がある。「ネアカ・ネクラ」である。また、「勝ち組・負け組」もそれとシンクロしてバブル期の一般社会に広く流布した。私はこれらの言葉が酷く嫌いで、人間の生き方までも「差別」することで優越感と万能感を誇示する卑しさに満ち満ちた社会現象だった。タモリさんが番組内で盛んに使った「ネアカ」が、その反対語まで人を差別する言葉として定着してしまったのだ。さすがに「流行語大賞」にするのが憚れたのか大賞にも優秀賞にもならなかったが、当時の私の生業は演劇評論家だったが、この評論家までもが「ネクラ」人種に腑分けされ、ご丁寧に「ヒョーロンカ」と表記されることもあった。90年代後半から2000年代になって「ネアカ・ネクラ」は使われなくなったが、「勝ち組・負け組」はかたちを変えて「負け組」へ投げかける「自己責任」という言葉になっている。

最近、南青山で起きている「子ども家庭支援センター」への反対派住民の抗議行動を聞いていて、「日本は米国と同様に分断化されてしまったのだ」という暗い気持ちになった。そのセンターの中に児童相談所が設置されて、あわせて被虐待児童やDV被害の家族を一時収容する施設も併設されるという。反対住民の主張は、「表参道の超一等地にそういうものを持ってきた時、港区としての価値が下がるんじゃないか」、「なんで青山の一等地で、そんな施設を造らなきゃならないんですか!」に象徴される南青山のブランド価値を「迷惑施設」が著しく毀損するということだ。「迷惑施設」という彼らの認識は「南青山じゃなくても、田町とか広いところいっぱいあるじゃないか」にしっかりと映し出されている。東京の人間ならわかると思うが、田町地域には多くの倉庫群が建ち並んでいるエリアがある。「ランチ単価が1600円もする土地で、なんで親がここで施設に子どもを連れてくるんですか!」と「ネギひとつ買うにも紀伊国屋に行かなければ」(青山の高所得者向けの食品スーパー)は、施設を必要とする人たちを心配しているような装いを見せているがそれが薄っぺらで、それだけに偽善の臭気が紛々とする。「青山の真ん中にそぐわない公共施設によって、街が分断されてしまいます」「海外から来日して青山を散策する観光客に対して何の貢献やアピールもしません」は、私から見ればまったく逆で、とりわけ来日する外国人インバウンドには、子供たちや生きづらさを感じている親子の夢を取り戻してもらう、「幸福」(wellbeing)を取り戻してもらう公的施設が街中にあることで、訪問者も優しさに包まれる気持ちになれる社会的ブランディングを獲得できると思うのだ。むしろ今回の騒ぎを起こしたことで、南青山のブランド力は著しく毀損されたと言える。

私と彼らとの間には「経済的価値」と「社会的価値」の、どちらを重視するかの価値観の明らかな「分断」がある。杉並区での「保育園建設計画」への周辺住民、とりわけ高齢者の主張する「騒音問題」、岐阜県関市での「児童養護施設移転に伴う荒れる学校への周辺住民の忌避と住民運動」等、これらの問題には「地域で子供を育てる」と建前では言い放ちながら、自分事になると迷惑施設と、自分の価値観に外れるものを許容しない「排除の論理」が焙り絵のように浮き上がる。それを振り回すことを「人間としてどうなのだろう?」と私は訝しく思う。この種の報道に接すると、私は反射的に「津久井やまゆり園」のことを思わずにはいられない。「やまゆり園」は1964年に設立された知的障害者福祉施設で収容者数150人を超える比較的大規模な福祉施設である。1964年は東京オリンピックの年であり、その前後に東京から障害者とホームレス(当時は乞食と言っていた)が周辺から消えて行ったことを、高校生だった私ははっきりと憶えている。

この種の施設は関東圏に、おそらくいくつも設置されたのだろう。私は専門家ではないのではっきりと時代を区切ることは出来ないが、この種の施設はほとんどすべて町の外れ、隣町との境界近くに建てられるようになっていった。時代の空気が変化したのである。それは1970年を前後した頃からではないか。小田急電鉄の創業者一族である利光家の屋敷があり、多くの企業人の豪壮な屋敷が建ち並んでいた渋谷区大山町は、私の生まれ育った下北沢から自転車で20分ほどの住宅地だが、小学校高学年の時に、大山にあった少年院を社会科研究のために訪問したことがある。ここに関しては、排除しようという住民運動が起きたという形跡はない。また、22歳(1969年)の頃、私は日本精神学会の会員で、脳の一部である前頭葉にメスを入れることで粗暴性のある精神疾患者を「無害化」する外科手術が一般的に行われており、学会でそのロボトミー手術を禁止しようとする動きがあった。そのロボトミーが行われていた聖蹟桜ヶ丘の多摩川沿いにあった木造づくりの複数の病棟の並ぶ精神病院にロボトミー反対の抗議に出掛けた記憶がある。聖蹟桜ヶ丘は、現在では東京の中心部に比較的近い高級住宅地となっているが、この精神病棟が建設されたころは、小学校の遠足先になるほど人目にはつかない農村田園地帯であった。「津久井やまゆり園」はこの「思惑」で設置された施設である。この所在地は、現在は宅地造成されて普通のまちであるが、当時は「特別な用事」でもないかぎり足を踏み入れない中山間地であった。

南青山に話をもどそう。縷々書いてきたように、戦後の経済発展してきた裏には、人間にとって大切なものを喪失して、何かを或いは誰かを排除してきた、さらには目につかないところに隔離してきた負の時間がべったりと貼りついていたことを、私たちは決して忘れてはいけない。自分も「加害者」の一員か、それを知らないままに或いは「加担者」になっていたことを自省しなければいけないと思う。南青山の一件は、それが爛熟した資本主義の最終章の姿として現れた現象と私は捉えている。爛熟した資本主義の最終章とは、はっきりとした亀裂をともなう「社会の分断化」であり、民主主義の危機的な事態である。平等・公平・公正・自由という誰もが保障されている民主主義の根幹が、経済的格差のまえで大きく揺らいでいる、と私には映る。

あと5ヶ月で72歳になる私にいまできることは何かと自問すると、私は精々のところ、文化芸術の社会包摂機能の先にある「社会的処方箋」の仕組みの政策エビデンスを強固につくりあげることだけだ。資本主義が「欲望」を制度化したものとすれば、「欲望」は決して満足はせず、増殖することだけを望むのが人間の業なら、その無限に拡張する「欲望」の自由放任によって生じる、多くの人々の生きづらさを少しでも軽減する側に立つことだろうと思う。分断化する社会で、それを押し止める力が自分にないとすれば、私は「希望」をもてない側、「夢」を持てなくなった側に立って、その「存在を癒す」ための処方箋を編み出すことだけが、私に与えられた生の意味なのだと私は信じる。それにしても、このやり場のない失望感と危機感はどうしたものだろうか。



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