連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第三十七回 「アーツカウンシル」という思想。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

『大阪アーツカウンシルの可能性』というシンポジュウムが大阪・阿倍野のTACT/FESTで緊急開催された。パネリストは、大阪アーツカウンシルの統括責任者の佐藤千晴氏、ニッセイ基礎研究所主席研究員の吉本光宏氏、そして私で、コーディネーターはTACT/FESTの総合芸術監督の中立公平氏だった。佐藤氏から大阪アーツカウンシルのあらましを報告するかたちでシンポジウムは始まった。府市の文化予算の総額はおよそ6億4000万円で、そのうち公募型で補助される総額は3000万円、文楽協会への3900万円と大阪フィルへの7700万円の運営補助は平成26年度終わる予定、ということだった。大阪アーツカウンシルの運営予算は1900万円で、非常勤委員の会議・視察の人件費のみの予算化で、調査費や企画費についてはまったく具体化していない。

正直言って「アーツカウンシルって何なの?」という感想を持った。また、大阪アーツカウンシルは、地方自治法第252条の7第1項の規定により、大阪府及び大阪市が共同して設置した諮問機関である大阪府市文化振興会議(会長橋爪紳也 大阪府立大学特別教授)の専門部会として位置づけられている。いわば行政の付属機関である。

日本芸術文化振興会という独立行政法人内に設置された国のアーツカウンシル、東京都歴史文化財団内に設置され、「東京都文化振興条例第17条」に 基づき設置された知事の附属機関である東京芸術文化評議会の提言・方針をもとに助成を決定するアーツカウンシル東京と比較しても、役所内の一機関という性格で、「アーツカウンシル」の特質のひとつであるとされるアームス・レングスという原則からは大阪アーツカウンシルが一番遠い。英国の保守党・自由党連立のキャメロン政権になって英国芸術評議会の助成が大幅カットされて、私の懇意にしている地域劇場でも大掛かりなリストラが進められている。したがって、「アームス・レングス」という考え方は、本家本元の英国芸術評議会にあっても「幻想」に過ぎないとは思うが、それでもあたうかぎりは行政からの相対的独立性を担保する努力はなされるべき、と私は考えている。

「文化の既得権益は許さない」というのが6月5日のアーツカウンシルの統括責任者決定の市長記者会見での橋下市長のメッセージである。アーツカウンシルの創設というのは、「文化行政のあり方を大きく変えるですね、試み、チャレンジといいますか、今までのように行政の部局がですね、特に行政マンが、これまでやってきた文化行政といいますか文化補助金をそのまま維持することだけの文化行政といいますか、そういうものを変えようと。しっかりと文化について、芸術文化活動について評価してですね、審査して、きちんと補助金を出していこうと」と語り、文化の補助金が既得権益化していたのは役所の担当部署の人間がきちんと評価してこなかったからであるとしている。間違ってはいない。ここでいう「既得権益者」は文楽協会であり、大阪フィルを指していることは明らかだ。確かにこの2団体に「補助金は黙っていても貰えるもの」という甘えがあっただろうことは容易に想像できる。そこは大きく意識改革しなければならない。大阪フィルなどは「補助金はもらうものではなく、取りに行くもの」と考えを改めていると聞いている。この緊張感は「橋下ショック」の顕著な効果であろう。公的資金については、その程度の真摯さはあってほしいものである。

しかし、この「2団体の補助金を平成26年度で終了する」するという既定路線が内部で語られているということはどういうことなのか。当然、補助金を全額カットにする、という意味なのだろうが、これは大阪アーツカウンシルが評価して決めればよいことであり、橋下市長や府市文化振興会議が予断を持って決めつけることではない。あくまでもアーツカウンシルの評価に依拠して年度ごとの意志決定でなければおかしい。大阪アーツカウンシルは「アーツカウンシル」とは言えない、と言われる所以はここにある。「アームス・レングス」どころではないのである。最近も、大阪市立大学の学長選挙に割って入って、教授相互の互選によって選出するのはおかしい、最終的には市長が決めると独断専行して「学の独立性」を脅かしたり、結局は任命制になったが区長は選挙で選ばれるべきと言って彼の言う「統治機構改革」をしようとした点と、アーツカウンシルにおける彼の行動原理は何ら変わりない。彼の児戯性がうかがえる。「アーツカウンシルって何なの?」と感じた所以はここにある。

「これまで文化の領域は何か聖域化していまして、まぁここの補助金に手をつけようものなら<文化知らず>とかですね<文化の破壊者>だとか知事時代からさんざん言われてきましたけれど、やっと新しい枠組みといいますか、まさに統治機構改革ですけれども、行政、自治体のですね、文化行政といういわゆる統治の仕組みがですね、大胆にこれで変わったのではないかと自信を持っております」とアーツカウンシルの創設を自画自賛しているが、本当に「大胆」に「統治機構改革」が出来たと思っているのだろうか。私は何も変わっていない、と思う。大阪アーツカウンシルの役割は、「文化知らず」とか「文化の破壊者」とか批判の矢面に市長自身は立たないための、いわば責任転嫁するための風除け、クッションとなることなのではないか。「アーツカウンシル」とはそういう機関なのだろうか。私は激しく疑問に思う。前掲してきた記者会見の記事の見出しには「文化の既得権益は許さない」のあとに「お金が欲しけりゃ自分たちで稼げばいい」とあつたが、文楽と劇団四季のミュージカルを同じ俎上に挙げて文楽の経営をこき下ろす程度の知性を考えれば、そこまででしかないと腑に落ちるのだが。

「アーツカウンシル」と聞くと、一般的には即座に経済学者のジョン・メイナード・ケインズの名前が挙がるが、私はチャーチルの保守党政権の後、20年間にわたって首相を務めた労働党政権のクレメント・アトリーこそ、「アーツカウンシル」の理想を掲げた人物として評価したい。大戦後すぐにアトリーは「揺り籠から墓場まで」の社会福祉政策と、「文化を享受は万人の権利」を掲げて、荒廃した国土と人心のために英国芸術評議会の理念の礎をつくった。この社会福祉政策と文化政策は、戦後のイギリスの国のかたちを決める意志決定だったと私は評価している。公的資金による文化支援の条件として、 (1)多くの人々が参加できるように文化芸術の幅(対象)を拡げること、(2)社会の問題解決のための文化芸術の社会的役割を果たすこと、を挙げている。(2)にあるように、そもそも「アーツカウンシル」とは、国のかたち、社会のかたち、まちのかたちを決めるための、文化の側からの社会政策提案である、と私は思っている。どのような事業を評価して、補助金・助成金を拠出して支援するのかは、公開性の高い、民主的な手続きで決定されなければならない。それだけに、国のグランドデザイン、社会のグランドデザインなしには評価すらできない。芸術的評価、社会的評価、経済的評価は、そのようなグランドデザインに照らし合わせてアウトプットされるべきである。

国のアーツカウンシルでは、変更届なしに上演演目変更をして当事者が平然としている事態がかなりあると仄聞する。それらは演劇界のさる「大物」によってなされている。これこそ「既得権益」である。「公的資金を出して当たり前」という態度である。以前の文楽協会や大阪フィルと共通する態度である。これを許してはいけない。国民の税金を何と思っているのか。「大物」であればあるほど、税金の使途については謙虚でなければいけない。真摯な態度であるべきだ。演目変更を届け出ることを拒否するなど、「知らなかった」では通用しない。これを許していてはアーツカウンシルの精神に悖る。アーツカウンシルは支援を取り下げたようである。当然と言えば当然なのだが、悪しき既得権者の「横暴」がこれまで大手を振って通用していたのを拒んだ、というだけでも、アーツカウンシルの設置効果と言えるのではないだろうか。公的資金に関わるならば、補助を受けることへの謙虚さと真摯さと、事業の倫理性と利他性を決して忘れてはいけない。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」である。

文化、教育、科学の分野は「未来への投資」である。既得権益的な、そして現世利益的な視点では考えるべきではない公的資金による投資である。大阪の一部には「アーツカウンシルの創設で将来的には補助金が増額されるのではないか」という期待があると聞く。本来的には、大阪の未来のためにはそうあってほしいと思うのだが、府知事時代に教育予算を4年間で7406億円から6464億円に、約1000億円削減した橋本市長である。「未来への投資」という政治姿勢は到底期待できない。「アーツカウンシル」というのは、将来的なこの国のかたち、この社会のかたちをデザインして、それを実現するために情報公開を必須としつつ投資をする、という文化の側からの政策提案であり、そして思想である。文化と教育と科学への投資は、今日や明日の利益にはならせないが、10年後、20年後の社会のかたちをかたちづくる。これらの予算の削減は、将来的な人心の荒廃と社会の活力を奪う。そうなってから手を打っても遅いし、削減した予算額の数10倍の費用が必要になるのは必至だ。

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