連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第二十六回 「チケットが売れない」という悩みが地域の劇場ホールから寄せられる。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

月に三回程度、自治体関連のセミナーや地域の公文協、劇場ホール、統括団体などから招かれて講演をする機会を得ている。そのような講演・セミナーでの参加者が強く関心を持っているのは、去る6月27日に成立施行された「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」である。しかし、公文協や劇場ホール関係者にかぎると「チケッティング」に関する悩みも相当に大きいように感じられる。以前に比べてチケットの売れ行きが伸び悩んでいる、というより著しく減少しているのだという。東京圏でも近年チケットの売れ行きに変化が見え始めているが、地域ではそれ以上にチケットの売れ行きが芳しくないというのが現状のようだ。チケット価格をディスカウントして企業団体にまとめ買いしてもらおうと営業活動に人員を割いたり、員数合わせの動員をするために中高生を対象に大幅団体割引や招待という手段を使っている劇場ホールも昨今では珍しくない。すべての年間事業が軒並み苦戦を強いられているという相当改善が求められる事例もある。

その傾向の背景には、むろん希望の持てない社会全体の漠然とした閉塞感がある。90年代後半から一貫して右肩下がりに減少している個人所得、国民負担の重圧感、リーマンショック以降の加速度を増した不況感、それによる家計の教養娯楽費の切り詰めなど、劇場ホールの外部環境は大きく変化している。それがチケットの売れ行きを悪くしている主な外部要因だろう。しかし、むろんそれだけではない。大きな外部環境の変化に適応できるシステムを構築してこなかったという内部環境の要因もまた大きいのではないか、と私は思っている。外部環境の変化に順応して内部環境を変化させる経営姿勢の柔軟性のなさが、その外部の環境変化を「壁」のように感じさせているのではないだろうか。

マーケティングに関しての相談を持ちかけられてその館の年間プログラムを見せてもらうと、「これでは無理だろうな」と思わせる事業の並びが少なくない。年間のプログラムに「物語性」がなく、すべてが「一揆主義」的な、言うなればあとは野となれ山となれの「一過性の瞬間最大風速」の観客数を見込んでいる館の思惑が透けて見えるのだ。演劇で言えば、舞台の質よりも有名人が出演しているか否かでセレクトしているのが手に取るように分かる。音楽の場合だと、このアンサンブルでどれだけの人が次もクラシックを聴きに来たいと思うのかと疑問に思える演奏水準の音楽家の選択が平然となされている。それらの中には、地元の有力な音楽関係者の「口利き」があったりすると聞く。「文化ボス」のための演奏会なのか、市民の心に寄り添った事業実施なのか、内情を聞けば聞くほど誰のための公演・演奏会なのか、はなはだ疑わしくなる。およそ文化的ではない事業の決め方である。むろん、首長や議員が事業の意思決定に割りこんでくるのも論外だ。劇場ホールは彼らの「おもちゃ箱」ではない。しっかりとした社会的使命によって運営されようとしている施設であることを経営責任者はいま一度確認しなければならない。

年間を通じてのプログラミングにおいては、全体の「物語性」の欠如と「一揆主義的な意識」がこの際の問題だ。しかも、この二つは表裏の関係である。ともに「動員」という手段に行きついてしまうからだ。むろん東京でも、つい最近話題となった舞台のいわゆる「タダ券」が大量に出回っていた。11000円もするチケットである。これは、いわば興行サイドが出演者や俳優の事務所に恥をかかせないための取り繕いであり、それによって次のキャスティング権を担保するために行われる弥縫策である。商業主義的な東京圏の「興行」だから、どうしても「一揆主義的」なマーケティングの方式が選択されるし、チケットの売れ行きが芳しくなければ「タダ券」のバラマキを否応なく選択する。

そのような東京圏の「興行」とは違って、地域ではそういう方策からは何も生まれないと断言できる。そもそも東京圏と地域とのチケッティングとマーケティングには大きな違いがある。依って立つマーケット環境がまったく違うのだ。何が一番大きな違いかと言えば、東京圏には大きなマーケットが背景にあり、たとえば200人が次回公演から離脱して劇場ホールに来なくなってもニューカマーが200人生まれるマーケットの潜在力と可能性があるのに対して、地域ではその200人が「絶対損失」になってしまう。新しい顧客が生まれる潜在力が地域のマーケット環境にはない、ということだ。したがって、いかに継続的な顧客を獲得し、その顧客を離反させないプログラムを組み、顧客進化を促すマーケティングをするかに地域の劇場ホールの経営はかかっている。川釣りに譬えれば「キャッチ・アンド・ノットリリース」でなければならないのだ。

「ノットリリース」した顧客を大きく育てることが求められるのが、地域の劇場ホール経営の基本姿勢である。そういうマーケティングを行わなければ、プログラミングはおのずと「一揆主義」となり、「一過性の最大瞬間風速」としての観客数を志向してしまう。すなわち「動員」である。「動員」というのは、当然だが観客の「観たい」、「聴きたい」というモチベーションは薄い。掻き集められるのだから当たり前ではある。チケットが顧客と劇場ホールとの関係づくりのマーケティング・ツールとして機能するのではなく、専ら売り捌くだけの、押し売りのセリングに偏ってしまうのだ。「一過性」の顧客のみをひたすら生み続けるだけで、次の事業はまた零から始めるという悪循環に陥ってしまう。石を積み上げては崩れてまた石を積み上げるという、一種の「シジュフォスの神話」のような作業をいたずらに繰り返えしているだけである。

また、地域の劇場ホールの観客数減少の原因を住民の高齢化とみる向きもあるが、私はその見方には与しない。地域の劇場ホールの顧客は、大都市圏とは大きく異なって、40歳代から60歳代の中高年層が主力である。子育てが一段落した世代の人々が、友人や近隣の人などに誘われて、あるいは子どもが成長したので昔馴染んでいた演劇や音楽を楽しんでライフスタイルを「変化」させようとするのが一般的な劇場通いを始めるモチベーションである。あるいは従来からの「価値観を変化させる契機」として劇場ホールでの鑑賞行動を活用しようとするのがそのモチベーションである。したがって、そういう「機会」をチケットシステムやサービスに組み込むことが求められるのだ。アーラでの取り組みでいえば、「ビックコミュニケーション・チケット」や「パッケージチケット」のグループ買い、演奏会前の「ビフォーディナー」や新日本フィルの音楽監督クリスティアン・アルミンクと近しく語り合う「ティーパーティ」の開催などである。親しい人や近しい人と舞台を鑑賞することがどれだけ「経験価値」を高めるか、賢明な読者なら体験があるだろう。決して想像に難くないことと思う。

ここまで読み進めれば、何が問題であり、課題なのかは明らかになるのではないか。アーラは「経験価値経営」というマネジメントの考え方を基本に据えている。言葉を換えれば「創客経営」である。「経験価値経営」というのは、顧客が感じる価値がすべてというマネジメントを組み立てるうえでの意識である。徹底した「顧客志向」の経営姿勢だ。価値の決定権はお客様にあり、その価値が大きければ大きいほどお客様の劇場ホールへのロイヤルティ(帰属性)が高くなるということだ。ブランディングである。そのためにどのような環境を整えるか、どのようなシステムを構築するか、どのようなホスピタリティで事に臨むか、これらのすべてが相乗効果となって「売れる環境=ブランド価値」を形成するスキームである。「売る」のではなく「売れる環境」をつくるのだ。セリング(selling)ではなくマーケティング(marketing)である。「何を観るか、聴くか」ではなく、「何処で観るか、聴くか」という当該する劇場ホールへの帰属性を高度化することが最終的な成果となる。顧客の「支持者」への進化である。その進化を促す環境を創れるか否かに地域の劇場経営は懸っているのだ。

つまりは、外部環境の大きく急激な「変化」に対して内部環境が適応できていないのが「売れない」現状の主要因なのだ。あるいは「外部環境の変化」に対して「内部環境を変化させられない経営意識」の旧弊性と硬直性が問題なのだ。劇場経営は「生き物」である。いろいろな意味で多様に「人間」との関係を切り結ぶのが劇場経営の主なミッションだ。刻々と変化する時代とキャッチボールをしながら、しかも全力で走り続けなければならないという過酷なミッションである。したがって、経営姿勢や意識に外部(環境変化、他者など)の変化を取り込める柔軟性が強く求められる。「売れなくなった」のではなく、外部環境の変化によって経営姿勢や意識の旧弊性と硬直性が露出した結果なのだ。「転がる石は苔むさず」だ。変化し続けることこそが劇場経営に臨む基本姿勢であることを、あらためてもう一度確認しなければならない。

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