連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第二十四回 地道なマーケティングを放棄してはいないか。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

地域営業の前半が終わった。来年度のアーラコレクション『秋の螢』とアーラで毎年の恒例となっている『森山威男JAZZNIGHT』の二本を売るための営業だけに東海、長野、新潟、岩手、宮城、山形、神奈川と広範な地域に、しかもおおよそ一県二館程度を訪問し続けるといういささかハードな前半の旅であった。感触は良好で、アーラ・ブランドが全国的に浸透してきていることを感じさせた。ala Collectionシリーズ(演劇)は4年前の第1回の当初と違って、6回目ともなると関係づくりが出来あがっているところを回ることに傾注できる営業旅であるから多くの営業トークを必要とはしない。それだけに約1時間の相手先との会話の多くは、最近の公立劇場ホールの動向や先般成立した「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」の現場への実効性などに費やされることになる。

『森山威男JAZZNIGHT』は、今年から営業をし始めることになった事業である。毎年9月の第3土曜日に開催される『森山威男JAZZNIGHT』には、全国から多くのファンが泊りがけで駆けつける。全国的に見ても、ジャズイベントでこれだけの聴衆を集めるものは希少であろうと思われる。それも「聴く」というより「体感する」というジャズである。この日は全国からメッカに集うがごとく多くの森山ジャズの熱烈なファンの可児もうでが起こる。「森山威男研究会」なる愛好者の集まりがあるほど、彼のジャズには人を魅惑する力がある。これを可児だけでやっているのはもったいない、というのが発想の原点で、利益は必要ないから営業に関わる営業などの労力は可児のシティプロモーションのコストと考えようと今年から始めたプロジェクトである。

その営業先で「演劇はウチでは入らないので無理なんですよね」という言葉を聞いた。はじめからマーケティングを放棄している。いささか疑義はあったが、あわせて腑に落ちる点もあった。大手興行会社の旅公演を「スターや有名人が出演している」というだけで毎年のように高い価格で購入している会館を多く知っているからだ。正直言って、商業演劇に秀作が年に一本はあったのは80年代初頭までで山田五十鈴さんの『たぬき』や三田佳子さんの『夢千代日記』など見るべき舞台はあった。しかし、それ以降の商業演劇は作品よりもスターの顔揃えに躍起となって名作と言われるものは皆無となった。地方の会館は、その商業演劇を買って、「演劇の客は少ない、この地域に演劇は無理」と断じているに過ぎない。大手興行会社の商業演劇を観せられても、演劇のファンになる人間なんて皆無と言ってよいだろう。第一、客は「スターを見に来る、有名人を見に来る」と信じて疑わない会館側の意識にこそ問題がある。スター目当てに「最大瞬間風速」の観客動員を目論んでいるのだろうが、意識が低すぎる。経営感覚が欠如している、と断ぜざるを得ない。

演劇の観客は「想像力」と「創造力」を躍動させて舞台を体験するのである。そのために演技のうまい俳優が必要となるのである。「スターや有名人を見物する」のとは180度異なる喜びこそが観劇の楽しさなのだ。その楽しさを体験した人間は演劇の虜となる。観劇するおもしろさを知った人間となる。たとえて言えば、小川に点々と置かれた石を飛んで対岸にたどりつく楽しさ、である。敷石が小川に敷き詰められていれば楽に対岸に渡れるが、「想像力を飛翔させ」、自分だけの物語を「創造する」という知的な楽しみはそこにはまったくない。私が30代の演劇評論家の時に提唱した「飛び石理論」の一部である。演劇が楽しいのは、そのような自己達成感、自己実現感を味わえるからなのだ。

アーラの事例を挙げてみよう。今年のアーラコレクションはマキノノゾミ氏の『高き彼物』だった。可児での8回公演は半数の4回がソールドアウトで1763名のお客様に見ていただいた。あまり意味のない数字だが、市民57人に1人が『高き彼物』に足を運んだことになる。アーラコレクションの従来の記録をおよそ160名超える新記録である。東京公演は7回公演で初日から千秋楽まで、これも早い時期にソールドアウトとなった。はじめから観客動員できる作品を選んでいるのだろう、という穿った向きもあるかもしれない。ただ、マキノノゾミ氏の作品を上演するのはアーラでは3回目である。最初の俳優座プロデュース『東京原子核クラブ』は客席稼働率30%台の入りであった。3分の1の客席しか埋まらなかったのである。それでも観たお客様には好評であった。これがマキノノゾミは可児市民の感覚にあっているに違いないという確信につながった。数字で判断するのではなく、観客の話している言葉の内容に耳を傾けたのである。翌年は青年座の『赤シャツ』を買い公演で上演した。マキノノゾミでしばらくは押し通そう、と考えたからである。これも、前回よりは口コミで拡がってはいたが、結果は40%台の入りであった。その『赤シャツ』の時にマキノ氏にアフタートークでアーラに来てもらった。その折に、2年後にはマキノノゾミ作品で一年間押し通す「マキノノゾミ・イヤー」をやろうと彼に提案した。可児市民の感覚に合致するなら、徹底的に押し通そうと決めたのである。その結果が『高き彼物』なのである。

マキノノゾミ氏の作品がどの地域でもまるごと受け入れられる、とは私は思っていない。ただ、可児市民の生活感覚にマッチしている、と考えたに過ぎない。私が常々口にしている「市民の半歩先に行く」という感覚である。これがどういうことなのかを論理的に説明することはできない。むろん、2年ごとに可児市役所が実施している市民意識調査を読み解くことや、可児市に住んで市民の日常生活に寄り添うということはやっている。私も演劇評論家を45年やっているのだから、「やりたいもの」はある。しかし、「やりたいもの」と、「やれるもの」、「やるべきもの」は別である。芸術監督は自己実現のために作品選定をするのだろうが、経営を預かる身としては作品選定には自己実現は期待しない。「やれるもの」、「やるべきもの」を最優先にする。むろん、それが「やりたいもの」と重なれば言うことなしではある。「市民の半歩先」を行けば、観客が駆使して知的楽しむ想像力と創造力は担保できる。そうでないと、観客は「はぐれ」てしまうのである。演劇ほど「はぐれ」てしまったら面白くないものはない。

『高き彼物』の成功は、実は偶然の産物ではない。アーラは年に4本の演劇作品をやっている。地域拠点契約の文学座公演も、年に一本だけ買う公演も、秋田県二ツ井町が全国公募した恋文コンテストの手紙を読む『シリーズ恋文』も、そしてアーラコレクションも、すべて「市民の半歩先」を行く作品の選定をしているのだ。私の就任前は、井上ひさしさんのこまつ座でさえ400人を割る動員であったが、現在年に4本の演劇を観る「演劇まるかじり」パッケージの購入者は205名となっている。また、文学座公演は2年目からソールドアウトを続けている。

重要なことは「何を選ぶか」の会館側の意識なのである。「スターさえ出演していれば」、「有名人だからチケットは売れるだろう」というのは、いかにも市民を小馬鹿にしている考えだ。市民を思う想像力に欠けている。演劇が売れないのではなく、会館の意識が演劇から離れていったのではないか。アーラが地道に続けてきたようなマーケティングを最初から放棄していると言える。「音楽は無難、演劇は難しい」という意識は、いかにも易きに流れている考えで、単なる「イベント屋」の思考回路である。私たちは税金で設置され、税金で運営されている施設の職員である。ならばその使命は何なのかを、もう一度考えてみる必要があるように思われてならない。

さて、これから営業後半の旅である。

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