連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第二十三回 年間の事業計画と派生する課題はどのように設計されるべきか。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

新年度になって5月は視察が急増している。市役所の議会事務局を通しての行政視察、劇場の総務課に依頼してくるホール職員の視察、私宛てに依頼してくるNPO関係者などいろいろだが、そろって施設自体の視察よりも、経営システム、マーケティング設計、ブランディング計画など運営に関するものばかりである。そうなると私が1時間半程度のレクチャーを、場合によってはパワーポイントを使って事例を挙げてお話をすることになる。当然のことだが、事前に視察相手の市勢情報、ホールの事業の組み立て、チケッティングの仕組み、価格政策、施設の概要、ウェブサイトの設計などの情報をあらかじめインプットしておくことになる。

その作業でいろいろと気付くことがある。その中の一つに年間事業の組み立てや事業の流れに理解できない組み立てが間々見受けられる。また、明らかにホール側の勝手な思い込みで事業選択をして、しかも価格政策も自分たちの机上の計算で鉛筆をナメナメやったに違いないと推察できる例がある。その事業を選択した根拠が自分たちの都合や思惑でしかないと推察できるのである。これはまず出発点から間違っている。事業の最終受益者はそのまちの市民であり、県民である。その人たちにとって、その事業がどのような経験価値を持つのか、というところに考えが至っていない。これなら「集客」は望めるだろう、程度の考えが透けて見える。それがマネジメントだと勘違いしているのである。

私たちが欲しいのは「瞬間最大風速の集客」なのだろうか。ならば、ひと昔前ならモーニング娘、いまならAKB48やジャニーズや彼ら彼女らが出演している舞台をやれば良い。しかし、それでは本当に「瞬間最大風速」でしかない。「一過性のイベント」でしかない。劇場ホールが獲得しなければならないのは、鑑賞行為の経験価値によりライフスタイルや価値観を変化させた観客聴衆、さらには県民市民である。つまり、持続継続性のあるリピーターやサポーターであり、当該劇場ホールの存在それ自体を承認し、認知する支持者や擁護者である。私たちが求めるのは「変化した価値観と、その人間」である。そのためにこそ事業は組み立てられなければならない。それを実現するために、私たちは「顧客志向」を徹底しなければならない。変化させんとする顧客の視点から物事を発想し、設計し、意思決定するのである。

『美徳なき時代』で「物語」(storyまたはnarrative)という概念を提起した哲学者アラスディア・マッキンタイアは「人間は何かを理解するために物語をつむぐ存在である」と看破している。「行為の連続体が理解可能となるためには、ある文脈が必要」とも書いている。この「文脈」がここでいう「物語」である。コミュニケーションしかり、風景の記憶しかり、交渉事しかりである。舞台と観客のあいだに「起こる」ことしかり、劇場ホールと人々のあいだに派生するブランディングもまたしかりである。あらゆる経験と体験は個が紡ぐ「物語」によって獲得され、さらに大きな「物語」に連なっていくのである。私は劇場ホールの事業の組み立てにも、この「文脈=物語」が必要であると考えている。年間事業計画のラインアップの流れと、そのそれぞれの事業から生まれる顧客の受取価値から、顧客の裡に「物語」が紡がれるようにすべてを仕組まなければ、連続した物語である「価値の連続性」は失われて、それは一過型のイベントでしかなくなってしまう。むろん、「価値の連続性」によって顧客の裡に生成される「物語」は顧客の数だけ多様である。それぞれの「物語=価値」は私たち劇場ホールの側が顧客に提供するのでは決してない。顧客の個人史に裏打ちされて顧客の裡に主体的に生まれるのである。どのような場合であっても、主体は顧客である。主役は顧客である。私たちはそのための提案をする存在でしかない。受取価値は顧客が主体的に生み出すものなのである。私たちはそのための「機会」を提供するだけである。

また、顧客価値に対して考えが至らない例もある。東京近県のホールが東宝ミュージカル『ミス・サイゴン』をS席12000円で計画しているのだが、これを例にしてその瑕疵を説明してみよう。言うまでもなく、このような事例は全国のホールを俯瞰すれば枚挙に暇がない。『ミス・サイゴン』は東京・帝劇でロングランしたミュージカルだが、その折の入場料は13000円だった。「ロングラン」と言っても、好評で観客が途絶えなかったからそうなるブロードウェイやウエストエンドや劇団四季のような「ロングラン」ではなく、はじめから期間が決められている「エンゲージド・リミテッド」(期間限定)の公演である。それがたまたま長期であったに過ぎない。長期間の興行でなければ、舞台美術、衣装などのデザインの著作権や上演権を支払って利益を見込めないという興行上の事情での「ロングラン」である。

東京で何回も上演されているのだから、良質な舞台を観たいと思えば、「旅バージョン」ではなく、設備の整った東京の劇場に出かける選択をするのが行動経済学の知見である。あわせて、「東京に出る」という価値が顧客には発生する。それによる「物語」の質の向上と価値の多層性が生まれる。たった1000円の違いなら、都合さえつけばミュージカル・ファンは間違いなく東京の劇場での上演機会を狙って「上京」する。この「上京」というイベントによる価値が『ミス・サイゴン』に付加されるのである。そう考えていくと、1000円のディスカウントは取るに足らない金額になる。それ以上の価値が「上京」というイベントには間違いなくある。

ここで考えなければならない課題が出てくる。「価格政策」である。価格設定には、大きく分けて「費用重視型」と「競争重視型」があるが、私は以前ここで「地域慣習価格」について述べた。地域の公立劇場ホールの価格設定には「費用重視型」も「競争重視型」も最適な選択ではない。その適用が不適な環境にある。もし仮にそれができる環境にあるのならば、何も自治体が公立の劇場ホールを設置してはいない。地域は都市部のような競争はなくとも市場があまりに狭隘であり、市場性を根拠とした価格政策がとれないのである。そこで「地域慣習価格」であるが、これは当該地域の消費性向と価格弾力性を根拠としている。「消費性向」は、言うまでもなく総所得の何%程度を教養娯楽費に振りあてられるか、そのポテンシャルが標準的な世帯にどの程度あるかであり、それは当該地域の住民の平準的な所得額、学歴程度、家族構成などによって地域で多様に異なる。

「価格弾力性」とは、価格の変動によってある商品の需要や供給が変化する度合いを示す数値で、ある公演のチケット価格10%値上げしたときに、需要が5%減少したとすると、この場合の価格弾力性は0.5となる。この数値が1.0より大きいと価格弾力性が大きいと言い、それより小さいと価格弾力性が小さいと言う。一般的に生活必需品は価格弾力性が小さく、毛皮や宝飾品や自動車などの贅沢財は価格弾力性が大きいといわれている。舞台芸術のチケット価格は価格弾力性が大きいと思われるが、どのポイントで価格弾力性が1.0になるかが、より経営合理性にかなった価格政策のポイントである。当然のことだが、当該地域の消費性向とこの数値は関連してくる。5000円と4000円で需要が大きく変化しないのなら、当然チケット価格は5000円が経営合理性にかなっていると言える。4000円を5000円に値上げして需要(観客数)が大きく減数するなら、4000円が地域の適正な価格ということになる。この場合、総チケット収入が変化しないのなら5000円に値上げするという選択肢もあるが、舞台芸術の場合は、満席に近い場合と空席が目立つ場合とでは、顧客の受取価値が大きく違ってくるという特殊性がある。したがって、劇場ホールの価格政策としては、この場合は4000円で据え置くという選択が正解である。ならば、『ミス・サイゴン』の12000円は適正か否かとなる。40人のキャストと同数程度のスタッフの交通費や宿泊費を考え合わせると、この価格設定は「費用重視型」によっているのではないかと推察するが、この場合、「東京近県」という条件が加味されるから競争相手は「帝劇の『ミス・サイゴン』」のみならず、東京で上演されるグランドミュージカルのすべてということになる。私がマネジメントするならチケット価格は7000円程度に設定するだろう。

とは言っても、何故それほど大幅に価格を下振れさせるのかという疑問を持つ向きもあるだろう。むろん、ひとつには、顧客の経験価値の高度化を企図しつつ、地域の消費性向と価格弾力性による「地域慣習価格」(フルオーケストラなら、演劇ならどの程度の価格という目安)を決めると都市部との大幅な価格差がでてくるということもあるが、いまひとつは、公立文化施設が受け取る指定管理料には顧客のチケット「価格の負担軽減機能」、あるいは「価格補填機能」も含まれるという考え方だ。ヨーロッパ、取り分けてフランスやドイツの劇場に行くと「何てチケットが安いのか」と思うことがある。これは公共支援によってチケット価格が抑制されているからである。劇場ホール側がそれを責務とする公共的な意識が定着しているのである。

むろん、日本では、ほとんどの劇場ホールは公立であり、自治体予算から割り振られる指定管理料にも当然ながらその機能があってしかるべきと、私は思っている。現段階での指定管理者選定の際に自治体から提示される仕様書にはその機能が書き込まれてはいない。しかし、すべての市民の受益を視野に入れてこその「公立」でなければ、劇場ホールの設置自体に疑問符がつく。公立施設の設置によって自治体は、県民市民の基本的人権のひとつである文化権を担保するのではないか。憲法第13条の「幸福追求権」、「自己実現の権利」を実体的に遵守するのでなければ、他の予算を削減してまで、さらには後年度負担をしてまでの施設設置に政策合理性はない。最近アーラは名古屋市を中心に県外からのお客様が増えている。当然である。地域の劇場ホールの経営特性をあたうかぎり発揮すれば、都市部近郊の公立施設は都市部からの「スプラッシュ効果」の恩恵に与れるはずである。

視察対応のための予備知識として各々の自治体と劇場ホールの情報を概観しただけで、以上のような課題がいくつも出てくる。舞台芸術創造団体が大都市圏に一極集中している現状では、上演料以外に必要な旅費交通費、運搬費などの地域の負担が過重であり、鑑賞機会の格差の是正は制度的にどうしても行わなければならないが、あわせて私は、地域の公立の劇場ホールのマネジメントが負のスパイラルに自ら嵌まっているのではないかとも思っている。「視点」を変える。「発想」を変える。地域の公立劇場ホールが求められるのは「みずから変化する」ことである。端から負け犬になることはない。最初から敗走することを激しく拒否すべきだ。たとえば、可児市は人口10万人の小さなまちである。舞台芸術のマーケットとしては狭隘にすぎる。「弱み」と見れば、まさしくそれは「弱み」である。だが、その小ささを「強み」と考えるとまったく違った経営の視野がひらける。これが可児市文化創造センターalaの事業のラインアップと、そのマネジメント、マーケティングの仕組みの設計根拠である。

このページの上部へ