連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第二十二回 公立劇場・ホールの仕事とは何なのか―劇場法素案について考えてみる。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

「劇場、音楽堂の活性化に関する法律(案)」が発表された。「前文」のついた法律案である。この「前文」は、詳しくは「館長エッセイ」を読んでいただきたいが、文化芸術の社会的包摂機能を前面に押し出した格調の高いものになっている。昨年2月8日に閣議決定された「第三次基本方針」の「基本的視点」を敷衍した、憲法第十三条に沿う国民市民の「幸福追求権」を謳っていると評価できる内容となっている。

全体を俯瞰すると、今後解決しなければならない課題は大きく二つある。その一つ目は、第二条の「定義」で、「この法律において『劇場、音楽堂等』とは、文化芸術に関する活動を行うための施設及びその施設の運営に係る人的体制により構成されるもののうち、その有する創意と知見をもって実演芸術の公演を企画し、これを一般公衆に鑑賞させることを目的とするものをいう」である。前半の件は「施設(ファシリティ)」であり、あわせて「機関(インストチュート)」であると定義しており、従来からの施設主義一本やりではなく、「機関」としての劇場ホールを法的に位置づけたことに意義がある。ただ問題は、「実演芸術の公演を企画し、これを一般公衆に鑑賞させることを目的とするもの」である。民間の劇場ホールはそういう発表施設としての役割しか持たないことが通常であり、それが一般的には日本のスタンダードであるのだが、公立劇場ホールにあっては、上演施設は全体機能の一部でしかない。アーラでは、年間37万余人の市民が来館しており、そのすべてが鑑賞者ではない。「すべてではない」という言い方は適切ではないだろう。劇場の自主事業の鑑賞者はおよそ一割に過ぎない。多くの人々がそれ以外の目的でアーラを「広場」として利用しているのである。

文化庁に設置された「劇場・音楽堂等の制度的な在り方に関する検討会」の「中間まとめ」でも、劇場ホールの定義を「本来,劇場,音楽堂とは,もっぱら音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術活動を行い,観客が見聞き等することを目的とした施設」としている。ともに間違ってはいないが不十分である。ここに日本の劇場文化と文化政策の拭いがたい限界性がある。日本では近代に入ってから、芸術団体が芸術的使命のもとに自立的に存在して、概ね劇場ホールを「借りて」、自分たちの芸術的成果を発表するかたちがスタンダードな形態であったし、現在でもそのかたちが続いている。民間の劇場ホールはそのための発表施設としての役割を担っている。自前の劇場ホールを持たない芸術団体の発表の場として機能しているのだ。したがって、劇場ホールの「定義」もまた、その形態をまるごと引き継ぐだけのものとなっている。80年代半ばから数多く設置された公立劇場ホールも、その「定義」をそのまま存立基盤を吟味する込みとなく引き継いでしまった。いわば「鑑賞施設」としての劇場ホールは「常識」となっているのである。

その反省として、付属のカンパニーを設けようとする動きもあった。水戸芸術館、静岡舞台芸術センター、ピッコロ劇場、近くは新潟のリュートピアなどである。「医者のいない病院」、「教師のいない学校」という比喩で専門家のいない劇場ホールはただのハコでしかない、という論理がまかり通っていた。「欧米ではそれが当たり前」という流言飛語めいた物言いも流通した。文化後進国の日本とは違っている、と言わんばかりである。それが「流言飛語」なのは、欧米でカンパニーを付属させている劇場ホールはもはやごく少数であることは、現地を訪れたことのある人間なら誰もが気付くことである。1日から3日で上演演目を変えるレパートリーシアター制度を採用しているところだけがカンパニーを抱えていることに気付くはずである。でなければ、経済合理性がないのは自明である。それだけのマーケットを持たない、あるいは創ろうとしないで「付属カンパニー」を正当化するのは、とりわけそれが公立施設であるなら、それこそ「ムダ」である。モータリゼーションが発達して移動が容易になったこととで、欧米の劇場ホールは、カンパニーを抱える経済合理性と、そのつどプロデュース形式で公演を打つことを秤にかけて「付属カンパニー」を放棄したのだ。文化庁の職員でさえ「劇場に劇団があるのが普通なのですか」と訊いてくるくらいだから、「流言飛語」がどれだけ「常識」めいて流布しているのか分かろうというものである。

欧米の劇場ホールのことを流布するなら、単なる鑑賞施設ではないことを言い募ってほしかったと私は思う。「医者のいない病院」、「教師のいない学校」は、明らかに芸術家側の利害を殊更に強調した物言いでしかない。劇場ホールに必要な「専門家」とは、芸術に精通した経営の技術保有者であって、アーチストではない。前言のひそみに倣えば、「校庭のない学校は学校ではない」ではないか。劇場ホールは本来、国民市民の広場であり、社交場であり、休息場であり、また教室にもなり、学校でもある。公立の劇場ホールであるならば、そういうコミュニティ形成機能を果たすことが責務である。公共の福祉、社会福祉、国民の幸福追求権に資する機関でなければ、国民市民から強制的に徴収した公的資金で成り立っている前提が崩れてしまう。定義が「鑑賞施設」であると同時に、中央の一部にあるように「貸館」をネガティブに捉えるならば、一部の舞台芸術愛好者と一部の芸術家のためだけの施設となってしまうのではないか。これでは、とても「公共性」のある施設とは言えない。それならば、単なる「上演施設」であり「鑑賞施設」である民間の劇場ホールで充分なのである。だいたい、公立施設と民間施設は使命も機能もまったく別物であるのに、それらを包括した考え方をとって、その法制化をすること自体に無理があるのだ。

二つ目の問題は、国と地方公共団体への規定が、「国は、この法律の目的を達成するため、劇場、音楽堂等に係る環境の整備、その他必要な施策を総合的に策定し、及び実施する役割を果たすように努めるものとする」、「この法律の目的を達成するため、自主的かつ主体的に、その地域の特性に応じた施策を策定し、及び当該地方公共団体の区域内の劇場、音楽堂等を積極的に活用しつつ実施する役割を果たすように努めるものとする」と、ともに「努力規定」でしかないことだ。私は、「劇場音楽堂等」も、それに関わる「芸術団体」も「芸術家」も、国民市民の幸福追求権に関与しているという自覚が求められ、その使命を果たすことが「責務」であるとするべきと考える。したがって、当然であるが、国及び自治体がそれらの機能を果たすための環境整備や施策を進めるのもまた「責務」であるべきと考えている。憲法に係る権利であり、人権の一部を構成する「幸福追求権」に係ることである。「努力規定」ではなく、「責務」であるのは自明のことではないだろうか。

公立劇場ホールの仕事とは、言うまでもなく鑑賞事業をすることだけではない。それは劇場ホールの一部が上演鑑賞施設の運営であるように、上質の舞台芸術を創造し、鑑賞していただく環境を整えるのは仕事の一部でしかない。私たちの仕事に必要なのは「広場であり、社交場であり、休息場であり、また教室にもなり、学校でもある」ための国民市民へのホスピタリティである。「ゲイジュツでござい」とエリート主義芬々な態度は、その人間や芸術家の心の貧しさである。心の貧しい人間に優れた芸術など創れるはずもないし、お客さまの心をいやすことなぞ出来るわけもない。劇場ホールは、アーラが標榜するように「人間の家」であり、社会的包摂による福祉社会建設の拠点施設であり、国民市民のための社会機関であるのだ。法律はそのための根拠としてつくられるべきであるし、そういう社会からの危機のシグナルは絶え間なく発せられているし、社会からの要請は、目を凝らせば間隙がないほどである。私たちの仕事は、そのように誇り高い使命を持ったものではないだろうか。

このページの上部へ