連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第十九回 どんなまちの、どんなに小さなホールでもできるマネジメントを。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

非常勤であった準備期間の一年、そして、私の経営システムでアーラを動かし始めての四年目が終わろうとしている。非常勤で就任することを決意した2006年12月時点から、私の思いは何ら変わっていない。どんなに小さなまちでも、どれほど小さな公立ホールでも「使える」経営システムを立ち上げることを最初から考えてのアーラでの経営であった。

文化庁の「優れた劇場音楽堂からの創造発信事業」の重点支援施設には、ほとんど都市型の、しかも大きな予算を持っているところが採択されている。審査する「有識者」と言われている人間には、「経営」の方法の微細なディテールを申請書からは読み取る力がないように感じる。マネジメントの仕組みを理解していないのだ。従来からの概観でしか判断していないように思える。ことマネジメントとマーケティングについては「節穴」としか思えない。中小の会館にとっては、どんなに経営努力をしても最初から報われないことが分かってしまっている。だから、多くの会館は申請すらしない。予算の多寡で足切りにされている。

これはおかしいのではないか。大きな予算を持っていないところは「門前払い」なのである。補助の仕組みと趣意が変われば、「協力者会議」の審査委員を選択する際、求められる能力の再精査をしなければならない。地域を知らないばかりか、地域に出たこともない審査委員の面々が、圧倒的に多数である地域の劇場音楽堂の審査をしているのである。文化庁から昨年の審査の評価表がアーラに届いたが、「重点支援施設として経費の妥当性に欠ける」という点だけが重点支援施設としての欠格素因とされていた。

つまりは「予算が少ない」ということなのだ。それで「地域の中核施設」に留まっているのである。予算の多寡だけが問題なのである。そうとしか読めないのだ。審査が経営手法や内容を精査することなく、予断を持ってなされているとしか思えない。以前の「芸術拠点形成事業」の審査委員を務めた人間のひとりとして忸怩たる思いで考えるのは、決して予断を持たないこと、経営手法を申請書から読み取ること、それ以上に何よりも、地域に足を運ぶことである。文化庁から、審査委員が調査視察に行く折には宜しく、という文書が来たが、10人の審査委員の誰ひとりからも、問い合わせ「すら」なかった。彼らの意識も「東京一極集中」を容認しているのだろうか。文化研究の「有識者」としては、まことに情けない。そのために地域の中小施設には「夢」を観ることさえ許されないのである。

ならばどうすれば良いのか。「ゴマメの歯ぎしり」と言われようが、全国どのような条件の文化施設でも取り入れられるマネジメントとマーケティングの考え方、仕組みを編み出して、全国隅々にまで拡げて、予算の多寡だけの「東京中心」の評価基準に抗うしかないだろう。思っていた以上に、この壁は厚いし高いのだが、私の劇場経営の出発点は「地域」なのである。諦めるわけにはいかない。

アーラは芸術的に高水準の事業を選択実施しているのみではなく、同程度の比重で社会的評価を重視している。社会的評価とは、コミュニティの人間関係づくりを重視しているということであり、人間の関係の健全性が「まちの健全さ」であるとすれば、いわば「まちづくり」である。「地域振興」である。これは茫洋とした都市圏では真似のできない経営方針である。「小さいこと」を強みとするマネジメントであり、マーケティングである。たとえば、年間328回を数えるワークショップとアウトリーチのコミュニティ・プログラム「アーラまち元気プロジェクト」である。再来年度に向けては、2種類のコミュニティ・ダンスのプログラムを導入する。ひとつは高齢者の健康維持と体力維持を目的とした通年のコンテンポラリーダンス・ワークショップであり、これには3ヶ年間で養成したワークショップリーダーのグループ「ファン・ファンアーラ」も関わることにしている。また、子育てに悩むお母さんに向けて、幼児と母親のダンスワークショップの実施も視野に入ってきている。さらに、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、病院へのアウトリーチには、国際セラピードック協会と提携して、セラピードックを同行する計画を再来年度から頭出ししようと計画している。再来年度には、「アーラまち元気プロジェクト」はおそらく年間400回を超えることだろう。

芸術性の高い自主製作事業や鑑賞事業にあっても、事前の関連ワークショップや関連事業は必ず実施している。たとえば新日本フィルのコンサートの前の音楽監督クリスティン・アルミンクと市民との、ケーキを食べながらの音楽談義を開催したり、演劇ではアフタートークを劇場のホワイエで必ずやることになっている。すべての事業が、コミュニティ形成のためのコミュニケーション、関係づくりの「場」と網の目のように連携されるように設計されている。また、誕生日月のお客様の席に職員手づくりのバースデイカードとラッピングはたバラを一輪置いておき私がご挨拶に伺うバースデイ・サプライズなどの顧客サービスは手間を惜しまないで実施している。

これら上記のサービスは、「思い遣り」、「気遣い」、「心配り」などのホスピタリティが経営哲学の基軸としてあれば、規模の大小はともかくも、何処でも、どんなに小さな施設でも実施できることである。顧客の進化によるリピーターの創出を企図していれば、大きな予算を割く自主事業と同じ比重で実施出来ることではないだろうか。公立文化施設として、しなければならないミッションではないか。顧客進化とリピーターの創出には、それだけの手間と時間を必要なコストとして求められるのだ。

これらは、大きな予算を使って単に芸術性の高い舞台の鑑賞機会をつくるよりも公立文化施設には重要なことである。私たちは「公立」の文化施設なのである。住民から強制的に徴収した税金で設置して、運営しているのである。大きな予算を費やして芸術性の高い舞台の鑑賞機会を提供するだけなら、容易に「興行資本」にも出来ることである。それとあわせて、きめ細かいホスピタリティを顧客に提供して初めて「公共」の文化施設と言えるのではないだろうか。私たちは「興行師」ではないのだ。地方公共団体から指定管理者として委託を受けて地域経営の、地域振興の一助となることを求められているのだ。ここでは、予算の多寡は問題とならない。経営哲学におけるホスピタリティやコミュニティへの配慮の濃淡の問題なのである。

これならどんなに小さなまちの、どんなに小さなホールでも、いかに予算が少なくとも「できる」ことだ。やらないなら単なる「怠慢」でしかない。アーツマネジメントやアーツマーケティングというのは、現在、大学で教えているような高尚な考え方や高邁な経営哲学のことではない。それは甚だしい勘違いである。人間が人間を思い遣ることこそが、そのマネジメントやマーケティングの基本なのである。そこを飛ばして、いくら高尚で高邁なマネジメント理論を教えようが、それはガラスの塔のなかで自己完結する「学問」でしかない。現場では何の役にも立たない空文句に過ぎないことを「有識者」は知るべきである。

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