連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第十三回 「言葉が揃う」ということ ― 強い組織をつくる。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

劇場という組織では顧客、市民、アーチストなどとのコンタクトポイント(CP)が最重要視される。そのためにはヒューマナイズされた組織をつくりあげることが大切であり、上意下達の命令系統ではCPが健全に機能しない、ということを前回で述べた。ならばどのような組織を目指すべきなのか。CPが健全に機能するためにはどのような手法を施すべきなのか。答えはいくつかあるだろう。ここでは可児市文化創造センターala(以下アーラ)で私が採った手法と経緯を例示したい。

私が大学と兼務で非常勤の館長兼劇場総監督として就任したのは、2007年4月だった。当然のことだが、当該年度は前任者の決めた事業であり、経営スタイルであったから、私がやる仕事は、翌年度からの経営の仕組みづくりと、事業の選択、新たに始める創造型事業の決定であり、さらに重要視したのはサービス産業としての劇場の組織の健全化であった。就任して最初に感じたのは、職場の空気が劇場としての組織になっていない、ということだった。事業関係の職員は買い公演の一般事務を黙々とこなしているだけの「事務員」であるし、技術職員は専門家としての矜持を持ちつつも、事業系の事務職員を睥睨するという有様であった。劇場、とくに公立文化施設として何を、どの様にすべきかが誰もわかっていないという散々たる状態であった。むろん、話し声も笑い声もない、まったくのディスコミュニケーションの職場であった。

市民は置き去りにされていた。よくもこんな組織で市民サービスをしてきたものだといささか呆れてしまった。会館から5年を過ぎており、入館者や観客数は右肩下がりで「底」と言っても良い状態であった。その後アーラへの入館者は、毎年8000人から14000人ずつ増加して、昨年は330000人を超え、チケットを購入してくださる来場者も約1割の34000人、当初からおよそ2.6倍となっている。当時は、東京では受け入れられる先端的な舞台や、一部の職員の趣味に偏った音楽事業をプログラミングして、市民からは、これはいまだに完全に払拭できないでいるのだが、「敷居が高い」という印象を持たれているようだった。

いわば、2400ある全国の公立劇場・ホールの大半が陥る「文化ホールがまちをつくる」と思い込む「病理」にアーラはどっぷりと漬かっていた。東京を中心とするプロモーターの売り込んでくる舞台を選択して、粛々と福祉配給的に地域に供給してさえすれば役割は果たせてまちを「文化的」に出来ると考えるのは、一種の「病気」のようなものであり、健全な思考ではない。その意味で、アーラは「病気」に罹っていた。それでも「倒産」しなかったのは、役所からの公的資金で守られているからである。それだけである。評価が大甘なので、そのことに胡坐をかいていても継続性は担保できるという図式になっている。結果として、当時のアーラの職員もその不健全な図式に胡坐をかいていたと言える。

就任して私がまずやったのは、劇場職員のみならず、防災、管理、清掃の委託業者からの派遣職員を含めておよそ80人に対して、3回に分けてこれからのアーラの進む方向性を話すことだった。「可児から全国ブランドを―素晴らしい劇場のある地域には本当の豊かさが」と題された研修セミナーである。この考えはいまもぶれていない。健全な地域社会、健全な人間関係がなくては健全な劇場経営はあり得ない。さて、ここで語った言葉に「芸術の殿堂から人間の家へ」と「社会機関としてのアーラ」と「ブランディング=市民からの信頼」がある。この三つの言葉は、現在に至るまで、ことある機会に繰り返し職員に向けて発せられることになる。職員をはじめとする参加者は、「何を大風呂敷を広げているのか」程度の受け止め方だっただろう。同じことは、新聞記者をはじめとするメディア関係者との定期的な懇談会でも、私は「数年で可児市を東海地方の《文化首都》にする」と明言している。敷居の低い「人間の家」となり、外部に成果を出す「社会機関」として機能し、「ブランディング」を進捗させて市民からの信頼が高くなれば、「東海の文化首都」どころか、全国で有数のブランドを持った地域劇場になることは高い確率で可能だからである。これらは決して「大風呂敷」ではない。「夢」と言っても良いが、グランド・デザインをしっかりと描き、そこに到達するまでのシナリオを書いて粛々とそれに沿った仕事をやっていけば間違いなく実現するのである。アーラはそれだけのポテンシャルを持った施設内容を持っている。現に可児市は今日では《東海地方の文化首都》となっているし、文化庁の「優れた劇場音楽堂」の補助額では全国で16番目になっている。

そうなるために私が目指したのは「強い組織」をつくることだった。強い組織と言うのは、「言葉が揃っている」ことが肝要である。言葉を換えればミッションやそれに近い目標を組織内で共有しているか否かである。アーラは現在では上記の三つの言葉を共有している。言葉が揃っているのである。前回で書いた相聞歌の「同じ高嶺の月」を見ているのである。私の考えとしては「高嶺の月」さえ見ていてくれれば良いのであって、同じ路を登る必要はないと思っている。言葉が揃えば、あとは職員一人ひとりの個性でその「応用問題」を解けばよいのだ。問題解決は個人に委ねる方がCPにおける市民に良い印象を与えるに決まっている。CPの品質が良くなるに決まっている。それには、人間性とコミュニケーション能力が備わり、相手の心を思い遣れる人間力、すなわち社会脳(大脳皮質の前頭連合野)が健全に発達した職員であることが前提になる。人間に対する「真摯さ」である。ファミリーレストランやファーストフード店の顧客対応がマニュアル化されているのは、その前提を持っている人間を揃えることができないからである。いきおい品質を担保するために、あの味気ない、気持ちの悪い、マニュアル言語の顧客対応(CP)になるのである。

したがって、アーラは現在職員募集をしているが、最重視するのは「真摯さ」である。人間性とコミュニケーション能力が備わり、相手の心を思い遣れる真摯な「人間力」である。経験はまったく重視しない。なぜなら、たとえ新国立劇場やびわ湖ホールや世田谷パブリックシアターという日本を代表する劇場・ホールで働いていようと、アーラでは通用しないと考えるからだ。アーラの経営姿勢や市民対応はそれほど他館とは際立って違っている。経験はもとより無いよりはましだが、それほど重要ではない。お客様の受取価値がすべて、というのがアーラの考え方であり、まさに「芸術の殿堂」ではなく「人間の家」としてのサービスの品質を職員に求めているのだ。

むろん学歴も重視しない。必要なのは真摯な「人間力」である。アーツマネジメントの三大要素は、アーツマーケティングとアーツファイナンスとヒューマンリソース・マネジメントであると考えているが、この最後のヒューマンリソース・マネジメントにこそコミュニケーション能力を含めたこの真摯な「人間力」が必要なのである。組織内部に向けられるインターナル・マーケティングにも、アーチスト、市民をはじめとするステークホルダー(利害関係者)との関係づくりにも、必須となるのは真摯な「人間力」である。これがないとアーラでは「言葉を揃える」ことは不可能である。それほど「関係づくり重視」の創造的な経営方針なのである。強い組織とは「言葉の揃った」職員によって築かれる。決して強い経営トップやリーダーが創り上げるものではない。経営トップやリーダーに必要なのは、これも真摯な「人間力」である。決断力であり、仕事を任せる寛容さであり、はらはらしながら手に汗握っても職員の仕事を見守る懐の深さである。アーラの経営は「日本の代表的な地域劇場」であることを視野に入れて仕組みが設計されている。「可児から日本の地域劇場・ホールを変える」の気概を持った経営をしている。全国の公立劇場・ホールにあって競争優位性を持つには、職員が優れて真摯であることが強力な武器となる。優れた劇場経営には、優れた職員の「言葉を揃う」ことが絶対の条件であることは言うまでもない。

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