連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第二回 「公共劇場」は何処にあるのか。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

企業をはじめとするあらゆる組織が社会の機関である。組織が存在するのは組織自体のためではない。自らの機能を果たすことによって、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである。組織は、目的ではなく手段である。したがって問題は「その組織は何か」ではない。「その組織は何をなすべきか。機能は何か」である。

ピーター・F・ドラッカーの名著『マネジメント』の冒頭にある数行である。さらにドラッカーは別のところで、「企業とは何かを決めるのは顧客である」と切り出し、続けて「なぜなら顧客だけが、財やサービスに対する支払いの意志を持ち、経済資源を富に、モノを財貨に変えるからである。しかも顧客が価値を認め購入するものは、財やサービスそのものではない。財やサービスが提供するもの、すなわち効用である」と、組織が提供するものは「効用」であり、その顧客の受け取る「効用」こそが「その組織が何者であるか」を決める、と言い切っている。これは、フィリップ・コトラーにも、セオドア・レビットにも共通する企業や組織の定義とマネジメントとマーケティングに関する前提である。

この論点を前提とするならば、「公共劇場」とは、自らが名乗りを上げる自認概念ではなく、顧客(市民をはじめとするステークホルダー=利害関係者)が、その供給されるサービスの「社会的・公益的効用」によって存在を許容する価値概念であるということになる。自らのアウトプットが、他者のインプットにならないかぎり成果とはならないのは言うまでもない。したがって、「公共劇場」は実在的な概念とは言い難く、「公共劇場となるプロセスが存在する」のである。ここでは、日本に特殊な公設劇場・ホールが、すなわち「公共劇場」であるという従来からの研究者の概念規定は脆くも崩れ去ることになる。

たとえば、英国のリーズ市にあるウエストヨークシャー・プレイハウスは、チャリティ法人格を持った有限会社である。しかし、芸術的成果と等価な柱としてコミュニティ・サービスを掲げており、年間約1000のコミュニティ・アプローチのプログラムを実施しておよそ20万人がそこにアクセスしている。「公設」ではないが、誰一人としてリーズ市民が疑うことのない「公共劇場」である。「公共劇場」であるか否かは、「社会的・公益的効用」というアウトプットを受け取る側の顧客に決定権のある概念なのである。

さらに、「強制的に徴収した税金で設置し、運営している」という、きわめて日本的な公立劇場・ホールの場合、決定権を持っている「顧客」とはステークホルダーであると同時に、納税者でもあることも併せて前提と考えなければならない。こうなると、日本には真の意味での「公共劇場」が存在するのかどうか、はなはだ心許なくなってくる。芸術的に高い評価を得ている公設劇場はあるにしても、それだけでは真の意味での「公共劇場」としては十分条件ではない。税で設置し、運営しているという日本に特殊的な前提にたてば、住民の施設利用に制限を設けたり、域内よりも東京をはじめとする域外からの観客に大きく依存していたり、はじめからそれを想定した経営理念を掲げたり、域内の社会的課題に対応しない、あるいはできない公設劇場が「公共劇場」であるはずもない。「公共劇場」は、芸術的成果と社会的成果が等価であることが必須の条件である。そして、それが日本の公設劇場の特殊性であることは言うまでもない。政府・自治体が設置したから「公共劇場」ではない。しかも「公設」と「公共」のあいだには、径庭のへだたりがあることも知らなくてはならない。

前述のウエストヨークシャー・プレイハウスは、20万人がアクセスするコミュニティ・プログラムを経営の柱に据えながら、もう一本の柱である芸術的成果も、製作舞台がロンドンのナショナルシアターに1ヶ月間招待されたり、ナショナルツアーを成立させたり、創作ミュージカルがウエストエンドにトランスファーしたりと、高い芸術的評価を得ている。彼らのミッションは、芸術性と社会性(コミュニティ重視)が等価とされている。きわめて健全な地域劇場の経営理念である。日本においては、「強制的に徴収した税金で設置し、運営している」にもかかわらず、芸術性と社会性は並列に評価してないケースが見受けられる。芸術的評価が抜きんでてプライオリティをもっており、社会的評価は「従」にとどまる。ウエストヨークシャー・プレイハウスの横型に対して、縦型の考え方である。これは研究者や評論家の不見識から来る彼らの責任である。それでも、ワークショップやアウトリーチの実施が劇場運営の際の「常識」となってきたことは評価すべきだが、それは前世紀と比較してなのであり、いまだにそれらは等価とはなっていない。その結果、劇場域内の住民は、劇場が存在することで当然享受すべき社会的成果を受けていないのである。そこに留まっている日本の公設劇場運営の在り方にもまた、研究者や評論家の責任は小さくない。現場から研究を組み上げる真摯さが彼らには求められる。

ここで、「公共劇場」における「公共性」とは何かについて考えてみたい。『公共劇場の10年』(伊藤裕夫・松井憲太郎・小林真理共著)で伊藤氏は「公共性」について、きわめて簡潔に「すべての人びとに関係する共通のものという共同体的原理」と正鵠を得た定義づけをしている。だとすれば、この「共同体的原理」は、時代や世界によって、さらには時の権力によって揺れ動く原理と言ってよいだろう。そう考えると「公共性」は必ずしも普遍的な価値概念ではないということになる。変化する価値概念ということになる。伊藤氏、松井氏が『公共劇場の10年』で挙げているギリシャ悲劇の時代から、さらにナチスドイツ、戦時中の大政翼賛会、ソヴィエト連邦の国家主義的な文化統制まで概観すれば、劇場の「公共性」がいかに変幻自在な価値観として、その時代と社会を染め上げてきたかが理解できるだろう。「公共性=正義」のように思いがちであるが、絶対的な正義の定義が困難であるのと同様に、絶対的な公共性もまた、言語規定の難しい概念である。

ならば普遍的な、絶対的な価値概念としての劇場の「公共性」は何処にもないのか。私は「ある」と信じて疑わない。それは「文化の民主化」と一体となって実現する「公共性」であると思っている。すなわち「いのちの格差」のない社会を形成しようとする「政治的意志」であり、「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)」という政策理念に依拠した社会的経営概念である。これは多様な価値観を認め合い、異なった価値観を決して排除・孤立させずに社会全体で「いのちの価値」を包み込もうとする社会政策の理念であり、その考え方が目指す社会こそが「いのちの格差」のない社会、すなわち「文化的な社会」であり、「健全な社会」である。劇場はその社会を実現するための機関であり、政策手段であると私は考えている。そして、劇場のその機能を充分に稼働させるためには、すべての人々が劇場のアウトプットをインプットできる環境 ― いわゆる「文化の民主化」が必須となる。健全な社会、コミュニティ、個人の営みのないところに、健全な劇場経営は成立しない。自明である。劇場の健全経営と社会・コミュニティ・個人の健全性は、その相互性によって成立する。この至極当然な現代経営の知見に従えば、「文化の民主化」のために組み立てられる事業のひとつがアウトリーチ・プログラムであり、その成果の集積によって、劇場経営は健全性を獲得するのである。

可児市文化創造センターalaの経営が、収支比率25.4%(平成15年度)、32.1%(平成16年度)という惨況から3ヶ年で39.4%(平成20年度)、58.5%(平成21年度)、72.1%(平成22年度)と右肩上がりに立ち直った背景には、地域社会の健全化なくしては経営の健全化はありえない、という地域劇場経営に対する確固たる信念があったと言える。観客数は32,188人(平成21年度)と、平成16年度との経年比較で260%の増加を示している。人口10万1700人の小さなまちでこの観客数は、3.16人に1人がアーラで鑑賞行動をしていることになる。辛抱強く「アーラまち元気プロジェクト」を実施して、コミュニティの健全化、文化化を推し進めた成果だと思っている。

年間267回(平成21年度実績)を数える「アーラまち元気プロジェクト」(学校・児童・障害者・高齢者・医療・多文化・公民館へのコミュニティ・アプローチ)は、地域社会と住民の健全化を目途とする実践的な活動である。昨年度に受賞した地域創造大賞(総務大臣賞)の受賞理由が「地域課題と向き合い体系的に位置づけたアウトリーチや市民参加事業、準フランチャイズ契約を結んだ職業芸術団体による鑑賞事業などを実施。劇場監督制により地域劇場のマネージメントに取り組み、まちづくりの拠点として市民生活の質の向上に貢献した」であったことは、当初から取り組んだ経営方針の成果であると考えている。可児市文化創造センターalaは、いま、「公共劇場になるプロセス」に踏み入った、と実感している。

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