連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第一回 「カキの森」の文化政策

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

「開発による森林伐採が鰊の群来を幻にしてしまった、というテレビ番組を見た。秋田の海から鰰が消えたのも、河川上流での森林伐採の疑いがあるという。道東の厚岸の牡蛎は、急激な漁獲量の落込みを漁民らの植林事業によって復活したという」。

「雨が森に降り、森林の蓄えていた栄養分が伏流水に溶け込んで川となり、流域をうるおし、海に流れ込んで海藻や植物プランクトンの生長を促し、豊かな魚介類を育てるのだという。この<森と魚貝>の連鎖は、水産海洋学の奈須敬二氏が力説するところで、なにも目新しいことではない。しかし、私はその番組から少なからずショックを受けた。(中略)私たちの生きている時代が<未来>を消し去るようにしかないのだとしたら、これはいたたまれない」。

「<カキの森>は長い時間をかけて豊かな海を人々にもたらす。一本の苗木を植えようとする手に明日の糧はもたらされないかもしれないが、その手は確実に未来に向かってひらかれている。真のリージョナリズムとは、そのようなロングスパンの中で蓄積されるさまざまな知的資源とその循環のシステムによって実りの季節を約束されるものではないだろうか。でなければ、地域は痩せほそるばかりだ、と私はいま考えている」。

「私はいま、レジデントシアターの在処を探ろうとしている。それは、私にとって、人間にやさしい社会とそれを生み出す文化的環境の在処=人間と社会にとっての<カキの森>を探し出す道程であり、その森のシステムに普遍性があるか否かを検証する作業でもある。演劇の側からの検証、行政の側からの検証、地域住民の側からの検証、鑑賞団体からの検証、教育制度からの検証、税制からの検証など、さまざまな角度から《レジデントシアター構想》は試されなければならない」。

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長い引用となったが、上記の文章は、17年前に上梓した『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』の序章「芸術支援から芸術による社会支援へ」の冒頭に書き卸した「カキの森の文化政策」からの抜粋だ。40代半ばに前のめりになって書いた文章だけあって、読み返してみると勢いはあるが、いささか性急な論理展開をしていると恥じ入る感は否めない。だが、地域の劇場・ホールの社会的存在価値に対する考えの根幹は、いまもまったく変わっていない。可児市文化創造センターalaの経営を3年間進めてきた芯の部分は、この当時からいささかのブレがないことを最初に断わっておきたい。

オーストラリアの砂漠地帯の航空写真を見ると、砂漠の中に走る川の流域にそって緑のベルトが見られ、荒涼とした砂漠の風景と一線を画す光景が広がっている。地域劇場とは、まさしくこの砂漠地帯の河川のようなものではないか。流域に生命力をたたえた生き生きとした環境をもたらし、流れ込む海には豊穣の実りの時をもたらす。したがって、公共的な地域劇場(当時の私の語彙を使えば「レジデントシアター」)は、養分を蓄えた一滴の水をもたらす「カキの森」でなければならない、と私は思っている。そして、それこそが「公共劇場」の社会的責務なのではないか。いささか抽象的言い回しであるが、「公共劇場」の真の役割とは、まさしくここにあると、私は可児市文化創造センターalaでの3年間思い続け、マネジメントとマーケティングを推し進めてきた。可児市文化創造センターalaは、可児市民にとっての「カキの森」にならなければならないと思い続けてきた3年間であった。

「文化芸術は人々の生活に潤いと豊かさをもたらす」とはよく言われる言葉であり、これが文化支援や支援される側の根拠として発せられることが度々ある。だが、良く考えてほしい。生活の潤いと豊かさを享受しているのは、上演されるものと限定すれば、一部の愛好者に限られる。自明である。その限られた愛好者の生活の潤いや心の豊かさのみを指して、「全体」を語ることは論理的に矛盾していないか。文化芸術の側に立っている人間の勝手な「言い草」ではないか。政府や自治体の側も、「生活に潤いや心に豊かさをもたらすのだから」というほとんど明確な論理的根拠と確信のない、不可知論的な了解で支援を恩恵的にしているのではないか。文化芸術の側の人間がこれを言う時は、まさに「我田引水」、「手前味噌」。客観的な論理づけにも何もなっていない。

文化芸術の側の人間がそれを言い放って「公共性」の根拠であるかのように振る舞うのは勝手であるが、それが公的支援の根拠や公的な劇場・ホールの存在価値を説明するのに使われると、「一班を見て全貌を卜す」(一部分だけを見て全体を判断する)の類ではないかと、はなはだ怪しい気分になる。欺瞞である。「牽強付会」に過ぎない論理を、あたかも真実かのように振り回して恥じるところがない、と私は思ってしまう。すべての人々を視野に入れる「カキの森」の文化政策論とは真逆にある、愛好者の特殊性を普遍性とすりかえて「全体」と言いくるめる類の虚言空言にしか私には思えない。セールスマンが自分の売り付けようとしている商品を、誰にでも便利な、有用性があるものだと消費者を説き伏せようとするセールストークにいかにも酷似している。

「文化芸術は人々の生活に潤いと豊かさをもたらす」ことが一部の愛好者には見受けられる、と言えば正鵠を得ているのである。「部分」を「全体」とするのは論理のすり替えである。「公共劇場」とは、全体に奉仕する機関である。全体とは、ドラッカーの吟味を待つまでもなく、「社会」であり、「コミュニティ」であり、「個人」である。それらが価値と認め、その存在を許してはじめて価値の相互交換による「変化」という新しい価値=「公共劇場」が生まれるのである。新しい価値は相互の交流(マーケティング)によってのみ生成されるのであって、劇場・ホールが単体で新しい価値を提供し、生み出すものではない。その価値交換のプロセスが成立して、はじめて劇場・ホールは「公共劇場」となる過程に踏み込むのだ。劇場・ホールの成果は外部にしか現われない(社会化)。したがって、「社会、コミュニティ、個人」という劇場・ホールの外部存在が必要とするから、「公共劇場」はその存在を許されるのである(公共化)。「社会、コミュニティ、個人」に働きかけて相互に「変化」をもたらし、その「変化」によって「社会、コミュニティ、個人」は、劇場・ホールが存在することを認知する(社会的認知)。ここに至って、はじめて「公共劇場」は成立するのである。公的資金によって設置され、運営されているから、つまり「公設」だから「公共劇場」とは言えないのは言うまでもない。言うまでもないが、この言説が闊歩している。机上でものを考えるとそういう過ちを犯すことになる。

可児市文化創造センターalaでは昨年度(平成22年度)、私が常勤となった初年度(平成20年度)から始めた、作品を自主製作する創造型と、年間267回(平成21年度実績)実施される「まち元気プロジェクト」を含めた市民交流型の総事業費と、買い公演による鑑賞型事業費の予算額総額が逆転した。自主製作創造型事業にも市民サポーターが多く参加しており、「まち元気プロジェクト」とあわせて、予算の逆転は、外部への働き掛けが劇的に強まった証左と言える。アーチスト・イン・レジデンス型で製作されるアーラ・コレクションシリーズには、8回公演でおよそ1600人の観客を動員する。平均客席稼働率は、84.8%(地域拠点契約団体の新日本フィルと劇団文学座は、92.4%)、前年比171%の観客数の伸びで、2005年からの経年比較では260%増となっている。さらに、毎年、来館者が15000人から20000人規模で増加し、22年度でおよそ33万1000人になっているのも一つの成果と言える。人口10万1700人のまちにとって、この数字が可児市文化創造センターalaでの3年間のマネジメントとマーケティングの到達点であり、「現在」のすべてを物語っている。

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