すててこてこてこ

作品紹介

「真を写す」か時流に乗るか噺家師弟二人、芸と意地の火花を散らす。

幕府から明治新政府へ、江戸から東京へ。落語、庶民の娯楽の華だったこの話芸の人気は、文明開化の新時代にも衰えず。その頂点にいたのが、人情噺の名人三遊亭円朝。一方、円朝の弟子でありながら、師匠とは全く別の道をいく滑稽噺の奇才三遊亭円遊。とても追いつけない師匠の名人芸。師匠をおびやかす弟子の人気。芸風の違う二人の間を隙間風が吹く。政府要人とも交わり、その意向を受けて噺をつくる師匠。そんな師匠に反発し、寄席芸人にこだわる弟子。隙間風はいつか強風となって・・・。これは時代に翻弄され、時流に抗う芸人たちの物語である。

劇中を彩る実在した落語家たち

三遊亭円朝
三遊亭円朝

1839年~1900年。歴代の名人の中でも筆頭に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。滑稽噺より、人情噺や怪談噺など、講談に近い分野で独自の世界を築く。あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目円生から妨害を受けた。具体的には、円朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、円朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた円朝は自作の演目を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。

三遊亭円遊
三遊亭円遊

1850年~1907年。1868年頃、2代目五明楼玉輔の下に入門。1870年師匠が廃業したため、 1872年頃に初代三遊亭円朝門下に移り、初代円遊に改名。1880年4月、真打に昇進した。 落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。大きな鼻をもいで捨てるような振付けから「ステテコ踊り」の異名を得、このために「ステテコの円遊」の名で呼ばれるようになった。明治時代の落語界において中心人物であった。全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたと言う伝説がある。