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劇評:文学座アトリエの会公演『かのような私』

文学座アトリエの会公演『かのような私』
文学座アトリエの会公演『かのような私』
文学座アトリエの会公演『かのような私』

執筆者:小島祐未子

作 :古川健
演出:高橋正徳
出演:関輝雄、大滝寛、川辺邦弘、亀田佳明、萩原亮介、池田倫太朗、江頭一馬、川合耀祐、塩田朋子、梅村綾子、大野香織、田村真央

2018年9月27日(木)~28日(金) 計2回公演
可児市文化創造センター 小劇場

 文学座アトリエの会が古川健の新作『かのような私-或いは斎藤 平の一生-』を上演した。演出は高橋正徳。古川は劇団チョコレートケーキの劇作家であり、高橋と古川は一九七八年生まれ、今年で四十歳を迎える。奇しくも主人公を演じた亀田佳明も同じ年で、人生八十年というなら、いわば折り返し地点。そんな三人が中心となり、ひとりの人間のまさに八十年に渡る一代記を浮かび上がらせた。

 一九四八年(昭和二十三年)十二月二十三日、斎藤平は父・信一と母・伸子の間に生まれる。十二月二十三日といえば現在は天皇誕生日だが、当時は皇太子の誕生日。そして昭和二十三年に限っては、東条英機をはじめ第二次世界大戦のA級戦犯七人が処刑された日でもあった。ここを出発点に劇は進行していく。

 伸子が平を出産中、斎藤家に中国から復員した大熊が訪ねてくる。大熊は平の祖父・智夫が校長 を務めていた旧制中学の元教員で、信一の友人だ。学校を退いた智夫、現役教員の信一、学校には戻れないと話す大熊。教育に携わってきた三人は終戦をはさんで変化した考えを吐露する。国際社会によって大戦が清算されようとしていた時、彼らは平民の視点でその責任を議論していた。軍部主導の政策を信じて疑わなかったと悔いる智夫と大熊に対し、信一は仕方がなかったのだから過去は割り切って前に進むしかないと言う。やがて赤ん坊の鳴き声。生まれてきた男の子には平和や平等の想いをこめて「平 ( たいら ) 」と名付けられた。

 そのあと描かれるのは、安保闘争や学生運動に傾倒している二十歳の平、子育てに苦悩しながら堅物の教員に収まっている四十歳の平、リーマンショック後の社会で友人の自殺や息子の結婚に揺らぐ還暦の平、子どもの世話になる前に世界を見て回ろうと妻に背中を押される七十歳の平、そして妻を亡くす八十歳の平― 。節目節目の姿が一幕、二幕と重なっていくが、すべて十二月二十三日の光景だ。

 文学座アトリエの会は「新しい台詞との出会い ― 戦後再考」をテーマに、劇作・古川 × 演出・高橋の企画『かのような私』を発表した。古川は浅間山荘事件やヒトラーなど歴史的題材を取り上げて高い評価を得るが、今回は激動の昭和・平成史を巧みに織り込みつつ、ある意味ありふれた日本人像をしっかり描いて新鮮。緻密な 取材をもとに創作してきた古川が、二〇二八年という想像の近未来にまで物語を広げたことにも驚く。しかも夏目漱石の『こころ』の引用によって本作の未来に影が差す。

「自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」

 漱石はイギリス留学中いち早く近代化された社会に触れ、西洋文明の行き着く先を予見した。終戦後、物質的な豊かさや便利さを得た日本人もまた、漱石が憂いた道を歩んでいる。個人が尊重される現代社会では、かつて重視された血のつながりは希薄になった。平や平の息子が必ずしも父親の言いなりにならないのは「個」の時代ゆえの反応で、個人主義は家庭にも影響を及ぼした。しかも平の息子・学が連れ子を抱える女性と結婚したことで斎藤家は複雑な家族模様になっていく。平の妻・多佳子が死んだ時、「血とか関係ねえよ」と彼女に感謝する孫の翔太は同性婚間近。「前進していることだってある」という台詞は明るい兆しも感じさせるが、人類にとって個人の判断がいっそう問われ、個の淋しさとの闘いに拍車が掛かることも示唆される。

 漱石の視点も絡めた骨太な戯曲に、高橋は丁寧な演出で応えた。まず舞台の両端には “ もの ” が氾濫。斎藤家の居間を彩るテーブルや椅子もあれば、ただ置かれているだけの冷蔵庫や洗濯機、テレビも。中でも気になったのは電話だ。懐かしい黒電話から携帯電話まで時代時代の電話機は、客席からほぼ見えないのだが、作品全体を密やかに支えていた。今やスマートフォンに至った電話こそ、SNS全盛の現代において個と個のつながりに直結する象徴だからだ。

 幕間、ボブ・ディランの名曲が流れる。『風に吹かれて』『天国への扉』『ライク・ア・ローリング・ストーン』 …… 。平の世代にとって神のような存在がディランだ。彼らの人生に寄り添うディランの音楽は、何かに抗い、行動することを鼓舞していたのではないか。

 序幕を振り返れば、父・信一が「前だけを見て進む時期」と言い、その様子を生まれる前の平や多佳子たちが見つめていた。しかし、すぐに彼らは消えてしまう。平たちは劇の当事者になるのだ。先の戦争を傍観して良い日本人などいない。そして平成終幕の今、日本人は自分たちで戦争を総括できる最後のチャンスを迎えているのかもしれない。現代日本の夜明けたる一日から始まった『かのような私』 はずっと、立ち止まり振り返る勇気を叫んでいた気がしてならない。「アトリエの会」本来の意欲的、実験的な精神は、ウェルメイドな劇世界の中でも静かに燃えていた。