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第八十六回 新型コロナウイルスが「パンドラの箱」を開けた。

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

芸能人の自殺が頻発している。7月から9月の3か月間で、著名な方だけでも4人だ。これを多いか平時と変わらないと見るかは意見の分かれるところだが、私は見方によっては「異常値」だと思う。マスコミはその原因を記事にしているが、それはこの場合にはまったく意味のない詮索でしかない。それが長い間にわたって抱え込み思い悩んできた末のことなのか、衝動的で発作的であったことなのかも、ほとんど「ことの本質」には辿り着けないと思っている。「孤立と孤独」、それが答えであり、それを生んだのが「コロナ禍でのソーシャルディスタンスによる行動制限」に端を発している、つまり春先に盛んに喧伝された「新しい生活様式」というのが、私の見立てである。

「家庭内でもマスクを外して会話をするとリスクは高まる。このような環境を避けることが重要」との国立国際医療研究センター病院・国際感染症センター長で、東京都の新型コロナ感染症対策審議会委員の中心人物である大曲貴夫氏が委員会で発言したと報道されたが、私は何とも形容しがたい違和感と激しい憤りを持った。「感染拡大」と「つながりの果実」がトレードオフにあるのは承知したうえでも、感染者のいない家庭内に土足でずかずかと踏み入るような発言は到底承服できない。たとえ感染症の専門家であっても、規というものがある。それはあくまでも家族内での自発的な決め事に委ねるべきことであり、たとえ権力機構に対策を委ねられているとはいえ、「つながり=家族の絆」に割って入ることは倫理的にも許されない。それが許されるのなら、そもそも社会は成り立たない。事程左様に、コロナ禍は人間の健全な生活に結果的にも確信犯的にも厳しく制限を加えることになっている。「自粛警察」や「マスク警察」は、この「空気」が庶民レベルに出現した最たるものである。ご当人は「正義」を振りかざしているつもりであろうが、「正義」とか「真実」は、自分だけで思い込んでいるだけでは「正義」にも「真実」にもならない。誰かと、或いは社会と共有しなければ成立しないのだ。ミヒャエル・エンデの『モモ』の教訓である。

私は新型コロナウイルスが、私たちが長い時間を経て僅かずつ変化して、「おかしい」と思わなくなって違和感を喪失して「社会の慣性」と思い込まされてしまった政治や経済や、それによって造られた社会の仕組みを白日の下に一挙に曝け出したと思っている。たとえば、マスクやエアコンの部品等の多くの製品を中国や東南アジアの安い労働力に依存してきた結果の、コロナ禍でのサプライチェーンの機能不全。賃金のより安い国で生産してより「儲け」を出そうとするグローバリズムは、「結局のところ、外国資本が発展途上地域の開発というより、搾取を目的に用いられるということに尽きる」という新植民地主義の定義と多くの点で重なり合う。コロナ禍で「生産拠点の国内回帰」が言われ始めているものの、低賃金の後進国の労働者と国内の労働者を競わせて国内の格差を生み出した雇用制度は取り返しのつかない地点に来てしまっている。為替市場の円安への大きな振れを背景にしたインバウンド・バブルによって形成された第三次産業構造の激変は、かつて消費を牽引した分厚い中間層の象徴であり、ステータスでもあった百貨店の没落を結果した。むろんこれは状況の変化を見誤った経営の失敗であるとともに、遠因としては「政治の失敗」である。国民の健康を守る最前線であり、最終機関でもある保健所の大幅な整理統合と人員の削減、オールジャパンでコロナ禍に立ち向かっているとは到底言えない省庁の縦割り、「競い合い、奪い合う社会の勝ち組」になることを至上の価値としている「新自由主義経済思想」によって、弱い立場の人間ほどコロナによる激しい環境の変化の打撃を被っている現実、フランスの歴史人口学者のエマニュエル・ トッドが言うように、新型コロナは突然「新しい現実」を私たちに突き付けたのではなく、すでに数十年にわたって起こっていた「降り積もった現実」がダム決壊のごとく一挙に私たちの頭上に津波のように降りかかっているのだ。その意味で、私は新型コロナウイルスが、誤った資本主義経済による政治と経済と、それによって形作られた社会という「パンドラの箱」を開けたと思っている。

冒頭のコロナ禍の行動制限と制約が自殺を誘発させている現象の根本にある「孤立と孤独」も、90年代から劇場ホールの設置のたびに、繰り返し「コミュニティの再生」と唱えられていたように、「つながりの希薄化」が時代認識として底流にあり、コミュニティが機能しないかぎり社会の劣化は進行して、社会そのものが崩壊してしまうという危機感は、すでに数十年前から私たちの社会に通低音として流れていたのだ。コミュニティとは蜘蛛の糸のように多様な連携する「つながり」のことだ。そもそも「自立」の反意語は「依存」ではない。社会的動物である人間は依存できる相手がいるからこそ、自立できる。「依存」の先に自立は存在する。信頼できる他者との出会いで、踏ん張る力が引き出される。手を差し伸べてくれる人がいるからこそ、困難を乗り越えるレジリエンスという強さが磨かれる。悲しみや困難を分かち合ってくれる他者がいるからこそ、未来に光りが灯る。3万年前にホモ・サピエンス(人類)が生き残って、何故ネアンデルタール人が同化を含めて滅びて絶滅の途をたどったのか。それは獲物を狩猟するときに人類は多様なつながりを構成要素とする「社会」を形成していたのに対して、ネアンデルタール人は「家族」という小さな単位のコミュニティしか形成する能力がなかったから、という説がある。コミュニティは、依存できる関係が多様に、しかも幾重にもあり、それを決して恥じることのない、「強み」とする互助(助け合い・支えあう)の社会の在り方であり、したがって「見えない社会保障」と言うべき機能を持っているものである。その機能の減衰は、「孤立と孤独」の蔓延に拍車をかけること必然と言える。

そもそも「つながりの減衰」という社会課題を抱え込んでいるところをコロナ禍が襲ったのである。そして「三密」がタブー視され、同調社会が相互監視の束縛と行動の制限の相乗化を生み、冒頭のような家族の「つながり」でさえネガティブに捉える言辞が市民権を持ってしまう。3月段階で盛んに専門家会議から発せられた「新しい生活様式」がこれだとしたら、私たちには息苦しい未来しかない。人間が生き抜いていくうえで必要な「つながり」が、生きにくさや重苦しい悩みを解決することはない。しかし、それでも、それらを「安心できる他者」に吐き出すことで、負籠の重さを軽くすることは絶対にある。震災時や災害時に「傾聴ボランティア」が果たすメンタルケアの役割は決して小さくない。それが出来れば、自殺しなくても済む人々はかなりの数はいると確信している。これは震災を体験している自分の経験からも確かなことである。

デジタル庁の設置も不妊治療の保険適用も良いが、あらゆる国民にとって、より根源的な課題解決となる「誤った修正資本主義=新自由主義経済」の軌道修正と格差社会の諸問題の解決こそを政治家たちと経済人は「国家観」として打ち出してほしいと、私は切に願っている。

「小さな政府論」に基づく「規制緩和」は、新自由主義の「市場原理主義」に依拠する政治経済思想であり、その方向性のすべてを「善」とするが、15人の大学生の命を奪った「軽井沢スキーバス転落事故」は、「規制緩和」によって引き起こされたことを忘れてはならない。経済至上主義(GDP至上主義)と経済合理性と経済効率性ばかりに囚われ、「競い合い、奪い合い」を是認して推奨したために喪失した「つながり」。その回復という価値変革、利他的な行動様式の普遍化こそ、社会構造の改革が、コロナ禍で開けてしまった「パンドラの箱」の閉じ方なのではないか。この機を逃しては、日本社会は奈落にまっしぐらに落ちていく未来しかない。文化芸術と劇場音楽堂等の「社会包摂機能」とは、「つながりの回復」と道を逸れてしまった社会に人間の温もりを取り戻す構造改革のための「小さな一歩」なのである。