第六章 「共有地」としての地域劇場は何処にあるのか。

2011年1月27日

公共性は、同一性によってではなく相互性によって媒介される「共同性」である。各人それぞれに現われるものが言葉において互いに交換されるかぎりで、この「共同性」(共通世界のリアリティ)は人びとの間に形成されるのであり、パースペクティヴの交換、意見の交換を離れたところに共同性が存在するわけではない。

(斎藤純一『公共性』)

「公共劇場とは何か」と考える。舞台芸術を鑑賞する「場」と考えるのが日本国民の一般的な見方であろう。専門的な職能の分化が起きた近代においては、そうまず考えるのが一般的だ。少なくとも日本の都市型劇場は、芸術創造の専門性を外部化して、おおむね鑑賞を専らする施設(ハコ)として発展してきたと言える。例外的には西武劇場(現パルコ劇場)のように舞台創造機能をともなう劇場もあったが、それはあくまでも例外であって、ほとんどは「鑑賞拠点」(ハコ)としてのみ機能してきたと言ってよいだろう。別の言い方をすれば「消費拠点」としての劇場である。一方で、「生産拠点」としての芸術創造団体は、別途に独自の発展を遂げてきた。芸術団体みずからがその両拠点を融合しようとする試みとして、自分たちの「劇場」を持とうとする動きがなかったわけではない。俳優座劇場、前進座劇場、三百人劇場はその代表的な事例であり、70代から80年代には小劇場演劇の劇団も、それぞれにアトリエを劇場化していく動きがあった。それらの小劇団の動きは、既成の劇場の制約から逃れるという意味を持ったものでもあったことは疑いない。みずからの表現の様式によって、テントという選択をした劇団あったし、地下劇場、倉庫劇場という選択肢もあった。

それらのアトリエ=創造集団による小劇場がほどなく潰えた背景には、三つの理由があるだろう。列挙すると、【1】劇作と演出を兼ねる一人の主宰者の求心力によって劇団が運営されていたため、創造性を代表する負担のみならず、経済的な過負担が主宰者に圧し掛かった。【2】年におよそ2回の公演とそれにともなう稽古、若干の貸稽古場利用ではアトリエ維持の経済的な負担が過重であった。それとも関連するが、【3】逃れようのない負担との日々の対応のために鑑賞者開発の仕組みを開発できず、手売りを専らする劇団経済から一歩も抜け出せなかった。

むろん、彼らが自分たちの専有できる空間を持ったことでメリットは確実にあった。時間的には自由奔放な使い方が許された。私が仙台で実際に体験した事例だが、劇団員は夕方に勤め先からアトリエに直行し、子どもをアトリエで寝かし付けてそのまま明け方まで稽古をしている、といった「奔放さ」が、自分たちのアトリエを持つことで許された。舞台装置を自分たちのアトリエで「叩く」という「小劇場経済」が成立していたことも、大きなメリットであっただろう。また、本番と同じサイズの舞台で長期間稽古をできたのは、演出的にも演技的にもメリットであった。しかし、劇団行政と劇場行政の双方が一人の主宰者の負担となることが、過重な経済的・精神的プレッシャーであったことは想像に難くない。「鑑賞者開発」の仕組み作りにまでは踏み込む余裕がなかった、というのが実情だっただろう。アーツマネジメントとアーツマーケティングの「不在」である。劇団制作者は存在したが、中堅俳優の兼務か、入団したての若い劇団員が担当した。中長期的な視点にたって、アトリエ=劇場を発展させる人材も能力は望むべくもなかったと言わざるを得ない。彼らにとってアトリエ=劇場は、自分たちの「芸術的野心を発露する場」としてのみ機能したのである。それはそれで「いさぎよい」劇場の形態であった。80年代初頭からは、シアターグリーン、ザ・スズナリ、旧真空艦などの小劇場演劇に見合ったサイズの貸劇場が現われて、「アトリエを持つ」という意味のひとつは次第に薄れていくことになる。

ここで着目しなければならないのは、アトリエ=劇場と劇団が一体化したことにより一定の成果はあったものの、やはり依然として「上演施設=芸術的野心を発表する場」からは一歩も出ていなかった点である。「劇場の公共性」とは何か、「公共的な劇場」とは何か、を考えていく上で、この点が重要となる。とりわけて、80年代から90年代にかけて造られた多くの公立の劇場・ホールは、この点を何ら検証せず、従来からの「消費拠点」であるハコとしての機能のみの在り方を踏襲したに過ぎなかった。それゆえに、ほぼ20年経過して、あらためて「劇場・ホールの公共性」という問題がクローズアップされてきているのだ。公共性を持つために、「上演施設」以外の機能が何なのかがいま探られているのではないかと、私は思っている。

断っておかなければならないことがある。すべての芸術一般が「公共性」を持っていることを自明とする主張である。舞台芸術(あるいは芸術全般)それ自体に、先験的に「公共性」があるという、主に舞台芸術の担い手側からの独断的な決め付けがある。其処に止まらずに、それを上演する施設もまた、「公共性」を帯びるというとんでもない飛躍を平然と言う者さえいる。舞台芸術の側の人間というよりも、研究者に多くみられる「空中闊歩」的な飛躍的な主張である。没論理的、と言っても良い。舞台芸術や芸術がそれ自体「公共性」を帯びるのは、その作品が高い評価を受けて「公共の財産」と認知された場合であり、『公共劇場の10年』の中で松井憲太郎氏の言う「レパートリー化」する場合においてのみである。ここで言う「レパートリー化」は、国民や住民の誇れる公共的資産になる、という意味である。

しかし、そういう「レパートリー化」が起きないのも、日本に特殊な舞台芸術事情である。とりわけ日本の演劇界は、優れた舞台が国民の共有財産化せずに、ほとんど消費型であり、新作至上主義なのである。日本で有数の劇作家・演出家に、再演をして全国公演をして拡大再生産をするカンパニーの経済的循環を勧めたところ、「再演はいや」と一言で会話は途切れてしまったことがある。経済性は別にしても、充分に共有財産化する質を持っている演劇作家であるだけに、日本の舞台芸術の「アマチュア性」を象徴する出来事として記憶している。舞台芸術が、どのようなものでも先験的に公共性を持つとは思わないが、優れた舞台芸術が国民にとっての共有財産化(公共財)する仕組みはやはり必要なのではないか。可児市文化創造センターalaのアーラ・コレクションシリーズは、過去の優れた芸術的成果を評価して、消費型の日本の演劇事情へのアンチテーゼの試みである。それはともかく、芸術家の生産物である芸術作品それ自体に「公共性」がある、という論に、私は与しない。芸術作品が「公共性」を持つのは、再び言うが、それが「共有財産化=公共財化」していると社会的認知を受けたときにおいてのみである。

ならぱ、そのような「共有財産化」された舞台芸術を上演する、あるいはそのような舞台芸術を生み出すから「公共劇場」なのか。断じて、そうではあるまい。舞台芸術と劇場は峻別して論じないと、「公共性」の論議に混乱が生じてしまう。「舞台芸術」と「劇場」を同一視して論じてしまうのは、論者みずからが芸術団体と劇場が別の発展経路をたどってきた日本の特殊性に絡めとられてしまっていると言える。「公共劇場」を論じる際にどうしても前提としなければならないのは、舞台と客席のみを「劇場」の機能として論じるのか、それとも舞台と客席を含めた上演機能を「劇場」全体の機能の一部と論じるのか、である。私は、上演鑑賞施設である劇場・ホールは建物全体の一部であり、全体ではないという立場をとる。したがって、創造機能も鑑賞機能も、劇場の社会的機能の「一部」を構成する、という考えだ。

創造的機能を持っている劇場に関しての余談になるが、劇場にはカンパニーが専属していることが世界的なスタンダードである、という誤った主張を唱える者がいる。当然の理と唱える当事者ばかりではなく、それを検証せずに付和雷同してカンパニーを専属させている公立劇場・ホールこそが「最上」であると信じ切っている者が劇場関係者ばかりでなく、研究者にもいる。専属カンパニーを持つか、プロデュース型を選択するかは、原則的にはレパートリー・システムを採るのか否かの問題と、調和のとれたアンサンブルにプライオリティを置くか否か、の問題にかかってくる。併せて考慮すべきは、経済合理性であり、公的な資金で設立・運営されている公立の劇場・ホールにおいては、当該住民に対する「多様性の認識と選択の自由」を担保できるか否か、でもある。経済合理性の観点からみれば、レパートリー制を採用できるだけの充分な市場があれば専属カンパニーを持つことの正当性はある。それがないのなら、専属カンパニーを付属させることは財政負担が大き過ぎる。

かつてローレンス・オリビエが専属契約していた英国の代表的なレパートリー・シアターであり、「The Rep」と称されたバーミンガム・レパートリーシアターでも、専属カンパニーだけでレパートリー・システムをまわすことはしなくなっている。経済合理性とアンサンブルの多様性を重視した結果である。米国でも、オレゴン・シェイクスピア・フェスティバル、アリゾナ・シェイクスピア・フェスティバルなどは契約俳優によるカンパニーを持って、二、三日おきに上演演目を変えるレパートリー制と3月から11月のシーズン制を保持しているが、大勢としてはカンパニーを抱えてレパートリー制を採用することの経済合理性と劇場経営が両立しなくなっていると言える。公立の劇場・ホールであるならば、カンパニーのアンサンブルを第一に考えたとしても、「多様性の認識と選択の自由」を放棄してもカンパニーを付属させることに住民の合意を得なければならないだろう。民間の劇場・ホールならば何ら問題とならなくとも、公立であることで、住民に保障しなければならない「多様性の認識と選択の自由」というハードルは必ずクリアしなければ、「芸術的野心」の達成に専らとする施設となり独善的になることからは免れない。

さて、公立の劇場・ホールが持つべき「公共性」とは何なのか。舞台芸術や芸術一般の鑑賞機会に資するだけで、舞台芸術があらかじめ「公共性」を持っているわけではないとしたら「上演施設」、「鑑賞施設」としての機能以外に、何をもって「公共劇場」とするのか。その論旨に踏み込む前に、「公共性」について考察しておく必要があるだろう。なぜなら、たとえばナチス・ドイツ下での「公共性」も、日本の戦前戦中の「公共性」も、実は私が論じようとしている「公共性」と語彙としては同一であり、その意味で「公共性」は非常に危うい概念であるからだ。ナチス・ドイツや日本の大政翼賛会における「公共性」が「政治的公共性」であるのは言うまでもない。したがって、「公共性」という語彙はきわめて慎重に使わなければならない。

「公共劇場」という場合、「Public=公衆のための」という意味で、むろんそれは「市民的公共性」でなければならない。私たちは「公共性」という概念を、絶対正義のように思い込んでいるが、必ずしもそうではないという地点から「公共劇場」の在り方を考えなければ、歴史が証し立てるように、劇場・ホールが時の権力のプロパガンダ機関として利用されてしまう危うさを持っているのだ。最近出版された『公共劇場の10年』(伊藤裕夫・松井憲太郎・小林真理 編著)の中で、伊藤裕夫氏が「公共性」を「すべての人びとに関係する共通のものという共同体的原理」としているのは、それが「政治的公共性」を含まないという条件付きではあるが、間違いのないところと言える。私がいう「公共性」とは、ジャン・ジャック・ルソーの「正義」や「共通利益」に近く、ジョン・ロールズに従えば、基本的諸自由を平等に配分する『正義論』の「第一原理」(平等な自由の原理)を前提として、「社会的または経済的な不平等を機会の均等を図る」とする「第二原理」(機会均等の原理)と、「社会の中でもっとも不遇な人々の生活を改善するかたちで配慮せれなければならない」という「第三原理」(格差原理)の統合を指す概念である。

ひるがえって、経済学の観点から見て、劇場・ホールの供給するサービスはどのようなものなのだろうか。一般的には、舞台芸術は、装置型産業の特性からは、「競合性」も「排除性」も併せ持っており純粋公共財とは言えない。ただし、公立の劇場・ホールでは、価格政策として実施に関わる費用を積み上げて、さらに利益を上乗せする「費用重視型」を採用しているところはほとんどない。当該地域の「慣習価格型」の価格政策をとっているところが多い。客席稼働率が100%でも利益の出ない事業であることもある。その差額は公的資金で補填している。となると、純粋公共財ではないが、一概に「公共財」であることを否定はできない。「準公共財」とする向きもあるが、私は、「社会的利益の再配分」を政策的根拠とした「社会的価値財」という概念を使いたい。

公立劇場・ホールの論議でよく問題視される「貸館」もまた、受益者負担は一般的には15%から20%前後であり、不足分は公的資金で補填されている。したがって、貸館・貸室の時間と空間の提供サービスも「社会的価値財」の提供と言える。「貸館」は地方自治法第244条を根拠として、抽選によって文化的活動ではなく企業活動やカラオケの利用となってしまうことがある、という一部演劇人の論議は一昔前の公立の劇場・ホールの話で、まことに紋切り型の発言と言わざるを得ない。今日の劇場現場を知らない空論に過ぎない。閑話休題。ここで注意しなければならないのは、対価のない劇場・ホールの、たとえばホワイエ空間利用をどう位置づけるかである。これには「非競合性」と「非排除性」が濃厚にあることから「公共財」であるという見方が成立する。これは前述した「劇場・ホール(上演施設・鑑賞施設)は建物全体の一部であり、全体ではないという私の立場の根拠となる。したがって、創造機能も鑑賞機能も、劇場の社会的機能の一部を構成する、という考えとも合致する。

さらに、各種教育機関、高齢者・障害者福祉施設、医療機関などへの、地域福祉を目的としたアウトリーチ事業は、地域社会の生活環境への強い影響力をもっており、劇場・ホールに足を運ばない人々にも地域への誇りや安全・安心という便益が及ぶ「外部経済性」が発生する。またアクセスが限定的ではあるが「非競合性」、「非排除性」もあることから、厳密に言えば「クラブ財」に近いが、「公共財」の範疇に入ると考える。たとえば、医療機関でのアウトリーチ事業は、多くの外来の来院者であるフリーライダー(ただ乗り)によっても鑑賞されている。

こう考えてくると、地域住民にとっての「共有地たる公共劇場」の輪郭のおおよそが描かれてくるのではないだろうか。

いくつかの要件を列挙してみよう。

【1】国民・市民の共有財産となる舞台芸術作品を創造する機能を持っている。(芸術的評価)

【2】地域住民の誇りとなる舞台作品を創造する機能を持っている。(社会的評価)

【3】市民が当該地域に住む誇りを持ち、当該自治体のブランド力を高度化する。(社会的・公益的評価)

【4】当該地域と周辺地域への経済波及効果が見込まれる。(経済的評価)

【5】すべての市民の文化権が保障される。(社会的・公益的評価)

【6】住民の文化環境及び生活環境が改善、または進化する。(社会的・公益的・福祉的評価)

【7】誰もが、何時でもくつろいだ気分にひたれる時空に満たされている。(公益的・福祉的評価)

これらは誰かが享受したから、ほかの誰かが排除されるということではない。そして、これらはすべて劇場・ホール固有の価値ではなく、誰かと誰か、あるいは誰かと何かのあいだに成立する「場」としての劇場・ホールの「価値」である。この「価値」のクォリティをもって、「共有地としての公共劇場」となるのである。専属カンパニーの保有は、その「価値」の実現ための手段でなければならない。公立施設の場合、それは決して目的ではない。劇場・ホールがカンパニーの専属化を「住民の福祉増進」のために手段として選択するか否かなのである。「専属カンパニーを持つことが劇場・ホールの最終到達点」かのような発言、およびミスリードは排除しなければならない。検討すべきは国民・市民にとっての、「共有地としての価値」を実現できるか否かにかかっている。「共有地としての地域劇場」とは、「市民的公共性に依拠する価値」を実現しているか否かなのである。「公共劇場」とは、そのような劇場・ホールのことであり、日本においては、芸術的高みのみを目指す公立劇場・ホールはあっても、厳密な要件を満たしている「公共劇場」はいまだに成立していない。「芸術的価値」のみの劇場・ホールは、「公共劇場」としては片肺飛行でしかない。

「劇場法(仮称)」を検討する文化庁の「劇場・音楽堂の制度的な在り方に関する検討会」を傍聴してきた。劇場・ホールの「公共性」の現在を知るうえで必要と思ったからだ。当日は、各種関係団体・個人へのヒヤリングであった。「水鳥は 悲しからずや 泥の河」を思い出した。私が聞きたかったのは専門家の自己利害ではなく、国民にとっての「劇場・音楽堂」は何なのか、何を果たしてきたのか、将来的に何を果たすべきなのか、の言葉であったが、そのような発言はないに等しかった。概ね、自己の団体・個人の、国民から遊離した自己利害のみが語られるヒヤリングであった。このままでは、「劇場・音楽堂」はますます国民生活から遊離、いや乖離していく。「劇場法(仮称)」が、「劇場・音楽堂」の救済法であっても良いが、その大前提には、「劇場・音楽堂」が国民生活にしっかり根を下していなければならない。その大前提を、私は法律「前文」で、理念として掲げるべきであるとかねてから主張してきた。「前文」のある法律は基本法が多い、との指摘を受けるが、「憲法」をはじめ、「ユネスコ活動に関する法律」、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」など、国民の意識や責務や生活信条に働きかけようとする法律には、その成立根拠たる法理念を「前文」として掲げているものが少なくない。「劇場・音楽堂」の当事者たる業界関係者は、まさに「泥の河」のなかにある日本の「劇場・音楽堂」の、もっとも重要な存立環境である国民の意識に向けて、その今日的な必要性とその社会的役割を明示・明言すべきである。

それなしに「劇場法(仮称)」を成立しようとするのは、無理筋であり、もしその立法措置が公的資金の配分の根拠に関わるのだとすれば、劇場・ホールの今日的・社会公共的役割に口をつむるのは国民への裏切り行為でもある。その前提を無視して(あるいは無知であるとしても)、自己利害のみを語るのは、みずからに刃を向けていることに止まらず、国民に銃口を向けているに等しい。「劇場・音楽堂」の社会的・福祉的・公共的使命に、その提供物の最終受益者である国民のコンセンサスを得ることが、最初に私たちが手を付けなければならないことではないのか。そのことに意識が行かないで、ひたすら自己利害を語るのは犯罪的でさえある。「劇場法(仮称)」を考える際には、「共有地としての劇場=公共劇場」とは何か、「公共的である」とは何なのか、関係団体と関係者は、いま一度、その原点に立ち還って考え直さなければならない。

【次回】第七章 High-touch Marketingが「創客」を進める。