第三章 ベス・チャトーの「奇跡の庭」のように。

2010年9月1日

「マーケティングとは、複数の当事者が相互に関わり合い、対話を通じて新しい価値を作り出し、ともに目的を達成し、かつ相互の変化と再組織を推進していく、継続的・螺旋状のプロセスをいう」

(井関利明 千葉商科大学教授) 

「多くの場合、人はモノを見せないと、自分がそれを欲しいかどうかすら分からない」

(アップル社創業者スティーブ・ジョブス)

チケット購入は「良いものを上演します」という《誓約》を買っている

「地域に訊く」(listen to region=地域に耳を傾ける)と、私たちは自主事業の演目を検討する時やサービスの組み立てを設計するときに簡単に口にする。その姿勢はないよりはましなのだが、しかし、これほど難しいことはない。数値化された当該地域の基準があるわけではないし、あったとしても信頼に足りるかどうかははなはだ疑わしい。「市場調査」(マーケティング・リサーチ)などは、文化芸術には馴染まないばかりか、マス・マーケティングの手法であって文化芸術に対する顧客感度を測るものとは到底言えない。せいぜい最大公約数的な「建て前」のようなものが見えてくるだけである。それほど地域のニーズは簡単に割り切れるものではない。

あわせて、スティーブ・ジョブスの言うように、欲しいものが分からないという現代人の「欲望の浮遊性」があり、さらに舞台芸術は、舞台と向きあって初めて品質が確認できるという「認識の困難性」を大きな特質として持っている。さらには「無形性」や「一回性」という特質まである。舞台芸術のチケット購入は、「良いものを上演します」という主催者の《誓約》を買っているにすぎないのだ。以上のように、文化芸術、とりわけ舞台芸術のマーケティングには、二重三重の桎梏がある。したがって、それを探り当てるために前世紀の遺物である「市場調査」という、形のあるものを探って製品化するマス・マーケティングの手法を使うことは文化芸術には百害あって一利もない。自明である。

アンケートから「物語」とその背景を読み取る

まず私たちにできることは、「充分な意図」を持って設計された顧客アンケートに徹底的に目を通して、大掴みな傾向を抽出することである。「良かった」や「良くない」を計数的に集計するだけでは、何の手立てにも行き当たらないのは言うまでもない。アンケートを集計するのは、単なる「自己満足」と「自己完結」のためにだけのみ有効ではある。しかし、「地域住民の消費者行動の傾向」や、「チケット価格と鑑賞者感度との相関性」や、「舞台鑑賞前後の消費行動」は決して現れてはこない。これらを、アンケート設計にしたがってまず大掴みに把握することが出発点となる。ともかくも、劇場に足を運ぶという「コスト」を支払ってくれた人たちの、チケット購入の意思決定から鑑賞後の消費行動までを一連の流れとして「読み取る」ことが必要なのである。その意味で、アンケートは一人の人間の感性と生活感度と生き方の「物語」なのである。そして、その「物語」の背景からは、アーラの場合で言えば、可児というまちの「特有な価値観」や「地理的特徴」や「文化的感度」や「最大公約数的な生活信条」や「家計的特徴」などを垣間見ることができる。これが大掴みな「可児」の、いわばラフ・スケッチとなる。

さらには、行政が「市民意識調査」をやっているのなら、それを読み込んで、スケッチの精度をさらに磨きあげる必要がある。可児市役所は、2年に1回、「市民意識調査」を実施している。このなかには、「生涯学習・文化創造センターについて」という設問がある。これは非常にありがたい。今後、可児市文化創造センターで力を入れて実施してほしいことについて、「学校や福祉施設、医療施設など、文化以外の分野の機会との連携を強化し、子どもや高齢者、障害のある方など、芸術と触れる機会の少ない人を対象にした活動を充実させてほしい」の割合が第3位で13.6%と高い。可児市民にかなり特徴的な数字である。次いで、「市民参加によるまちづくり活動の場として充実してほしい」(12.3%)、「情報発信や市民の憩いの場・相互交流の場として充実してほしい」(11.9%)の順となっている。これらの要望のトータルが37.8%にものぼり、この町の人々の心豊かな生活へ欲求度の高さを裏付けている。ちなみに、「国内外の質の高い公演を積極的に紹介してほしい」が19.4%と最も高く、次いで、「有名な俳優や歌手などが出演する公演を企画してほしい」(18.4%)となっている。「様々な事業を展開しながら、市の魅力を全国に広めてほしい」(12.8%)なども、地政学的に不利な位置にある可児市に特徴的な市民要望ではないだろうか。

これらと合わせて、人口動態をはじめとする可児市の全体像を経年的に描くことに専心する。それらの作業を丹念に進める中から、「可児市民」が浮かび上がってくる。これに、私自身が生活をする中で感じている他の町との違い、特性を加味して、文化芸術や劇場に対する「市民感度」や「教育、福祉、まちづくりなどへの市民のニーズ」の輪郭をできるかぎり鮮明に描くわけだ。『アーラまち元気プロジェクト』(27事業区分267回 09年度実績 レポート・ウェブからダウンロード可)も、それらの作業に裏打ちされて組み立てられたコミュニティ・プログラムの集合である。

事業選定を例にすると、たとえば、マキノノゾミという稀代のストーリーテラーがいる。作品に出来不出来の波のほとんどない「アベレージ・ヒッター」である。また、悪人が登場しないヒューマンな作風、コメディタッチなど、可児市民の心に届く作家であるとずっと思っていた。彼の代表作のひとつである『東京原子核クラブ』(作マキノノゾミ 演出宮田慶子)を、私が初演を観ていたこともあって、可児市民にとって受け入れやすい舞台であり、また「きずな」という私の設定した劇場の経営テーマにマッチするものとして09年の春に俳優座劇場から買って上演した。『東京原子核クラブ』というタイトルが、ただでさえ「認識の困難性」のある舞台芸術で、「どんな芝居なの?」と思わせる妙な感じのするものであり、より「認識の困難性」を大きく発生させたことは疑いない。そのうえ、「マキノノゾミって、誰?」という地域特有のハンデも重なって、2ステージの客席稼働率は40%を割り込むという散々な成績であった。が、しかし、私のもくろみはほとんど的中した。アンケートの回収率は驚くほどに高く、評価もきわめて好意的なものであった。無条件に大絶賛といえるものが多かった。観客は少なくはあっても、舞台に立ち合った可児市民の心を激しく揺さぶったことは明々白々であった。客席稼働率が40%を割っていながら、観客の評価の高さは特筆すべきものがある。空席の目立つ客席という鑑賞環境は、どのような要素よりも舞台成果と顧客感度を低減するのだから。

『東京原子核クラブ』が春の上演だったこともあり、私は翌年度事業の選定時期であるその年の夏、10年度の事業計画の演劇部門に、マキノノゾミ作品を並べることにした。私の描いている可児市民の価値観や生活信条や文化的感度にこれほどマッチする作家はそうはいない、と確信を持っている。青年座が『赤シャツ』(作マキノノゾミ 演出宮田慶子)の旅に出るという情報を得ていたので、それと文学座との地域拠点契約の公演に『殿様と私』(作マキノノゾミ 演出西川信廣)を選定した。ともに私は初演に立ち合っている。間違いはないという確信があった。この他の演劇部門の事業は、アーラで自主製作するアーラコレクションシリーズ『精霊流し』と、『シリーズ恋文 Vol.1』の2本であり、「演劇まるかじり」というパッケージ・チケット4本の半数がマキノノゾミ作品である。

果たして『赤シャツ』は48.1%の客席稼働率であった。評判は上々であった。帰り際に興奮して私に話しかけてくるお客さまも数人いた。マキノ氏にも来ていただいたアフター・トークは、「マキノノゾミって、誰?」を解消させて余りある、温かく、楽しいものとなった。文学座の『殿様と私』は11月初旬に2ステージ公演されるが、これはすでにソールド・アウトとなっていて、補助席対応を余儀なくされている。再来年度あたりには、すべての演劇公演をマキノノゾミにしようとも考えている。「マキノノゾミ・イヤー」である。可児市という小さな町だからできる思い切った企画である。昨年度に上演された『ローマの休日』、紀伊国屋演劇賞や鶴屋南北賞を受賞し、再演を重ねて彼の傑作の一つと思っている『高き彼物』という二本を何とか招聘して、さらにマキノ氏に「アーラコレクションシリーズ」と「シリーズ恋文」という自主製作公演の演出をしてもらえれば、「マキノノゾミ」を可児市民に広く認知してもらうことができるだろうし、彼の作風によって、劇場テーマである「きずな」というアーラからのメッセージを可児市民へ確実に届けられると考えている。

地域の特性をすべて受け入れた「奇跡の庭」

この、いささか地域劇場では「大胆すぎる企画」をはじめとして、アーラの事業企画、経営企画、マーケティング企画は、英国の名ガ―ディナーで、大英勲章の受勲者でもあるベス・チャトーのガーディニング手法と驚くほどの共通点がある。ベスが造っている広大な庭園は、英国南西部のエセックス州にある。この地方は英国でも過酷な土地として広く知られており、英国で一番雨量が少なくて乾燥し、夏は30度を超え、冬には零下にもなり、しかも、この地方の土壌は砂利を含んで痩せている。およそ植物を育てるには向いていない環境である。半年以上の干ばつに見舞われることもあるという。そんな時にベスは、大量の水を散布する方法はとらずに、消費する水の量を減らすために草木の葉や茎を大胆に削いで、枝を落とす。自然の生きる力に厳しい気候との戦いをゆだねるのである。そんな劣悪な条件の土地で、ベス・チャトーは「奇跡の庭」は、厳冬にあっても命のあふれる素晴らしい庭園を作り上げている。

彼女の手法は、干ばつの折の対処にみるように「エセックスに訊く」という、きわめて当り前で、しかもシンプルあるが、ガ―ディナーの野心からみれば非常に「難しい」姿勢である。ベスにもガ―ディナーとして自分の作品である庭園に植えたい植物はある。そのような時、彼女は、ともかくも過酷な気候と痩せた土地にその植物を移植してみる。それが根付かずに枯れてしまっても、もう一度だけ植えてみて、それでも根付かない場合には「エセックスからの拒絶」をまるごと受け入れるのである。日陰には、日陰で生命を咲かせることのできる植物を植える。真冬でも緑が生い茂る。日照りが続いても豊かな緑は生命を謳歌している。できるかぎり人間の手を加えないで、自然に耳を傾けて、自然の生きる力を引き出すことでベス・チャトーの「奇跡の庭」は造られている。エセックスという地域の特性をすべて受け入れたうえで、自身のガ―ディナーとしての野心と折り合いをつけた「奇跡の庭」は、訪れる多くの人々の心を癒しているのである。

「人間」をど真ん中に据えて、文化芸術の価値交換を考える

むろん、もう一方の英国を代表するガ―ディナーであるクリストファー・ロイドのように、植物の葉を型にはめたりして、きわめて人工的な庭園造りをして評価されている手法もある。だが私は、「ベス・チャトー」のように、地域社会に耳を傾け、人々の思いに寄り添い、人々の伸びやかな心の力を引き出すように事業やサービスの仕組みを設計することの方が、地域劇場には合っていると思う。これには「我慢強い」姿勢が求められる。なぜなら啓蒙的に事業を組み立てるよりも「変化」のスピードが極端に遅いからだ。啓蒙的な劇場経営の進め方はきわめて突出した少数の感性を育むが、大きな広がりは期待できない。一方、辛抱づよく「地域に訊く」姿勢を続けて育まれる住民のライフスタイルの「変化」は、穏やかにではあるが、しっかりと根付いたものとなる。広いすそ野をかたちづくる。より多くの人々にとっての「変化」となることはアーラの実績が証明している。

前者も後者も、ともに成果は「変革された人間」であるが、「組織の存在理由は、組織の外の世界への貢献にある」というドラッカーの言葉に従って吟味すれば、地域劇場はより多くの人々の生活に「変化」をもたらすという意味で、啓蒙的であるよりは顧客志向であるべきと考える。啓蒙的であるということは、製品志向であり、芸術的成果にプライオリティを置く考え方なのに対して、顧客志向は、その芸術的成果を受け取った顧客の受取価値を軸に経営を考える志向である。「人間」をど真ん中に据えて、文化芸術の価値交換を考えるアーツマネジメントやアーツマーケティングである。「顧客志向」は、団体・企業にとっては経営哲学であり、それを具体的な手法として設計するには、行動経済学や認知心理学などの消費者行動の心理に対する見識が必要とされる。

『劇場法』では芸術監督の勤務実態に厳しい条件を

さて、近い将来に成立するだろうと言われている『劇場法』(仮称)では、「創造型劇場」には「芸術監督」の必置義務が書き込まれるようだ。「芸術監督」が芸術家である場合、経営全般の責任を負う「経営監督」の必置と、経営上の権限の付与を条件としてのみ、私は「芸術監督」の必要性は容認できる。従来の「芸術監督」に経営的な知識と才覚がなかったのと、アーチストにそれを求めるは酷であり、経営上の責任まで「芸術監督」を負わせるのは無理があると思うからだ。ただ、「芸術監督」は必要ではあるが、勤務実態に厳しく条件をつけるべきと思っている。というのは、文化庁の「芸術拠点形成事業」の審査をしていた折、この補助事業でも芸術上の責任者の必置義務があったのだが、行政から現職派遣されている係長が「芸術監督」とされているケースがあった。これなどは論外であるが、ほとんどの劇場・ホールが非常勤の芸術監督となっていた。非常勤でもよいとは考えるが、私の審査した例で、音楽界の同一人物が三館で非常勤芸術監督として名前が出てきたことには驚かされた。むしろ、「呆れた」と言った方が適切である。東京で活躍している著名な指揮者であるから、どのように好意的に考えても勤務実態は一館について、あっても年間10日間程度ではないか。むしろ10日もあれば良い方である。それで地域劇場・ホールの芸術的な責任が果たせるだろうか。いかがだろうか、考えてほしい。この事例は私の許容範囲を完全に逸脱している。

勤務実態は少なくとも年間120日は満たさなければならないだろう。それでなければ、「地域に訊く」ということなど到底できず、「啓蒙主義的」な上から目線で地域を睥睨することになる。そんなことになれば、当該地域に居住する住民は被害者である。「嫌なら劇場・ホールに行かなければいい」と言われるかもしれないが、強制的に徴収された税金で設置され、運営されている以上、劇場に足を踏み入れなくとも「被害者は被害者」である。仮に勤務実態が120日であるなら、どうしても東京や海外での芸術活動をしたいと当人が希望するなら、約8カ月は当該地域外での創造活動に勤しめる。私にとっての許容範囲は、どんなに譲ってもこの程度である。「地域に訊く」ことのできない「芸術監督」は、税金で禄を食む天下りにも等しい。それをある演劇人が「天上がり」と言っていたが、「地域に訊く」ことが芸術監督の職務の重要な要素であるのに、それさえも出来ないのなら「何をか謂わんや」である。公的な資金で禄をはむ以上、「地域に訊く」責務があると考える。「覚悟」の問題ではないだろうか、「奇跡の庭」を造るという。

【次回】第四章 どんな鳥だって、想像力よりは高く飛べない。