第9回 公立劇場・ホールは何をなすべきか – アーツマネジメントの原理原則 (その3)。

2021年9月5日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

鉄道が衰退したのは、旅客と貨物輸送の需要が減ったためではない。それらは依然として増え続けている。鉄道が危機に見舞われているのは、鉄道以外の手段に顧客を奪われたからではない。鉄道会社自体がそうした需要を満たすことを放棄したからなのだ。鉄道会社は自社の事業を、輸送事業ではなく、鉄道事業と考えたために、顧客をほかへ追いやってしまったのである。事業定義をなぜ誤ったのか。輸送を目的と考えずに、鉄道を目的と考えたからである。顧客中心ではなく、製品中心に考えてしまったのだ。(セオドア・レビット『マーケティング近視眼』)

一時期、「意思のある劇場・ホール」にするためには、ミッション(使命)を定めることが特効薬のように言われていたことがある。公立劇場・ホールの活性化に大きな役割を果たすとさえ信じ込まれていた。事実、多くの公立劇場・ホールがミッションを定めたが、実効性ははなはだ疑わしい。「文化振興」とか「人材育成」とか「すぐれた芸術の鑑賞機会の提供」、あるいは「まちづくりへの寄与」など、掲げられたミッションは概して大義名分のお題目で、見事に横並びであった。ミッションを定めた以降に、劇場・ホールが古い服を脱ぎ捨てるように大きく変化を遂げたという話は聞かない。たとえば、どの様なまちづくりに、どういう道筋で寄与するのかが不明で、具体性がない。なぜこれらのミッションに説得力がなく、横並びになり、空文化してしまったのか。地域の事情も、社会環境も、将来的なまちづくりの方向性も、さらには将来の社会不安となる事項も、みなそれぞれに違っているのだから「横並び」になるはずがないのに、である。

それは、自分のところの事業や施設からミッションの組み立てが出発していたからに他ならない。したがって、ミッションが「自分たちの役割」という程度の項目を羅列したにすぎないからだ。劇場・ホールに限らず、企業や組織の成果は、その成果物を享受した社会や地域や個人という外部にあらわれる。劇場・ホールの「顧客」、正確を期せば設置・運営資金(税金)の「拠出者」への効用からミッションを立ち上げていないからである。公立劇場・ホールが何であるかを決めるのは、サービスの受益者である「拠出者」である。「我々は何者か」を自分で名乗り上げているようなミッションは、身勝手なものとなり、おのずと空文化する。「何者か」を決めるのは、サービスを受け取った「顧客(拠出者)」がそのサービスの効用によって決めるのであり、サービスの供給者が勝手に何を受け取るべきと決めるものではない。サービスそれ自体ではなく、そのサービスの機能と効用に関わる事項がミッションとなる。私たちがサービスとして提供しているのは、その「機能と効用」であるからだ。顧客や拠出者は、その「機能と効用」を購入し、受益しているのである。

私は、公立劇場・ホールは、まずもってみずからの「事業定義」をしなければならないと考えている。それが「ミッション」の骨子となる。したがって、自分たちの活動や事業を定義しなければならない。これもまた、「顧客(拠出者)」の受け取る機能と効用から出発しなければならない。この「事業定義」によっては、旧来からの「ハコモノ」のままになって一部の愛好者のみに必要な施設のままに衰退化して「ムダ」の象徴となるか、行政のミッションと同期化して新たな成長戦略にたどりつけるかの分かれ目となる。これが囃し立てられて作った空文句の「ミッション」とは異なるのは、劇場・ホールが供給するサービスによって顧客(拠出者)の受け取る効用、いわば社会的効用から出発することであり、存在する地域社会の諸事情や社会的ニーズが織り込まれて、きわめて具体的にならざるを得なくなる点だ。劇場・ホールの社会的機能から考えられた「事業定義」は、施設を社会機関化する。しかし、これは非常に難しい。

「行政のミッションと同期化して」 という文言に異議を唱える人間がいるだろう。かつて私は行政と芸術を二項対立的に考える某評論家から「行政の走狗」と批判されたことがある。二項対立で物事を考えるのなら、公立文化施設での活動を全面否定すれば良いのだが、彼はある公立文化施設の芸術監督の熱烈な擁護者であり、支持者であった。どうにも論理が矛盾している。論争するに足らない人物と思い、無視するしかないと思った。行政は無条件に芸術家を擁護するはずもないし、特定の芸術家をパトロネージュすることに住民からの理解は得られない。しかし、公立文化施設は、経済的利得を目的として(いわば、利潤を出すために、あるいは金儲けのために)自治体が設置したものではない、という初期目的を確認するのと同じ程度に、自治体のまちづくり戦略に組み込まれるかたちで設置されたことを思い起こし、再認識しなければならない。このあたりを再認識しないで議論することは不毛である。公立文化施設が「行政財産」であることは紛れもない「事実」である。その「まちづくり戦略」の中でどのような戦術を選択するかが指定管理者たる運営者に委ねられた権限なのだ。

同じく、私があえて「顧客」ではなく、この項では(税の)「拠出者」という言葉を使うのかを考えてほしい。多くの文化関係者、文化政策研究者たちが、公立文化施設が「強制的に徴収された税金で設置され、運営されている」という事実、あるいは前提を忘れているからである。劇場運営の当事者でさえ、このあたりの認識が著しく欠落している。「表現の自由」、いわゆる「自由権的文化権」を背景にして、公立文化施設が設置者たる自治体や住民主権で考えられることを「許されざる侵害」と考えているかのようである。しかし、そのように考えは、「芸術の独立」ではなく、「芸術の孤立」を進行させるだけである。可児市文化創造センターalaは、可児市にコントロールされていないが、事業のパートナー(協働者)であると位置づけている。関係部署である総合政策課、商工観光課、福祉課、いきいき長寿課、まちづくり推進課、 学校教育課、生涯学習課との協働のための協議と連携を継続的に行っている。 いかなる芸術も、いかなる機関も、社会と断絶しては成り立たない。いかなる芸術も、いかなる機関も、その成果は社会という外部にしか現れない。社会から孤立しては、芸術も機関も存在しえないことは自明である。芸術を無条件に擁護して社会から「孤立」させる論理の持ち主は、芸術と社会の関係をどのように考えているのか。あるいは啓蒙主義的な芸術擁護者であるのか。

さて、「事業定義」である。まず、「観る」、「聴く」、「参加する」は行為でしかない。したがって、「すぐれた芸術成果を鑑賞する」という定義はあり得ない。「鑑賞する」結果としてどのような社会的効用が機能し、市民の受益となるのかが拠出者から出発する「事業定義」であり、そこから派生して「ミッション」が市民にも通じる分かりやすい言葉で導き出される。可児市文化創造センターalaは、私が非常勤で就任した直後にアーラの事業を次のように定義した。「私たちは《経験価値》と、そこから派生するかけがえのない《思い出》と、さらに新しい価値による行動の《変化》とその《生き方》を提供する」、 「私たちは地域社会にコミットして、すべての 市民を視野に入れたサービスを提供し続ける《社会機関》である」と。可児市文化創造センターalaは、「変化したライフスタイル」と「変化した地域社会」と「変革された市民」とを成果とする「社会機関」である、と定義したのである。

劇場のある生活というライフスタイルを提案し、そのライフスタイルから豊かさを享受し、変革された生き方ができるように、すべての市民を視野に入れてサービスを供給するのが「人間の家=社会機関としてのアーラ」である、ということだ。

「劇場のある生活」とは、必ずしも鑑賞行為をするために対価を支払う市民を多数にすることとを意味しない。4年間で48000余人増加して、現在年間32万余人になっている来館者のうち、鑑賞対価を支払っているのはおよそ一割の3万2188人(2009年度実績)である。来館者の大半は、貸館・貸しギャラリーの催し物を鑑賞しにみえたか、貸諸室で自らの文化活動に勤しんだか、自由にいられるロビーや芝生の広場で各々の楽しみのひとときを過ごしたか、である。私は「市民が羽を休める止まり木」と、よくアーラを喩える。鑑賞に限らず、どのようにアーラを楽しんでも、「生活の中の癒し」の場となり「生きる意欲」の発火点になれば、劇場は「事業定義」にそったサービスを提供しているのであり、市民はそれを享受しているのだと私は思っている。

ふたたび言を重ねるが、「事業定義」にしても、「ミッション」にしても、私たち劇場が「何を売りたいか」ではなく、市民が「何を価値として、何を欲しているのか」から出発点でなければならない。一方、民間の劇団や音楽団体は、芸術的信条やミッションで結集しているのであり、高度な芸術的成果を売りたいと思うのは当然の理である。顧客はそれに触れるために客席に身を置くのであるが、公立文化施設はそれと大きく異なっている。「異なる」というよりも芸術団体とは別物とさえ言える。芸術的使命を持っている公立劇場・ホールはあっても良いが、日本では五指に余る程度である。しかも、その芸術的成果によって、その地域の住民(拠出者)がその地域に生活していることに何らかの誇りや矜持、さらには「変化」が生じなければ「公立」である存在証明とはならない。芸術的成果のみを期待する住民が少数であることは疑いのないところだ。したがって、その芸術的成果が住民や地域に何らかのかたちでフィードバックされなければ、それは民間が自己資金でやればよいということになる。とりわけ地域劇場では、住民へのフィードバックがどのように仕組まれているかが、評価のポイントとなる。

先に「劇場運営の当事者である人間でさえも、このあたりは認識が著しく欠落している」と書いたが、尖鋭的な作品やスターの出ている大型公演にシフトしている有名な公立劇場・ホールが地域にないわけではない。彼らに「事業